古市町 (奈良市)
| 古市町 | |
|---|---|
| 町 | |
北緯34度39分31秒 東経135度50分23秒 / 北緯34.65861度 東経135.83972度座標: 北緯34度39分31秒 東経135度50分23秒 / 北緯34.65861度 東経135.83972度 | |
| 国 |
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| 都道府県 |
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| 市町村 |
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| 人口情報(2020年(令和2年)10月1日現在[1]) | |
| 人口 | 4,126 人 |
| 世帯数 | 1,724 世帯 |
| 郵便番号 | 630-8424[2] |
| 市外局番 | 0742[3] |
| ナンバープレート | 奈良[4] |
古市町(ふるいちちょう)は、奈良県奈良市にある地名である。中心市街地の南東、岩井川の流域に位置する。郵便番号は630-8424[2]である。当地域の人口は4126人(2020年(令和2年)10月1日現在、国勢調査)[1]である。 中世には大和国添上郡の古市郷とよばれ、国人古市氏の本拠であった。
地名の由来
『大和志料』は、古市を今市に対する呼び名であるとし、もとは市場であったと記す[5]。『大乗院寺社雑事記』の地名索引は、古市を大和国添上郡の三橋荘のうちとする[6]。
『角川日本地名大辞典』は『大和志料』の説を確かでないとし、別の経緯を挙げている。当地はもともと福島市と呼ばれ、大乗院門跡が管轄する市が開かれていた。鎌倉時代の後期、遅くとも正応3年(1290年)までにこの市が奈良の大乗院門跡郷へ移り、残された当地を古市と呼ぶようになったとされる。中世には古市と並んで福島市の名も使われ続けた[7]。
地理
集落は、南北に通る街道に沿って家が並ぶ形をとる。街道沿いの家並みは約500メートル続き、一軒ごとの敷地は通りに面する幅が狭く、奥へ長く延びた短冊形に近い。明治期の地籍図にも同じ地割が描かれている[8]。
集落の東は台地になっている。東の高台が字上ノ段で、奈良市立東市小学校がある。その北の台地は字古城と呼ばれ、現在は光ケ丘や高円団地の住宅地になっている[9][8]。東部の鹿野園台地の西の端には、岩井川から水を引いた溜池の平尾池がある[7]。
町内の小字には、北垣内・中垣内・垣内辻子・市立垣内・宮ノ脇・上ノ段・古城・石ノ塔・馬垣内などがある[9][10][11]。
歴史
古代
古市から山村にかけての丘陵は、奈良盆地の北部では佐紀と並んで古墳の多い所である。平地に築かれた大型の円墳とみられる狐塚古墳(字西ノ瀬戸)、丘陵の西の麓にある大塚古墳(字大塚)、狐山とも呼ばれる前方後円墳の車塚古墳(字車塚)、丘陵の先に造られた円墳の馬垣内古墳(字馬垣内)があり、奈良県護国神社の西の池にも、水面に島のように浮かぶ古墳がある[7]。
鹿野園丘陵の先端には古市方形墳がある。一辺27メートル、高さ3メートルに復元される方墳で、墳丘は2段に築かれ、頂に円筒埴輪を立て並べ、表面は葺石で覆われていたとみられる。埋葬施設は東西に並ぶ2つの粘土槨である。西の槨はすっかり壊されていたが、東の槨からは吾作銘二神二獣鏡など5面の鏡、勾玉・管玉などの玉類、琴柱形の石製品、鉄の工具が出土した。築造は5世紀の初め頃と推定されている。周囲には前方後円墳2基と方墳1基、6世紀の円墳数基がある[12]。
