分派の禁止

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分派の禁止(ぶんぱのきんし、英語: Ban on factions)とは、ソビエト連邦共産党をはじめとする各国共産党において、政党内分派(セクト)や派閥の禁止措置のことである。1921年3月のロシア共産党(ボリシェヴィキ)第10回党大会において党内分派(派閥)の禁止が決議された[1][2]。

分派とは、共産党の方針に異議を唱えたり、党指導部・指導者の変更を要求するようなグループのことであるが[3]、ウラジーミル・レーニンは分派とは「党内民主主義のあらわれでなく、したがって根絶すべきだ」と語り、スターリンも「分派とはソ連体制では必然的に白軍に転落し、ソビエト権力の敵と結びつく」と語った[4]。ボリシェヴィキ指導部では分派とは「敵の第五列(内部に潜む敵)」を意味した[4]。

分派の禁止は「民主集中制」に基づくとされた[5][2]。

背景

ウラジーミル・レーニンははやくも1902年の『なにをなすべきか?』では題辞に「党は自らを浄化することで強くなる」と掲げていたが「党内闘争は党に力と活力を与える。党の弱さを示す最大の証拠は、党の拡散と明確な境界線の曖昧化である。党は自らを浄化すること(purging)で強くなる。」(1852年6月24日付ラサールからマルクスへの手紙)と掲げていたが[6]、この萌芽が国家レベルで体現されることとなった[7]。

1920年以降、ソ連共産党の党大会では、党内の反対派グループに対する懸念が強まっていた。1919年3月には「民主的中央集権派」が結成され、1921年までにはアレクサンドル・シュリャプニコフが「労働者反対派」を立ち上げた。レフ・トロツキーは、レーニンを支持する僅差の多数派に対抗する形で、党活動家や中央委員会のメンバーの間にかなりの支持基盤を有していた。また、ヨシフ・スターリンが書記長に任命される前には、トロツキー派が、オルグビューロ(組織局)や党書記局を掌握していた[8][9]。党内の各派はレーニンの指導部を批判していた。

党大会は、1921年の飢饉やクロンシュタットの反乱といった危機を収拾するために党の団結が必要とされる中で、これらの反対派やトロツキー派を党の混乱と見なした。

1921年の党の統一に関する決議

1921年3月8日から16日にかけての第10回ロシア共産党大会で、レーニンは、あらゆる反対意見を禁止し、党の一枚岩の団結を目指し[7]、党内の派閥主義を排除するために派閥の結成を禁止する「党の統一に関する決議」が採択された[10][11]。以下が決議された。

