北畠八穂
北畠 八穂(きたばたけ やお[1][2][注釈 1]・きたばたけ やほ[3] [4] [5]1903年(明治36年)10月5日[3][4] - 1982年(昭和57年)3月18日[3][4])は日本の作家、児童文学者、詩人。本名、北畠美代[4]。
生涯
八穂は、1903年10月5日[3][4]、10人きょうだいの6番目の次女として[6][注釈 2]、青森市莨町に生まれた[4]。父は北畠慎一郎といい[4]、青森大林区署の役人であった。母は、伊代という[4]。また、八穂が幼少の頃には、まだ祖母も存命であった。八穂は、祖母から、津軽地方に伝わる昔話やわらべ唄などを聞かされて育ったといわれている[4]。
八穂は、青森女子師範付属小学校へ入学[4]。その後、青森県立青森高等女学校(現在の青森県立青森高等学校)に進学した[4]。
1920年、青森県立青森高等女学校(現在の青森県立青森高等学校)在学中、『主婦の友』『婦人倶楽部』に投稿して入選を果たす[4]。 1922年、八穂は、高等女学校を卒業。その後に上京し、実践女学校高等女学部国文専攻科に入学したが[4]、脊椎カリエスを病んだため1年半で中退し、青森に帰郷。 八穂は、病床に就くことになったが、それによりいっそう文学への愛情を深めていくこととなった。八穂はこの期間に、堀辰雄、川端康成、高見順といった作家たちと交友を深めていった[4]。
恢復後、1924年から青森県内の複数の尋常小学校に代用教員として勤務。しかし脊椎カリエスが再発したため、1926年に退職。病気療養中、『改造』に投稿したことが契機となり、同誌編集者の深田久弥と恋に落ちる[7]。
1929年に上京し、千葉県我孫子や東京市本所区で深田と同棲。しかし、八穂の健康状態を理由に深田の父に反対されたため、入籍は叶わなかった。
八穂は文才豊かだったが、標準語で文章を書くことに困難があり、また自分が寝たきりであることに関して深田に負い目があったため、夫を蔭から支える形で深田に自らの原稿を提供した。それらの原稿に基づき、深田は『あすならう』『オロッコの娘』『津軽の野づら』『贋修道院』『鎌倉夫人』などの小説を発表し、新人作家として注目を浴びた。時には深田自身が独力で小説を書くこともあったが、それらはことごとく失敗作に終わった。
1940年に入籍し、深田姓となる。しかし1943年5月、深田の不実(八穂の目が及ばないのを利用して初恋の女性と秘密の逢瀬を重ね、子供まで儲けていた)を知るに及び、家庭は夫婦の葛藤で泥沼状態となった。
1947年、深田と離婚すると同時に、代作の件を全て世間に公表。以後は自分の名前(北畠八穂)で作品を発表した[10]。
1948年、鎌倉山に転居[8][9]。当時20代だった児童作家の白柳美彦と同棲を始め内縁となる。傍ら、『銀河』『少女クラブ』『ひまわり』『少年倶楽部』などの雑誌に童話を発表。
1962年、深田から受けた裏切りや代作について『右足のスキー』(『新潮』5月号)で仄めかした。1972年、『鬼を飼うゴロ』で第10回野間児童文芸賞、第19回産経児童出版文化賞大賞受賞。
1982年3月18日、川崎市虎ノ門病院分院にて、閉塞性黄疸症で死去[11]。享年78。
著作
- 『もう一つの光を』(新潮社) 1948
- 『雪童』(創元社) 1948
- 『大すきクラブ』(国民図書刊行会) 1948
- 『米つぶおよめさま』(講談社) 1948
- 『火あり 令女小説』(かに書房) 1948
- 『ジローブーチン日記』(新潮社) 1948、のち角川文庫、偕成社文庫
- 『アダ名は進化しつつ 少女小説』(大日本雄弁会講談社) 1948
- 『マコチン虹製造』(さ・え・ら書房) 1949
- 『マコチン』(同和春秋社) 1950
- 『ささやかな滴も 中学生の読物』(宝文館) 1952
- 『あくたれ童子ポコ』(光文社) 1953、のち講談社文庫
- 『若ければこそ』(光の友社) 1955
- 『またなきいまを』(大日本雄弁会講談社、ミリオン・ブックス) 1956
- 『お山の童子と八人の赤ん坊』(光文社) 1957
- 『りんご一つ』(宝文館) 1957
- 『未知の界へ』(講談社、ロマン・ブックス) 1958
- 『破れ穴から出発だ』(講談社) 1963
- 『木のすず・土のすず』(あかね書房) 1965
- 『御伽草子』(訳編、ポプラ社、古典文学全集) 1965
- 『東宮妃』(文治堂書店) 1966
- 『一郎べえのいの字』(東都書房) 1968
- 『耳のそこのさかな』(ポプラ社) 1968
- 『小説太田幸司』(ポプラ社) 1970
- 『鬼を飼うゴロ』(実業之日本社) 1971、のち角川文庫
- 『すばらしいこと 人生随筆』(実業之日本社) 1971
- 『ウフフ・アッハハ』(ポプラ社) 1972
- 『2じょうまの3にん』(ポプラ社) 1972
- 『高沢村の耳よし門太』(実業之日本社) 1973
- 『ワンコがニャン』(ポプラ社) 1973
- 『霧のヨネ八』(講談社) 1973
- 『かべのわれめのこけの花』(実業之日本社) 1974
- 『とっておきの水曜日』(ポプラ社) 1974
- 「北畠八穂児童文学全集」全6巻(講談社) 1974 - 1975
- 『草なめどんべえ』(あかね書房) 1975
- 『透った人人』(出帆社) 1975
- 『明りになったかたつむり』(岩波書店) 1976
- 『パの次ァピ,ピの次ァプ』(国土社) 1978
- 『かじやの鬼コ』(国土社) 1978
- 『阿母やあい』(偕成社) 1979
- 『海ぼうずはなぜいない』(国土社) 1980
- 『透きとおった人々』(東京新聞出版局) 1980
- 『不屈の人ベートーベン』(音楽之友社) 1980
- 『魂やあい』(東京新聞出版局) 1980
- 『ぼく歩けます』(こずえ) 1981
- 『津軽野の雪』(朝日新聞社) 1982
回想・伝記
脚注
注釈
出典
- ↑ 『青森県風土記』第3巻(東京堂出版、1984年)p.25
- ↑ 『毎日年鑑』1970年版、p.72
- 1 2 3 4 八穂北畠『日本人名大辞典/ JapanKnowledge Lib』講談社。2026年10月4日閲覧。
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 八穂北畠『日本近代文学大事典/ JapanKnowledge Lib』講談社。2026年10月4日閲覧。
- ↑ 八穂北畠『日本大百科全書(ニッポニカ)/ JapanKnowledge Lib』小学館。2026年10月4日閲覧。
- ↑ “かまくらのとも”. 2026年10月4日閲覧。
- ↑ “文学者掃苔録”. 2026年10月4日閲覧。
- 1 2 『企画展 女流作家と鎌倉』鎌倉文学館、2002年、21頁。全国書誌番号:20345353。
- 1 2 伊藤玄二郎 編『文学を歩く 鎌倉の文学 小事典』かまくら春秋社、2005年5月15日、95頁。ISBN 4-7740-0295-X。
- ↑ “文学者掃苔録”. 2026年10月4日閲覧。
- ↑ “文学者掃苔録”. 2026年10月4日閲覧。
外部リンク