方形墳の南、小さな谷を隔てた丘には古市廃寺がある。集落の東の山裾の斜面にあたり、以前から古い瓦が散らばり、礎石らしい石も見えていた。1960年(昭和35年)3月から4月にかけての発掘で、南大門・中門・塔が南北の一直線上に並び、金堂の後ろに講堂、金堂の東に僧房があった伽藍と推定された。金堂は礎石の配置から南北4間・東西7間の建物とわかり、基壇もよく残っていた。塔の基壇は一辺7メートル、高さ1.5メートルで、その下約1.2メートルにもう一層の瓦が見つかり、基壇が2度築かれたことが確かめられた[12]。金堂跡からは唐三彩の破片や緑釉の浅い皿、仏像の付属金具が、塔跡からは塑像の破片や風鐸の舌が出ている。瓦は飛鳥時代から平安時代にわたる。「野」とへらで書いた平瓦があることから、春日の一帯を本拠とした小野氏の氏寺とする見方がある。『奈良市史 考古編』は、小野氏を和珥氏と同じ一族とみて、周囲の古墳群もこの一族の墓所と推測している[12]。
中世
中世には興隆寺・鉢伏・鹿野園・安場ほかとともに八島郷を構成する村のひとつであった[5]。『大和志料』は、中世に清原氏がこの地に住んで古市氏を称したと記している[5]。
古市の名は鎌倉時代から史料に見え、大乗院門跡の所領であった。建武4年(1337年)、古市の住人が奈良の南市で人に刃物で傷を負わせた件では、門跡が管領する地の者であるとして、大乗院が使いを出してその住まいを差し押さえている[7]。郷内の迎福寺のまわりには、後鳥羽上皇が施入した上生講田が広がっていた[7]。
郷内に古市城を構えた古市氏は、興福寺の衆徒で、大乗院に仕えて勢力を広げた。文安4年(1447年)から文明5年(1473年)に没するまで、経覚(大乗院の前門跡)が迎福寺に住んだ。経覚が書き続けた日記『経覚私要鈔』は郷の暮らしを細かく書きとめており、中世の町場の内部を知るまとまった材料になっている[13]。明との貿易で知られた楠葉西忍も、晩年は郷の北口に住んだ[7][11]。
郷は町場としての性格をもっていた。文明元年(1469年)7月、奈良では市中を管轄する衆中によって念仏の風流が禁じられたため、これが古市で行われた。見物人は奈良からも近在からも押し寄せた。郷では各戸から人を出して北と南の入口に番を立て、外来の者には一人六銭ずつを課している。茶屋が二か所置かれ、宮の拝殿は屏風で囲って造り物が据えられた[14]。
古市氏にとって郷の防備は重要で、岩井川沿いの樹木は古市にとって外城にあたるものと認識されていた。この樹木を伐るよう門跡の尋尊から命じられたとき、古市側は防御上必要であるとして経覚に嘆願している[14]。
古市氏は室町時代後期には畠山氏に属して大和の諸勢力と争い、のちに松永久秀の配下に入って、松永氏とともに没落した[5]。
町並みと環濠
「古市郷」の呼び名は、『経覚私要鈔』のほか、永禄8年(1565年)の『多聞院日記』にも見える[8]。郷のうち堀に囲まれた部分には家が詰まって建っていた。文明17年(1485年)12月に南口で火が出たときは、さほど広くない区画で25、6間が焼けたと『大乗院寺社雑事記』は記す。康正2年(1456年)の南口の火事でも、民家10間ほどが焼けている[8]。応仁2年(1468年)には「市場西頬」に住む者の名が見える。通りのどちら側かで住所を言い表すこの書き方は、通りの両側で一つの町をなす両側町ができていたことを示す[8]。清水克行は、焼けた家の数から堀の内の家を100軒以上と見積もり、かつて堀の内だった範囲に今ある約140戸と大きくは違わないとみている[8]。
経覚は毎年正月の1日と2日に迎福寺で餅や銭を施しており、康正2年には外から200人もの貧しい人々が押し寄せた。清水は、古市郷が富んだ土地と見られていた表れと解している。ただし寛正の大飢饉のさなかには難民の多くが京都や奈良を目指し、古市の施しにはあまり集まらなかった[8][15]。
堀の出入口は北口・南口・西木戸口の3か所で、それ以外の周りには堀がめぐっていたとみられる。情勢が不穏になると、古市氏の指図で堀を広げる工事が行われた。一方、宝徳2年(1450年)に疫病がはやったときには、住民が自ら費用を出し合い、北口の芝地で荒神祓をした[15]。清水は、この堀が古市氏にとっての防御施設であるとともに、住民にとっては外と内を分ける境でもあったとする[15]。
