| 元稹 | |
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| プロフィール | |
| 出生: | 大暦14年(779年) |
| 死去: | 大和5年7月23日(831年9月3日) |
| 職業: | 詩人・文人 |
| 籍貫地: | 河南府河南県 |
| 出生地: | 長安靖安里 |
| 各種表記 | |
| 繁体字: | 元稹 |
| 簡体字: | 元稹 |
| 拼音: | Yuán Zhěn |
| 繁体字: | 微之 |
元 稹(げん しん・げん じん、中国語: 元稹; 拼音: Yuán Zhěn; ウェード式: Yüan Chen、大暦14年(779年) - 大和5年7月23日(831年9月3日))は、中国唐代中期の詩人・文人・宰相。字は微之(びし)。元九とも。白居易の親友で、元白と並称される。本貫は河南府河南県であるが、長安靖安里に生まれた[1][2]。
代王拓跋什翼犍(北魏の道武帝の祖父)の子の拓跋力真の十二世孫にあたる。隋の元巌の六世孫にあたる。しかし、彼の代には零落し、幼くして父を失い母の手一つで育てられた。15歳で明経科に、28歳で進士に合格、左拾遺から河南(洛陽)の県尉さらに監察御史となったが、宦官仇士元との紛争で江陵府の司曹参軍に左遷された。虢州の長史をしているときに召し出されて首都へ行き、中書舎人・承旨学士となり、穆宗の時期に工部侍郎・同中書門下平章事(宰相)に進んだが、4カ月で罷免され、都を出て同州刺史となり、越州に転じ浙東観察使を兼ねた。大和3年(829年)に都にもどり、尚書左丞となった。大和4年(830年)に検校戸部尚書となり、鄂州刺史に武昌軍節度使を兼ねた。大和5年(831年)、その地で急病により53歳で没した。尚書右僕射が追贈された。
出世に熱心のあまり、監察御史であったときはしばしば地方官の不正を糾弾し、大政治家の裴度と勢力争いに及ぶ。元稹はその詩文を穆宗に喜ばれ、さらに宦官の巨頭・崔潭峻と仲がよいので任官できたとも言われる。一時期不遇で文学に専心。楽府体の詩歌に社会批判を導入し、叙事詩的手法を駆使して新楽府という新生面をひらく。そのため「才子」とも称せられた。やがて白居易と「元白」と並称されるほど交流を深め、和答(わとう、唱和での返詩)に次韻(じいん)という形式を創造し「元和体(げんわたい)」または「元白体(げんぱくたい)」として一世を風靡した。
伝奇小説の『鶯鶯伝』[3][4]では曲折に富む構成と達意な筆致で、以後に流行する小説を先導した[5]。元氏長慶集』60巻にほぼ全作品が収められている[6][7]。
31歳の時に若く貧しい時代から苦労を共にした4歳下の妻の韋叢を病で亡くし、その悲しみを綴った悼亡詩(妻の死を悲しむ詩)「遣悲懐」を詠んでいる。
『元氏長慶集』の諸伝本や作品本文の復元に資する図書には以下のものがある。
元稹の諸小説の研究に資する図書には以下のものがある。
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