吉田雀巣庵

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吉田 高憲
時代 江戸時代後期
生誕 文化2年(1805年)
死没 安政6年8月24日(1859年9月20日)
改名 世良太郎、平九郎
別名 字:地岳、号:藪月、雀巣庵
戒名 秋興院地岳奇雲居士
墓所 長福寺[1]
主君 徳川斉朝、斉温、斉荘、慶臧、慶恕、茂徳
藩 尾張藩
氏族 吉田氏
父母 吉田平九郎、ゑい
子 吉田角鞠
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吉田 雀巣庵(よしだ じゃくそうあん)は、江戸時代後期の本草学者。通称は平九郎、諱は高憲。尾張藩士。本草学結社嘗百社の一員として動植物の収集、写生に取り組み、特に昆虫類の図画をまとめた『虫譜』は高く評価されている。月琴、古物にも造詣が深かった。

概要

文化2年(1805年)、尾張藩士吉田平九郎の子として生まれた[1]。吉田家当主は代々平九郎を名乗り、住所は尾張国名古屋広井三蔵、禄は100石であった[1]。

母ゑいは文化10年(1813年)3月3日死去、父平九郎も文政6年(1823年)10月死去し、12月4日家督を相続した[1]。当初馬廻組に所属したが、文政7年(1824年)2月29日寄合組に転じ、文政13年(1830年)7月11日平九郎を襲名した[1]。

文政頃、水谷豊文、石黒済庵、伊藤瑞三、大窪太兵衛、大河内存真等が定期的に開いていた本草会に大窪昌章、伊藤圭介、神谷三園等と加わり、その頃嘗百社と命名された[2]。木曽、駒ヶ岳、白山等に動植物を採集し、社中では「平九さん」と親しまれたという[1]。飯沼慾斎は晩年著書を編述中、不審点がある度に家を訪れ、いつも謝礼として美濃紙を贈っていたという[1]。

月琴を嗜んだほか、古物の収集にも熱を入れており、細野要斎、岡田文園、小寺玉晁、小田切春江、野口梅居等による同好会に参加し[1]、天保3年(1837年)から没年まで毎年1月25日自宅で博物会を催し、古い器物、瓦、貨幣、藩札等を展示した[3]。安政2年(1855年)4月14日には御下屋敷脇広場で甲冑出張調を行っている[1]。

当初子ができず、一時門人小塩五郎を養子としたが、その後実子角鞠が誕生した[1]。

安政6年(1859年)8月24日コレラにて死去[1]。家督相続の都合で、藩には27日没として届け出た[1]。万延元年(1860年)3月25日、追薦のため七ツ寺で博物会が開催された[3]。

著書

脚注

参考文献

  • 磯野直秀、田中誠「尾張の嘗百社とその周辺」『慶應義塾大学日吉紀要 自然科学』第47巻、慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会、2010年、15-39頁、CRID 1050845762334986240。 
  • 吉川芳秋「雀巣菴吉田平九郎 ―日本昆虫学の大先達 隠れたる尾張本草家―」『科学史研究』通号19号、1951年8月。