尾張藩

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尾張藩
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尾張藩の国章
(尾州中納言葵)
公用語 日本語
首都 名古屋
藩主
1610年 - 1650年 徳川義直
1864年 - 1871年徳川義宜
御附家老
1610年 - 1611年平岩親吉
1616年 - 1625年成瀬正成
変遷
成立 1610年
廃藩置県1871年
通貨三貨
現在日本の旗 日本
尾張藩親藩61万9千石の位置(日本内)
尾張藩親藩61万9千石
尾張藩
親藩
61万9千石
尾張藩の位置

尾張藩(おわりはん)は、尾張一国(愛知県西部)と美濃、三河及び信濃(木曽の山林)、近江、幕末には伊勢の各一部を治めた親藩。徳川御三家中の筆頭格であり、諸大名の中で最高の格式(家格)を有した。尾張国名古屋城(愛知県名古屋市)に居城したので、「名古屋藩」とも呼ばれた。明治の初めには名古屋藩を正式名称と定めた。藩主は尾張徳川家。表石高は61万9500石。

歴史

名古屋城(1880年代)

藩の前史

尾張は慶長5年(1600年)9月、関ヶ原の戦い終結まで清洲城主・福島正則が24万石で支配していた。戦功により福島正則は安芸広島藩に加増移封された。

藩史

尾張藩初代藩主徳川義直
尾張名古屋藩屋敷跡(東京都千代田区)の石碑

関ヶ原の戦いの戦功(先陣)により徳川家康の四男・松平忠吉が入封(清洲藩、52万石)する。慶長11年(1606年)、家康の直轄領であった知多郡(知多半島)も忠吉に加増される。しかし慶長12年(1607年)に忠吉に嗣子がなく死去して天領となった。

代わって甲斐甲府藩から同じく家康の九男で忠吉の弟である徳川義直が47万2344石で入封し、清洲城から新たに築かれた名古屋城に移って(清洲越し)、ここに尾張藩が成立した。

藩領は随時加増されてゆき、元和5年(1619年)5月16日に56万3206石となった。さらに、寛文11年(1671年)紀伊徳川家との格差をつけて御三家筆頭の家格を示すため、給人領(渡辺半蔵はじめ16家1党に将軍の朱印状をもって与えられた知行地)5万石を加増され61万9500石の知行高が確定した。 領域は尾張のほぼ一国のほか、美濃・三河・信濃(木曽郡のヒノキ御用林)・近江・摂津と広範囲に跨って飛地が存在した。 中でも木曽の御用林から得られる木材資源は藩財政の安定に寄与する重要なものであった。また、表高こそ62万石弱であったが、新田開発を推し進めた結果、実高は100万石近くに達したといわれる。 財政には比較的余裕があったことから、領民には四公六民の低い税率が課されたという。 三河(加茂郡)や近江(蒲生郡)、摂津(川辺郡)にあったのは、すべて給人領である。

尾張藩は百姓一揆が、水戸(35件)[注釈 1]や紀伊(30件)[注釈 2]に比べ少なかった藩とされている。江戸時代を通じて尾張国内で21件の一揆が記録されている[1][2][注釈 3]。

勝海舟は、『氷川清話』(明治31年、1898年)の中で「日本国中で、古来民政のよく行き届いたところは、まず甲州と尾州と小田原との三ヶ所」であるとし、尾張(尾州)については、「租税を軽うし、民力を養った」「織田信長の遺徳がいまだ人民に慕われている」「当時の善政良法が、今なお歴々として残っている」としている。

初代

初代藩主・徳川義直は着任当初まだ幼少であったため、初期の藩政は家康の老臣たちによって行なわれたが、成長してからは義直自ら米の増産を目的とした用水整備・新田開発・年貢制度の確立などに務めて藩政を確立している。

二代目

第2代藩主・徳川光友は寺社政策に尽力したが、寺社再建を行いすぎて藩財政が苦しくなり、藩札発行するも失敗して藩財政が苦しくなった。このため、光友以後の藩主は倹約令や上米などの財政改革を行なって藩財政を黒字にさせたりもしたが、天災なども相次いで藩財政は結局は悪化した。

三代目

第3代藩主徳川綱誠は、実母の千代姫が3代将軍徳川家光の長女であった。それゆえ、御家門の中でも最も将軍家に近い存在であった。異母兄松平義昌は陸奥梁川藩3万石を得て大窪松平家として独立、同母弟松平義行は美濃高須藩3万石を得て四谷松平家として独立、異母弟松平友著は尾張藩内で家禄を得て川田窪松平家を称し、三つの分家御連枝ができあがる。