郷の北の外れには馬場があった。ふだん建物はなかったが、雨乞いの相撲や猿楽の会場になり、筒井氏と岩井川を挟んで戦ったときには夜番が置かれた。字馬垣内がその跡とみられる[16]。『角川日本地名大辞典』は、古市が上街道沿いの交通の要所であったことから、古市氏の繁栄は馬借を束ねたことに負う所が大きいとする[7]。これに対し清水は、馬場の地名だけを根拠に古市氏の馬借支配を論じるのは飛躍があり、文献からは裏づけにくいとしている[16]。
町と村
堀の内の町場には、複数の共同体があった。長禄2年(1458年)の『大乗院寺社雑事記』などで名が確かめられるのは、北口・南口・延命寺・市庭・卒都婆堂の5つである[11]。清水はこれらを町と呼び、所在を次のように推定している[11]。
- 北口 - 郷の北の端、今の字北垣内のあたり。楠葉西忍が住んだ所でもある。
- 南口 - 郷の南の端、字中垣内の南部のあたり。
- 延命寺 - 郷の西の端。字垣内辻子の西の入口近くに、明治初年の廃仏毀釈までは延命寺という寺があった。跡地は小さな公園になり、祠と近世の西国三十三所巡礼の碑が残る。寺の鎮守であった西宮神社は、廃寺のときに御前原石立命神社へ合祀されたと伝わる。
- 市庭 - 古市の名のもとになった福島市の名残で、字市立垣内のあたり。街道から西へ分かれる長さ約100メートルの小道の一帯を指し、突き当たりには八王子社の石碑が今も立つ。ここを市神として祀り、かつては市が立ったという言い伝えがある。
- 卒都婆堂 - 場所は確かめられていない。清水は、念仏寺か、字西蓮寺垣内にあったとされる青蓮寺の前身ではないかとする。
これとは別に、東の高台の上ノ段には20人前後が暮らす農村があった。『経覚私要鈔』には上ノ段の用水路が見え、清水はこの集落を「上ノ段村」と呼んで堀の内の町場と区別している。清水によれば迎福寺はこの上ノ段にあり、経覚は飢饉の年に上ノ段の困窮した人々へ施しをし、正月15日の三毬打の前日には決まって酒と昆布を届けた[9]。上ノ段村は5つの町の風流や三毬打には加わらず、正月15日には自分たちの三毬打を焚き、7月19日には20歳未満の若者による相撲を開いた[17]。
一方で、文明4年(1472年)には「老衆」と呼ばれる人々が迎福寺の道場で寄り合いを開いている。上ノ段村の人数でそうした役付きの集団を持てたとは考えにくいことから、清水は、町と村の別を越えて、古市郷の全体をまとめる自治の集団があったとみている[18][17]。
惣社・地蔵堂・湯屋
『経覚私要鈔』で「宮」、『大乗院寺社雑事記』で「古市惣社」と呼ばれる神社が、郷の中心であった。『三箇院家抄』の福島市の項に「ミヤノワキ」の地名があり、今も字宮ノ脇の隣に御前原石立命神社があることから、この神社が古市惣社の後身と考えられている[15]。拝殿の記事から、惣社は東西の方向に正面を向けていたとみられる。今の御前原石立命神社も、郷を南北に貫く街道に面して西を向いて建つ。郷を通り抜ける人は、南北どちらから来ても、必ず惣社の前を過ぎる[15]。清水はこの点から、郷の空間は惣社を軸に組み立てられていて、古市城は郷の中心ではなかったと論じている[15]。
地蔵堂と、それに付属する高縁(法華経を読む建物)も、住民が集まる場所であった。正月15日の三毬打は地蔵堂で焚かれ、経覚も古市氏を連れて見物に出かけた。経覚は毎年10月の後半、数日にわたって地蔵堂で逆修供養を営んでいる。文明元年に古市氏の内輪の争いを収めに来た尋尊が泊まったのも地蔵堂で、郷の宿所の役も果たしていた[19]。高縁では、多額の頼母子や千部法華経会、百万遍念仏が催された。文明元年の風流で九条政忠と経覚が高縁の桟敷から見物していることから、地蔵堂と高縁は惣社のすぐそばに建っていたとみられる[19]。
郷には湯屋も多かった。古市城の中には古市氏が使う湯屋があり、別に郷で共有する「郷湯」「惣郷湯屋」も備わっていた。文明元年の8月、夏の風呂の催しである淋汗の最中に湯釜が壊れたときは、地蔵堂・弥勒堂・迎福寺で湯を沸かして運んでいる。清水は、少なくとも5か所の湯屋があったと数えている[19][10]。