  • 現下の状況において、党の団結はこれまで以上に必要である。
  • クロンシュタットの反乱は、「世界各国のブルジョワ反革命勢力や白衛軍」によって、ロシアにおけるプロレタリア独裁政府の打倒を図るために利用されている。
  • 実務的でない分派的な批判を断固として拒否する。批判や異論の評価は、共産党指導部にで検討・決定される。
  • 「サンジカリズムやアナーキズムへの逸脱」は「原則として」否定されたが、「民主的中央集権派(民主的中央集権グループ)」の主要な提案は受け入れられた。
  • この決議に従わない場合は、無条件かつ即時の除名となる。あらゆる派閥主義を根絶するために、派閥主義の容認があった場合、あらゆる懲罰措置を適用する。
  • 党員においては、団結と結束、完全な信頼、プロレタリア的前衛の意志の統一を体現する友好的な活動が求められる。しかしながら、党内には派閥主義(分派主義)の兆候、すなわち独自の綱領と団結力を持ち、独自の集団規律を築こうとする意志を持つ集団が出現しつつある。
  • 階級意識のある労働者は、いかなる派閥主義も有害であり、容認できないことであることを明確に認識しなければならない。派閥主義は、必然的に非友好的な仕事につながり、敵が偽りの口実で共産党に加わり、分裂を深めて反革命に利用しようとする度重なる激しい試みにつながるからである。
  • プロレタリアの敵が、共産主義路線からの逸脱を利用するという事実は、クロンシュタット蜂起の例に最も明確に表れている。この蜂起において、世界各国のブルジョア反革命勢力と白軍は、ロシアにおけるプロレタリア独裁が打倒されさえすれば、ソビエト体制を支持するスローガンでさえも即座に受け入れる用意があると表明した。すなわち、社会革命党とブルジョア反革命勢力は、ソビエト体制を支持する水兵の蜂起を支持するが、ボリシェヴィキのソビエト政府には反対すると表明した。これは、白軍が、ロシアにおけるプロレタリア革命を打倒するためには、共産主義者の仮面を被り、さらには共産主義よりも「左派」の立場を取ることさえも行うことを証明した。クロンシュタット蜂起前夜にペトログラードで配布されたメンシェヴィキのビラは、メンシェヴィキが共産党内部の意見の相違を利用して、クロンシュタットの反乱、社会革命党、白隊を支援していたことを示している。(略)
  • 党組織は、党の欠点に対する批判、党の路線に関する分析、実践の成果の総括、党の決定の履行状況の検証、誤りの是正策の検討などが、何らかの綱領に基づいて形成されたグループによってではなく、全党員によって討論されるよう厳格に管理することが不可欠である。(略)批判を表明する者は皆、敵の包囲下にある党の状況を自覚し、ソビエトと党の活動への直接的な参加を通じて、党の誤りを正すべく実践しなければならない。
  • 党大会は、中央委員会に対し、あらゆる種類の分派主義の完全な破壊を指示する。また、非プロレタリア的かつ信頼できない分子の党内からの排除(粛清 purging)、官僚主義との闘い、労働者階級における民主主義とイニシアティブの発展などに関しては、いかなる実務的な提案も最大限の注意を払って検討し、検証しなければならない。(略)党は、実務的でない分派的な批判を断固として拒否する。党は、官僚主義と闘い、民主主義とイニシアティブを拡大し、そして偽りの口実で党に忠誠を誓う者たちの摘発と追放のために、たゆむことなく、絶えず新たな方法を試しながら、あらゆる手段を講じていく。
  • 大会は、何らかの綱領に基づいて結成されたすべてのグループの例外なき即時解散を命じ、すべての組織に対し、いかなる派閥主義の兆候も容認しないよう厳格に監視するよう命じる。この決議に従わない場合は、無条件かつ即時の除名となる。党内およびソビエト活動全体において厳格な規律を確保し、あらゆる派閥主義を根絶しながら最大限の団結を達成するために、大会は、規律違反、派閥主義の復活もしくは容認があった場合、除名を含むあらゆる懲罰措置を適用する権限を中央委員会に与える。中央委員が関与している場合は、候補委員に格下げし、極端な場合には除名も可能である。(略) — 「党の統一について(抄訳)」1921年3月16日[12]

決議案第7条は、党の規律の違反した場合は除名、そしてあらゆる懲罰を中央委員会に委ねるとされたが、レーニンはこれを分裂の危機にさらされた例外の場合のみに適用されるとして極秘条項にした[13]。

決議以後

1923年9月、分派のひとつである「労働者の真実」のメンバーが逮捕され、12月に党から除名された。この時、アレクサンドル・ボグダーノフも逮捕された。

内戦後、トロツキーの「左翼反対派」や、ニコライ・ブハーリン、グリゴリー・ジノヴィエフらのグループといった大規模な分派が現れた。こうした分派の活動は数年間にわたって容認されていため、分派の禁止は一時的措置を意図していたと主張するマルクス主義者もいた[14]

1927年11月12日にトロツキーとジノヴィエフが追放された際、その正当化の根拠として「派閥の禁止」が利用された。レーニン自身は、反対派の綱領(プラットフォーム)を恒久的に禁止することは不可能であるという見解をとっており、例えばブレスト=リトフスク条約のような問題が再び浮上した場合には、綱領に基づいた投票が必要になるだろうと述べていた[15]。しかし、実際には、こうした投票を要求することは分派行為とみなされ、スターリンの統治下では禁止された。