四代目・五代目

第4代藩主・徳川吉通は、第6代将軍徳川家宣から高く評価され、家宣の子鍋松(後の徳川家継)が幼く政務に耐えられないと判断し、第7代将軍に就任するように要請されるほどの人格者[3]であったが、家宣薨去1年後に25歳と言う若さで急死してしまう。 第5代藩主は、幼い徳川五郎太が継ぐも、数え年3歳で急死してしまい、家督は叔父である徳川継友が継承。

六代目

第6代藩主・徳川継友は第7代将軍・徳川家継が重病に臥した際、第8代将軍候補の有力者であった。第6代将軍御台所の天英院の姪の近衛安己を婚約者に持ち、祖母が第3代将軍家光の長女であり、将軍家に最も近い存在であったからである。 しかし、同じ御三家の紀州藩主・徳川吉宗が将軍に就任した。その後、尾張徳川家は御三家で唯一、血統上で将軍を輩出することなく明治維新を迎えることとなる[注釈 4]。第4代藩主徳川吉通は、「尾張は将軍位を争わず」と述べており、尾張藩では家訓として将軍位を継承することよりも、徳川家康より与えられた尾張藩を護ることのほうが大切であるとされていたためである[3]。

七代目

徳川宗春

歴代藩主で最も有名なのが、その継友の弟であり、第7代藩主となった徳川宗春である。仏教思想の法治政策として藩主時代は死刑禁止政策や罪人への寛容主義や性犯罪予防の夜間照明の女性保護政策がある。宗春は倹約を主とする江戸の幕閣の政策を批判した。名古屋東照宮祭りを盛大して尾張藩内での高麗人参の栽培や名古屋城下に芝居小屋や遊廓の設置を許可するなど、規制緩和政策を推進した。 これは江戸幕府の緊縮財政に対して真っ向から対立するものであった[注釈 5]。

享保20年(1735年)に入ると幕府よりも5ヶ月早く遊興徘徊を禁じる令を出す。また、翌年の元文元年に行われた幕府の元文の改鋳によるインフレ政策に先立って、すでにインフレ状態にあった尾張藩内の引き締め政策を展開した。しかし、幕府より一手先を行く宗春の政策は幕閣に警戒感を与えてしまっていた。

丁度その頃は、幕府は朝廷が禁じた『大日本史』の出版を強行し、幕府と朝廷に緊張が走っていた。 元文3年(1738年)朝廷が、反幕府の象徴的儀式である大嘗会を開くことになる。宗春と御付家老成瀬正泰が参勤交代で江戸に下向すると、もう一人の御付家老竹腰正武が、名古屋で宗春の政策をことごとく否定していた。そのために尾張藩内は少なからず騒乱状態となる。

翌年の元文4年(1739年)に、大嘗会に使いに出ていた使者が江戸に戻り将軍吉宗に報告すると、吉宗は病と称し引きこもってしまう。 そして数日後、吉宗は、尾張藩内の騒乱状態を理由に宗春を隠居謹慎処分に処した。その日に、吉宗は朝廷の中心であった一条兼香に多額の献金をし、宗春の甥である二条宗基に諱の「宗」の字を与え、朝廷対策を打った[4]。

尾張藩は初祖義直の頃から朝廷との縁が深く、「王命に依って催さるる事」[5]とされていた。 朝廷は宗春を高く評価しており[注釈 6]、宗春は朝廷と幕府の間に挟まれて隠居謹慎せざるを得なくなってしまった。

八代目

宗春の後を継いで第8代藩主となったのは、従弟の徳川宗勝である。宗勝は宗春時代の藩政を改め、倹約令を中心とした緊縮財政政策を行ない、藩財政を再建する一方で、学問を意奨励して巾下学問所を創設した。

九代目

第9代藩主・徳川宗睦は父・宗勝の政策を受け継いで財政改革を継続し、その治世は38年間におよんだ。 一時期は財政が好転したこともあったが、宝暦治水にもかかわらず庄内川の氾濫など、天災による被害を受けて財政が結局は悪化した。市中の富商56人から金5000両を調達し、幕府に2万両の公金拝借を願い出た。以後、財政難によりこの金策は繰り返されていくこととなる。なお、この宗睦の時代にも学問が奨励され、天明3年(1783年)には藩校・明倫堂が創設されている。 軍制改革も実施され、寛政5年には幕府の「海軍防備令」に即応した知多半島の防備を再編成し、上方の変事に対応する計画を策定した。更にこの作戦に応じた歩兵銃砲主体の編成を大番組・寄合組・馬廻り組を拡充させた。寛政11年(1799年)12月に宗睦は死去した。宗睦の実子は早世していたため、ここに義直以来の尾張徳川家の男系の血統は藩主家から断絶した。