祭礼と年中行事
古市惣社の祭礼は毎年8月15日から16日にかけて行われ、「当所祭」と呼ばれた。7月の風流踊りと並ぶ郷の大きな祭りで、金春元氏や宇治の猿楽が芸を見せ、拝殿では古市氏と家来たち、経覚らが見物した[15]。文正元年(1466年)の当所祭の日には、もと古市の被官で郷を離れていた者が姿を見せた。経覚は、この地で生まれた者だから氏神に詣でに来たのだろうと書いている。郷で生まれ育った者にとって、惣社は外に出てからも祭りの日には参るべき氏神であった[15]。寛正5年(1464年)には、惣社を場として湯起請を執り行う動きもあった[19]。
7月の風流は、15日に古市氏が主催するものと、16日から17日にかけて郷内の各町が出すものとがあった。各町の風流は、経覚のいる迎福寺へ代わる代わる参上した[11]。上に述べた文明元年の風流は、壊れた風呂釜を直す費用3000疋(30貫文)を集めるため、よそから来た者から1人6文を取って開かれた。3日の予定であったが、1日で目当ての額が集まって打ち切られている。清水は、この額から1日の見物客を約5000人と計算している[18]。
正月15日の三毬打は、北口・南口・延命寺など各町がそれぞれ出したものを、地蔵堂の前でまとめて焚く形であった。清水は、家の建て込んだ町ごとに火を焚くのは危ないため、郷の中心に集めたのであろうと推測している[18]。延命寺の町は、これとは別に7月15日に相撲、9月15日に祭礼を独自に行った。相撲は奈良方と田舎方に分かれて争うのが例年の決まりで、郷の外からも大勢が加わり、昼から夜の7時頃まで続いた。9月の祭礼には宇治猿楽や金春元氏も出演している[18]。
惣墓
集落の北、字石ノ塔に古市南町の共同墓地がある。町で亡くなった人は、ほぼすべてこの墓地に埋葬される。墓地の南の田には直径1メートルほどの自然石が残り、石ノ塔の名の起こりと伝えられる。清水はこれを集落の境を示す石とみている[10]。2007年の調査では五輪塔の残欠35点が見つかり、地輪の一つには慶長6年(1601年)の銘があった[10]。さらに応仁元年(1467年)の『経覚私要鈔』に「石塔」辺りで人と行き会った話が見えることから、清水は、遅くとも室町時代の中頃にはこの地に郷の惣墓があったと結論している[10]。
庄屋と代官
『経覚私要鈔』には、宝徳元年(1449年)から4年(1452年)にかけて、古市の庄屋の弥五郎が登場する。宝徳4年に経覚が山城から古市へ戻ったときは、弥五郎らが鉢伏まで迎えに出て、迎福寺まで送り届けた。宝徳3年、奈良で馬借が立ち上がったときは、古市氏の命を受けて鎮めに向かっている[16]。弥五郎は名字が伝わらず、古市氏の家臣が居並ぶ場にも名が見えない。清水は、古市氏とは別に、荘園領主の興福寺が年貢を取るために置いた庄屋であった可能性を挙げている[16]。
弥五郎に代わり、長禄2年からは古市郷の代官の左近大郎(左近次郎とも)が見える[16]。同年に左近大郎の家から火が出たときは、近郷の人々が駆けつけた。寛正2年(1461年)の年末には、奈良に住む古市被官の家を興福寺の講衆が処罰しようとして、古市の若者たちに阻まれる事件が起きた。翌年2月の決着では、その奈良の家とともに、古市にあった代官の家が壊された[20]。清水は、当主に代わって代官が責めを負ったことから、代官が外に対して郷を代表する立場にあったと読む。そのうえで、庄屋も代官も郷の有力者から選ばれた者で、古市氏の指図に従う一方で、町の側の利益を背負う者として周りから認められていた、とまとめている[20]。
古市城と郷をめぐる議論
村田修三は古市城の復原で、郷を囲む堀を古市城の惣構とみなし、集落をその城下町と位置づけた。村田の案では、古市城は北の字古城と南の字上ノ段の2つの郭からなり、南北およそ400メートルに及ぶ[21]。