民主集中制

1921年の分派禁止決議は、民主集中制(民主主義的中央集権制)の原理とむすびつき、「一枚岩の党」「鉄の規律」「軍隊的規律」「上級の決定の無条件の実行」といった「集権主義」的性格を補強するものとなっていった[2]。

1934年のソ連共産党規約には、党指導部の選挙制、党規律への服従、全党員は上級機関の決定に無条件で拘束されることが明記され[2]、さらに前文および「党規律」に関する第11章第57条条文において分派の禁止が明記された[16]。

*党の強さは、綱領からの逸脱、党規律への違反、及び党内でのフラクショ ン的グループと両立しないその結束性、意志と行動の統一に存する。
  • 党の政策の諸問題に関する広範な討議、とりわけ全連邦的な規模の討論は、(中略)党のとるにたりない少数者が膨大な多数者に自己の意志 を押しつけようという試み、あるいは党の統一を破壊するフラクション的グループの結成の試みをもたらすことがないような形で組織されなければならない。1934年ソ連共産党規約,前文、第11章第57条][16]

コミンテルンと各国共産党

さらにコミンテルンの加入条件に「鉄の規律」や「反対する党員の除名」(12,21条)も明記され、各国共産党をも拘束した[2]。

この「民主集中制」は形式的には選挙制を認めるものであった。しかし、実際には「分派の禁止」が付加されており、「選挙を目的とした組織活動」はタブーとされた[16]。実際、「党内民主主義」は制限された[2]。

ただし、コミンテルンでは1921年7月の第三回大会の「共産党の組織建設、その活動の方法と内容についてのテーゼ」や、1924年規約、1925年の「党の組織構成テーゼ」、同年規約などでは「分派の禁止」は明記されなかった[16]。これはコミンテルンで分派が容認されていたわけではなく、「分派の禁止」は前提とされていたからだった[16]。

日本共産党の1926年規約第5条では「党の統一のための必須条件は、党内フラクション(分派)の絶対的拒否である」と明記された[16]。その後も1945年規約、また2000年の規約改正でも「党内に派閥・分派はつくらない」と規定された[16]。

イタリア共産党は1946年規約で、フランス共産党は1972年規約で、分派の禁止が規定された[16]。フランス共産党員であった哲学者ルイ・アルチュセールは、党の構造には「絶対的な縦割り構造」が必須であるとし、すべての党員を上の中央委員会へと通じる、狭い吹き抜けのなかに閉込めるべきだとしたうえで、党員や細胞同士の《横の関係》をうちたてようとする試みは《分派行動》であると主張した[16]。

中国共産党では2017年、2022年規約第3条第5項で「派閥的、分派的活動に断固として反対すること」と規定された[16]。

政治学者後房雄は、民主集中制の核心に、分派の禁止があると理解するべきだと指摘している[16]。

粛清と大テロルへの道

1921年粛清

歴史家のT・H・リグビーとシェイラ・フィッツパトリックによれば、1921年秋の粛清も、分派禁止の決定と関連していた。この粛清の過程で、すべての共産党員は査問委員会への出頭を求められ、革命家としての資質を証明するよう迫られた。レーニンは、革命の方向性が本来の目的から逸脱しないようにするためには、粛清が必要であると主張した。公式には、この粛清は特定の分派を標的としたものではなく、「階級の敵」を排除するためのものとされていた。共産党中央委員会が出した粛清に関する通達では、「党内で異なる考えを持つ人々(例えば『労働者反対派』など)」を弾圧するためにこの措置を利用することを禁じていた。しかし、フィッツパトリックとリグビーは、党員の約25%が「不適格」と判断されたという事実を踏まえると、その中に反対派が一人も含まれていなかったとは考えにくい、と指摘している[17]。