十代目

代わって寛政12年(1800年)1月に第10代藩主となったのは、一橋家から養子として迎えられた徳川斉朝である。 斉朝は、尾張藩第4代藩主徳川吉通の外孫である二条宗基の曾孫にあたり尾張徳川家の血を受け継いでいた。しかし、ここで尾張の男系血統は藩祖義直から断絶する[注釈 7]。

十一代目~十三代目

第11代藩主・徳川斉温や第12代藩主・徳川斉荘・第13代藩主・徳川慶臧らは、第11代将軍・徳川家斉の実子か、あるいは御三卿から迎えられた養子などであった(いずれも紀州藩主から将軍となった徳川吉宗の血統の一橋家の血筋)。 彼らは寿命や在任期間が短かったこともあったが、尾張に入国せずに江戸に在住することが多かったこともあって、藩政は停滞期に入り、藩財政は赤字になった。慶臧の継承により、尾張藩は幕府への財政依存が更に高まり、嘉永元年に米切手(藩札)の回収を条件に10万両が幕府から貸与されている。

このため、藩内では幕府迎合的で御三卿・徳川将軍家などからの養子を藩主に迎えて財政支援を期待する付家老などの江戸派に反対して、幕府からの藩政介入に反発し独立志向の金鉄党(尾張派、寛政軍革により拡充された大番組を中心として結成)を中心に藩主擁立運動が起こった。結局、将軍家御三卿系の養子は阻止された。

十四代目~十六代目

支藩美濃高須藩から本家を継いだ幕末の第14代藩主・徳川慶恕(後の慶勝、血統としては水戸系)は、養子藩主時代の人事を一新し、財政改革にも一応の成功を収めている。

しかし安政5年(1858年)に将軍後継者問題・条約勅許問題などから一橋派に与して井伊直弼ら南紀派と対立し、この政争に敗れた慶勝は紀州家からの将軍擁立を妨害するために押しかけ登城を行ったことなどにより、直弼の安政の大獄によって強制的に隠居処分に処され、第15代藩主には慶勝の弟・徳川茂徳がなった。

だが、直弼が桜田門外の変で暗殺され、文久3年(1863年)9月13日には茂徳に代わり、慶勝の子・徳川義宜が第16代藩主となったため、慶勝は隠居として藩政の実権を掌握し、幕政にも参与して公武合体派の重鎮として活躍し尾張藩は藩主と元藩主の二重支配体制となり、第一次長州征伐の総督に立てられるなどした。慶勝は第二次長州征伐の総督にも任命されたが、辞退している。

明治時代

明治維新

大政奉還後に慶勝は新政府の議定に任ぜられ、小御所会議で決定された辞官納地を慶喜に求める使者となっている。慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いによって新政府と幕府の対立が明らかになると慶勝も新政府側につき、藩内の佐幕派は青松葉事件によって弾圧された。 鳥羽・伏見の戦いの後に明治新政府により東征軍が編成されると、前藩主徳川慶勝は東海道諸藩の触頭に任命され、佐幕色の強かった東海道譜代諸藩、代官、旗本、それと勤王側の在野の国学グループへ勤王誘引使を送り中立化へ動かして新政府軍の東海道通過を容易にした。

明治3年(1870年)には財政難に陥った支藩の高須藩を吸収。

廃藩置県

明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県により廃藩し、名古屋県となった。その後、犬山県との統合、愛知県への改称、額田県との統合を経て、現在の愛知県となった。

廃藩置県後の、尾張徳川家の家政機関については、尾張徳川家#尾張徳川侯爵家を参照のこと。

歴代藩主一覧

徳川家(尾張徳川家)