これに対し清水克行は、経覚の住んだ迎福寺と上ノ段村が上ノ段にあったことから、室町時代の古市城は字古城だけであったと論じた。その規模は150メートル四方ほどで、当時の国人の居館として普通の大きさにすぎないという[9][8]。文久4年(1864年)に、古市出身の国学者である北浦定政が写した「古市の里由来之事」も、古市氏の城跡を氏神の北東の字古城とし、上ノ段までを含めてはいない[9]。北浦が写したもう一つの「大和国添上郡古市新城ノ図」は、白壁と石垣をめぐらせ、上ノ段に天守を描いた想像図である。古市の旧家には今もこの図の写しが多く残る。清水は、この図が広まったために、上ノ段を本丸とする見方が地元に根づいたのであろうと推測した[9]。
近世
江戸時代には伊勢の藤堂氏が当地に代官を置き、大和に散在する所領を治めさせた[5]。
江戸時代の古市村は添上郡に属し、はじめは幕府領、元和5年(1619年)から津藩領となった。村高は「慶長郷帳」「寛文郷帳」「元禄郷帳」で1,008石余、「天保郷帳」で1,027石余である[22]。津藩は城和の村々をいくつかの組に分け、有力な無足人を大庄屋に任じて組ごとに治めさせた。無足人は、村の有力な農民から選ばれ、ふだんは治安を守り、非常の際には兵として働く者である。古市村は古市組(文政6年の組内は24か村)に属し、大庄屋は幕末まで古市村の広瀬佐次衛門が務めた[22]。寛延4年(1751年)の「宗国史」では、家数120、人数745、うち無足人6であった[22]。安政元年(1854年)の地震では、400軒ほどあった家の大半が壊れ、溜池の堤も切れた[22]。幕末から明治の初めにかけて陵墓や平城京を調べた国学者の北浦定政は、古市村の出身である[22]。
古市奉行所
津藩(藤堂氏)は当地に奉行所を構え、山城国と大和国にまたがるおよそ5万石の所領をここから支配した。この所領は城和(じょうわ)と称され、山城の相楽郡と、大和の添上・式上・山辺・十市・広瀬・式下の各郡に散在していた[23]。『角川日本地名大辞典』は、奉行所が古市に置かれたのを延宝5年(1677年)とする[22]。奉行所を預かる役は加判奉行、または城和奉行と呼ばれ、伊賀上野の城代付とされた[23]。藩は津・上野・古市の三か所に加判奉行を置き、それぞれ伊勢・伊賀・城和を受け持たせている[24]。安永4年(1775年)には当地で銀札が発行された[24]。
藩の分限帳はこの役職を「大和古市奉行」と書く。文政4年(1821年)12月に深井源太左衛門がこの職へ移った例が知られている[25]。
近代
1872年(明治5年)、周辺の5か村が共同で小学校の広文舎を設けた。1874年には念仏寺に第35番小学広文舎が開かれ、生徒は68人であった。広文舎は1876年に古市小学校と名を改め、1878年に藤原と鹿野園の小学校を併せた。1879年には、岡田亀久郎が村内に紅茶の伝習所を開いている[22]。明治15年頃の古市村は戸数276、人口1,161で、田畑・宅地・山林を合わせて150町余りの土地があった。産物は米2,055石のほか、麦・菜種・実綿、茶1万7,500斤などである[22]。
1889年(明治22年)、町村制の施行によって古市・白毫寺・藤原・横井・鹿野園・八島・鉢伏の7か村が合併し、東市村となった[5][22]。古市は東市村の大字となり、古市尋常小学校は1892年に東市尋常小学校と改称した。1906年には郡立の農林学校が設けられ、1935年(昭和10年)に古市郵便局が開かれた。1940年には奈良県護国神社が完成している[22]。
1951年(昭和26年)、東市村が奈良市に編入され、大字古市は奈良市古市町となった[22]。その後、1966年に県営の高円団地が完成し、1971年に市立の都南保育園、1975年に高円保育園が開かれた[22]。
寺社
- 御前原石立命神社 - 御前原石立命を祀る式内社[22]。中世の古市惣社の後身と考えられている[15]。秋祭は10月10日に行われる。清水克行は、氏子による「おこもり」が中世の当所祭の流れをくむ可能性を指摘している[15]。
- 奈良県護国神社 - 1940年(昭和15年)に完成した[22]。