とはいえ、1921年の粛清は限定的だった。というのも、反対派の有力メンバーは誰一人として粛清されておらず、彼らは他の不当な扱いについては声を大にして不満を述べていたにもかかわらず、こうした粛清の利用について不平を漏らすことはなかった[18]

大テロル(大粛清)

1929年にはブハーリンらが「分派活動」を行なっているとの容疑で調査がはじまっている。こうした「分派」摘発はのちの大粛清へと発展していった。スターリンの忠実な右腕だったモロトフは大粛清について「戦争時に第五列がいないようにするため」と正当化した[19]。

評価

ウラジーミル・レーニンはこの禁止措置を一時的なものと位置づけた[20][21][22][23]。また、恒久的な分派禁止を求める修正案については、「過度」であり「実行不可能」だとして却下した[24][25]。しかし、一時的な措置とされた分派禁止であったが、その後、恒久的な規範となり、さらにスターリンが権力を掌握する際に重要な武器となった[3]。トロツキーはこのことについて、分派禁止はボルシェヴィキの英雄的な歴史を終結させ、官僚制的な衰退をもたらしたと指摘している[3]。

この派閥の禁止によって党内の議論や討論が即座に停止されたわけではなかったが、スターリン派が支配を固めてからは議論は不可能になった[3]。これはコミンテルンや各国の共産党においても永続的な影響を及ぼし、たとえば、スターリンが押し付けた「人民戦線」路線をこれらの組織は受け入れていった[3]。

リーブマン、E・H・カー、渓内謙、藤井一行らは分派禁止は一時的措置であったとする[16]。

政治哲学者マレイ・ブクチンは、この禁止令が「一時的なもの」であったことは認めつつも、レーニンの行動や著作のどこにもこの禁止令を撤廃する余地を認めていたことを示すものはない、と指摘している[26]。

トロツキー派の歴史家ヴァディム・ロゴヴィンは、派閥の禁止は党内議論の禁止を意味するものではなかったと述べ、ロシア共産党第10回大会における「最も重要なあらゆる問題に関する広範な議論、および党内批判の完全な自由を伴うそれらについての議論」を求めた決議を引用した。またロゴヴィンは、1921年の党の統一に関するレーニンの結語で、綱領に基づく党大会代議員の選出を禁止しようとする修正案に反対を表明していたことを指摘している[27]。

歴史学者エレーヌ・カレール・ダンコースによれば、党の統一に関する決議は、多数派によって断罪された思想の流布を禁じるものだった[28]。そして、いかなる分派活動(分派主義・派閥主義)も有害であると禁止された[13]。法学者藤田勇も同様の見解である[29]。

こうしてそれまで慣行でしかなかったものを大会で公認させ、不可侵の原則にした[30]。このような絶対主義は、党内民主主義のために必要だとレーニンは正当化した[30]。ラデックは分派の禁止と除名措置は、やがて例外ではなくなるといいながらも、党の統一のための唯一の方策だと考え、賛成した[13]。除名措置に関して議論すべきだと主張したクレスチンスキーとプレオブラジェンスキーとセレブリャコフは再選されず、かわって、スターリン、モロトフ、オルジョニキゼ、フルンゼ、フォロシロフ、クイビシェフらスターリンに近いものが昇進した[30]。

