前田 勝之助
生誕 (1931-02-05) 1931年2月5日
福岡県嘉穂郡穂波村大字忠隈
死没 (2013-04-07) 2013年4月7日(82歳没)
東京都
死因 肺炎
国籍 日本の旗 日本
出身校 熊本大学工学部
京都大学大学院工学研究科
職業 経営者
配偶者 京子(けいこ)
親 父 繁師(しげのり)
母 道枝
テンプレートを表示

前田 勝之助(まえだ かつのすけ、1931年2月5日 - 2013年4月7日)は、日本の技術者・経営者。東レ名誉会長。

生い立ち

福岡県嘉穂郡穂波村大字忠隈(現:福岡県飯塚市)に生まれる。父・繁師(しげのり)は住友鉱山忠隈炭鉱の病院の薬局長、母・道枝は山鹿(熊本県)の御殿医の流れを汲む竹下病院の長女。住友鉱山の庭付きの社宅で育った。姉・上野栄子、兄・慶之助[1]。

菰田小学校時代、約50人の学級の中に朝鮮人が5、6人おり、彼らは1、2歳年上だった。日本人と朝鮮人の生徒間の喧嘩が始まると、級長の前田は間に割って入った[1]。

嘉穂中学校時代は勤労動員に遭遇し、炭鉱で採炭の仕事に明け暮れた。男たちは戦争に駆り出され人手不足だった。切り羽の発破作業もこなした[1]。

父親が住友鉱山を辞し郷里の熊本に起業したため、約半年の一人暮らしののち、嘉穂中学から熊本中学に転校した。このとき2名の転入枠に引揚者の子弟が殺到し、転入試験の倍率は100倍に及んだ。

エピソード

技術者として

炭素繊維の開発

ナイロン紡糸装置

テトロン収率改善

シルック開発

経営者として

繊維事業再建

1972年(昭和47年)の日米繊維交渉での対米輸出自主規制以降、2度の石油ショック、プラザ合意による円高により日本の繊維産業は縮小し続けていた。この頃、東レも同様に脱繊維の方向を採っていた。

経営企画室技術企画担当に就任後、東南アジアに展開していた東レの海外工場のコスト・品質を改善、1年で黒字体質に転換させた。さらに、社長就任後は東南アジアの繊維企業を買収し欧米向輸出を主力とする一大加工基地に発展させた。

ユニクロとの提携

繊維の流通改革を標榜して大規模小売業のユニクロと提携した(2000年)。ここから、フリース(1999年)、ヒートテック(2003年)、ダウンジャケットなどヒット商品が生まれた。

中国事業参入

江蘇省南通市にナイロン・ポリエステル原糸と織布・染色の一貫工場を総額約500億円を投じて建設し、中国事業に本格的に参入した(1994年)。

CEOに復帰して危機対応

2000年前後、アジア通貨危機、米国同時多発テロ、ITバブル崩壊と連続した事件により、東レも赤字転落。1997年に会長に退いていたが2002年再度CEOに復帰、第一線に立って活動し業績をV字回復させた。

次世代経営者育成

本務を達成して60点、ヨコとナナメの組織に貢献して30点、心配り10点

財界人として

アジア振興

社長時代に、インドネシア、マレーシア、タイに科学技術振興財団を設立し、東南アジア諸国の科学技術振興に努めた。

税制委員長

科学技術政策関連

信条

経歴

受章

脚注

  1. 1 2 3 日本経済新聞2011年10月連載 私の履歴書
  2. ↑ 東レ名誉会長の前田勝之助氏死去、82歳「中興の祖」として経営改善 産経新聞 - archive.today(2013年4月27日アーカイブ分)
  3. ↑ 「2001年秋の叙勲 勲三等以上と在外邦人、外国人叙勲の受章者一覧」『読売新聞』2001年11月3日朝刊
先代
伊藤昌壽
東レ社長
1987年 - 1997年
次代
平井克彦
先代
伊藤昌壽
日・タイ経済協力協会会長
1997年 - 2010年
次代
榊原定征
先代
大賀典雄
日本知的財産協会会長
2001年 - 2003年
次代
三浦昭
⌬ Phoenix Mesh CID: 未登録 IPFS未登録 📡 0ピア N=1 CRITICAL PQS C48