- 蛭子神社・稲荷神社・浅間堂(仙軒堂)・弁財天社(平尾池の北の岸)[22]
- 穴吹神社 - 穴栗四社大明神ともいい、太玉命と高皇産霊命を祀る。古市にあるが、横井村の氏神である[22]。
- 念仏寺 - 融通念仏宗の寺で、山号は護持山、院号は自在院[22]。古市南町の中にある唯一の寺院である。もとは浄土宗で、明治期から融通念仏宗になった。初代住職の善誉は寛文11年(1671年)に没したと伝えられる。阿弥陀如来立像は鎌倉時代、地蔵菩薩倚像は室町時代の作と推定され、境内の板碑で最も古いものは天正6年(1578年)の銘をもつ[11]。北浦定政が写した「古市の里由来之事」と古市城の図を所蔵する[9]。
- 光明寺 - 浄土真宗の寺で、山号は春照山[22]。
- 油掛地蔵 - 子授けの地蔵として知られる[22]。
史跡
脚注
- 1 2 “国勢調査 / 令和2年国勢調査 / 小地域集計 (主な内容:基本単位区別、町丁・字別人口など) 29:奈良県”. 2026年10月6日閲覧。
- 1 2 “奈良県 奈良市 古市町の郵便番号”. 日本郵便株式会社. 2026年10月6日閲覧。
- ↑ “市外局番の一覧(令和8年3月1日現在)” (PDF). 総務省. 2026年10月6日閲覧。
- ↑ “奈良県の陸運局”. くるなび. 2026年10月6日閲覧。
- 1 2 3 4 5 6 奈良県教育会 編『大和志料 上巻』添上郡「古市」項
- ↑ 『大乗院寺社雑事記総索引 下巻(地名・件名篇)』史料研究の会、1989年
- 1 2 3 4 5 6 7 『角川日本地名大辞典 29 奈良県』985頁。
- 1 2 3 4 5 6 7 8 清水 2011、44頁。
- 1 2 3 4 5 6 7 8 清水 2011、43頁。
- 1 2 3 4 5 清水 2011、47頁。
- 1 2 3 4 5 6 清水 2011、50頁。
- 1 2 3 4 5 『角川日本地名大辞典 29 奈良県』987頁。
- ↑ 清水 2011、41頁。
- 1 2 酒井紀美『経覚』吉川弘文館〈人物叢書〉、2020年
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 清水 2011、45頁。
- 1 2 3 4 5 清水 2011、48頁。
- 1 2 清水 2011、52頁。
- 1 2 3 4 清水 2011、51頁。
- 1 2 3 4 清水 2011、46頁。
- 1 2 清水 2011、49頁。
- ↑ 清水 2011、42頁。
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 『角川日本地名大辞典 29 奈良県』986頁。
- 1 2 都祁村史刊行会 編『都祁村史』都祁村史刊行会、1985年。
- 1 2 上野市史編さん委員会 編『上野市史』上野市、1961年。
- ↑ 村林正美 校訂『藤堂藩の年々記録』下、三重県郷土資料刊行会、1985年。
参考文献
- 奈良県教育会 編『大和志料 上巻』添上郡
- 酒井紀美『経覚』吉川弘文館〈人物叢書〉、2020年、ISBN 978-4-642-05292-4
- 『大乗院寺社雑事記総索引 下巻(地名・件名篇)』史料研究の会、1989年
- 都祁村史刊行会 編『都祁村史』都祁村史刊行会、1985年
- 上野市史編さん委員会 編『上野市史』上野市、1961年
- 村林正美 校訂『藤堂藩の年々記録』下、三重県郷土資料刊行会、1985年
- 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編『角川日本地名大辞典 29 奈良県』角川書店、1990年、ISBN 4-04-001290-9
- 清水克行「室町期畿内における町場の構造 ―『経覚私要鈔』に描かれた大和国古市郷―」『比較都市史研究』30巻2号、2011年、41-53頁、doi:10.20720/cuhreview.30.2_41