脚注

  1. ↑ “10th Congress -- On Party Unity”. marxists.org. 2021年12月19日閲覧。
  2. 1 2 3 4 5 6 『民主集中制』 - コトバンク
  3. 1 2 3 4 5 Nimtz, August H. (13 March 2014) (英語). Lenin's Electoral Strategy from 1907 to the October Revolution of 1917: The Ballot, the Streets—or Both. Springer. p. 170. ISBN 978-1-137-38995-4
  4. 1 2 下斗米伸夫 2002, p. 45.
  5. ↑ Lenin, Vladimir (1906). "Report on the Unity Congress of the R.S.D.L.P." "VIII. The Congress Summed Up". Marxists Internet Archive. Retrieved 14 February 2020.
  6. ↑ What Is To Be Done? ,Lenin Internet Archive
  7. 1 2 カレール・ダンコース 2006, p. 553.
  8. ↑ Daniels, Robert V. (1 October 2008) (英語). The Rise and Fall of Communism in Russia. Yale University Press. p. 162. ISBN 978-0-300-13493-3
  9. ↑ Reiman, Michal (1992). Trotsky and the struggle for "Lenin's heritage". Brotherstone, Terence; Dukes, Paul,(eds). Edinburgh University Press. pp. 42–52. ISBN 978-0-7486-0317-6
  10. ↑ Resolution On Party Unity
  11. ↑ T.Fiehn, C.Corin Communist Russia under Lenin and Stalin (2005)
  12. ↑ On Party Unity,16 March 1921, Soviet History Archive (marxists.org) 2002.
  13. 1 2 3 カレール・ダンコース 2006, p. 557.
  14. ↑ “Russia: From Revolution to Counter-revolution – Part One”. 2026年10月30日閲覧。
  15. ↑ V. I. Lenin. “Tenth Congress of the R.C.P.(B.), "Remarks On Ryazanov’s Amendment To The Resolution On Party Unity" March 16, 1921”. www.marxists.org. 2025年6月1日閲覧。
  16. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 後房雄「イタリア共産党と日本共産党における民主集中制の変遷(1)」名古屋大学法政論集304号、2024,p.1-90,特に5-17.
  17. ↑ Fitzpatrick, The Russian Revolution, p.102
  18. ↑ Thomas Henry Rigby, Communist Party Membership in the U.S.S.R.,Princeton University Pres,1968.
  19. ↑ 下斗米伸夫 2002, p. 99.
  20. ↑ Fitzpatrick, Sheila (2017) (英語). The Russian Revolution. Oxford University Press. p. 102. ISBN 978-0-19-880670-7
  21. ↑ Smaldone, William (16 October 2019) (英語). European Socialism: A Concise History with Documents. Rowman & Littlefield. p. 162. ISBN 978-1-78661-159-8
  22. ↑ McCauley, Martin (11 September 2002) (英語). Who's Who in Russia since 1900. Routledge. p. viii. ISBN 978-1-134-77213-1
  23. ↑ Sakwa, Richard (12 November 2012) (英語). Soviet Politics: In Perspective. Routledge. p. 46. ISBN 978-1-134-90996-4
  24. ↑ Lorimer, Doug (1997) (英語). The Collapse of Communism in the USSR: Its Causes and Significance. Resistance Books. p. 18. ISBN 978-0-909196-73-8
  25. ↑ Ленин В. И. Полн. собр. соч. т. 43. С. 108.
  26. ↑ Bookchin, Murray (15 June 2004) (英語). The Third Revolution: Popular Movements in the Revolutionary Era. A&C Black. p. 309. ISBN 978-0-8264-5054-8
  27. ↑ Rogovin, Vadim Zakharovich (2021) (英語). Was There an Alternative? Trotskyism: a Look Back Through the Years. Mehring Books. p. 39. ISBN 978-1-893638-97-6
  28. ↑ カレール・ダンコース 2006, p. 556.
  29. ↑ 藤田勇 2007, p. 183.
  30. 1 2 3 カレール・ダンコース 2006, p. 558.

参考文献

  • 下斗米伸夫『ソ連=党が所有した国家』講談社、2002年。 
  • カレール・ダンコースエレーヌ 著、石崎晴己・東松秀雄 訳『レーニンとは何だったか』藤原書店、2006年。 (原著1998年)
  • 藤田勇『自由・民主主義と社会主義 1917-1991』桜井書店、2007年。 
  • 後房雄「イタリア共産党と日本共産党における民主集中制の変遷(1)」名古屋大学法政論集304号、2024,p.1-90,

外部リンク

関連項目