内藤政陽

ウィキペディアから、無料の百科事典
 
内藤政陽
時代 江戸時代中期
生誕 元文4年5月19日(1739年6月24日)
死没 天明元年閏5月21日(1781年7月12日)
改名 億助(幼名)、政陽
戒名 悳敬院法山居士
墓所 神奈川県鎌倉市の光明寺
官位 従五位下能登守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家重→家治
藩 日向延岡藩主
氏族 内藤氏
父母 父:内藤政里、母:不詳
養父:内藤政樹
兄弟 政陽、政苗ら
妻 正室:岡部長著の娘
側室:根岸氏
子 政韶、政峻、内藤政脩正室
養子:政脩
テンプレートを表示

内藤 政陽(ないとう まさあき)は、江戸時代中期の大名。日向国延岡藩の第2代藩主。官位は従五位下・能登守。延岡藩内藤家宗家7代。

生涯

元文4年(1739年)5月19日、上野国安中藩の第2代藩主・内藤政里の次男として誕生。延岡藩初代藩主である内藤政樹の実子・政尭が宝暦4年(1754年)に早世したため、養子として迎えられた。宝暦6年(1756年)10月21日、政樹が隠居したため家督を継いだ。

藩の財政悪化のため、家臣の半知借上や俸禄制の改定を行ったが、明和3年(1766年)の時点で借金は10万5563両という莫大なものであり、焼け石に水程度の改革でしかなかった。

明和5年(1768年)、本小路「川手口」(現社会教育センター)に学問所(学寮)と武芸所(武寮)を設立し、学寮では、朱子学の山本与兵衛を監督、白瀬道順を講師、佐久間左膳を儒学執行に命じた。全国的に見ても比較的早い時期(全国280藩中50番目位)、日向諸藩では最初の藩校開設である。学寮は嘉永3年(1850年)に「廣業館」と改称された。

明和7年(1770年)10月29日、家督を婿養子・政脩に譲って隠居する。

天明元年(1781年)閏5月24日、江戸で死去した。享年43。

系譜

父母

正室

側室

  • 根岸氏

子女

養子

脚注

  1. ↑ 内藤学文の養子。