代名よみ極位極官就封在任期間前藩主との続柄・備考
1義直よしなお従二位行権大納言[注釈 8] 慶長12年-慶安3年
1607年 - 1650年
徳川家康 9男
2光友みつとも従二位行権大納言遺領相続慶安3年 - 元禄6年
1650年 - 1693年
先代の長男
3綱誠つななり権中納言従三位家督相続元禄6年 - 元禄12年
1693年 - 1699年
先代の長男
4吉通よしみち権中納言従三位遺領相続元禄12年 - 正徳3年
1699年 - 1713年
先代の9男
5五郎太ごろうた無位無官
(死後、従三位参議追贈)
遺領相続正徳3年(7月 - 10月)
1713年
先代の長男
6継友つぐとも権中納言従三位遺領相続正徳3年 - 享保15年
1713年 - 1730年
先代の叔父
(3代綱誠の11男)
養子
7宗春むねはる権中納言従三位遺領相続享保15年 - 元文4年
1730年 - 1739年
先代の弟
(3代綱誠の19男)
養子
8宗勝むねかつ権中納言従三位遺領相続(正式な相続ではなく、先代宗春謹慎に伴い没収の後、改めて藩主として指名する形式)元文4年 - 宝暦11年
1739年 - 1761年
2代光友の孫
(はじめ支藩の高須藩主)
養子
9宗睦むねちか従二位行権大納言遺領相続宝暦11年 - 寛政11年
1761年 - 1799年
先代の2男
10斉朝なりとも正二位行権大納言遺領相続寛政11年 - 文政10年
1799年 - 1827年
将軍家斉の甥
養子
11斉温なりはる従二位行権大納言家督相続文政10年 - 天保10年
1827年 - 1839年
先代の従兄弟
(将軍家斉の19男)
養子
12斉荘なりたか従二位行権大納言
家督相続天保10年 - 弘化2年
1839年 - 1845年
先代の兄
(将軍家斉の12男)
養子
13慶臧よしつぐ権中納言従三位遺領相続弘化2年 - 嘉永2年
1845年 - 1849年
御三卿田安斉匡の7男
養子
14慶恕よしくみ権中納言従三位遺領相続嘉永2年 - 安政5年
1849年 - 1858年
支藩高須藩松平義建2男
養子
15茂徳もちなが従二位行権大納言家督相続安政5年 - 文久3年
1858年 - 1863年
先代の弟
(支藩高須藩松平義建5男)
養子
16義宜よしのり従三位行左近衛権中将家督相続文久3年 - 明治2年
1863年 - 1869年
先代の甥
(14代慶恕の3男)
養子
17慶勝よしかつ正二位行権大納言家督相続明治2年 -
1869年 -
14代藩主慶恕が再承

藩校

支藩・御連枝

支藩としては陸奥梁川藩と美濃高須藩がある。

梁川松平家(大窪松平家)

親藩・御連枝 3万石

  1. 義昌(よしまさ)〔従四位下、出雲守・少将〕 尾張藩主・徳川光友の子
  2. 義方(よしかた)〔従四位下、出雲守・少将・侍従〕
  3. 義真(よしざね)〔従四位下、式部大輔・侍従〕
  4. 通春(みちはる)〔従五位下、主計頭・侍従〕 尾張藩主徳川綱誠の子 後、尾張藩主・徳川宗春となる

江戸上屋敷を四谷大窪に置いた。

高須松平家(四谷松平家)

  1. 義行(よしゆき)〔従四位下、左近衛権少将兼摂津守〕 尾張藩主・徳川光友の子・母は3代将軍徳川家光の長女千代姫
  2. 義孝(よしたか)〔従四位下、左近衛権少将兼摂津守〕 尾張藩主・徳川綱誠の子。叔父義行の養子となる
  3. 義淳(よしあつ)〔従四位下、左近衛権少将兼摂津守〕→尾張藩主・徳川宗勝となる。 川田窪松平友著の嫡男。義孝の養子となり、後に尾張藩8代藩主となる。
  4. 義敏(よしとし)〔従四位下、左近衛権少将兼中務大輔〕
  5. 義柄((よしとも)〔従四位下、侍従兼摂津守〕→ 尾張藩主・徳川宗睦の養子となり徳川治行となる。
  6. 義裕(よしひろ)〔従四位下、左近衛権少将兼摂津守〕
  7. 勝当(かつまさ)〔従四位上、左近衛権少将兼弾正大弼〕
  8. 義居(よしすえ)〔従四位下、左近衛権少将兼摂津守〕 一橋家・徳川治済の子。
  9. 義和(よしより)〔従四位下、左近衛権少将兼中務大輔〕 水戸藩主徳川治保の子。
  10. 義建(よしたつ)〔従四位下、左近衛権少将兼摂津守〕
  11. 義比(よしちか)〔従四位下、左近衛権少将兼摂津守〕→尾張藩主・徳川茂徳となる。
  12. 義端(よしまさ)〔早世のため無位無官〕
  13. 義勇(よしたけ)〔従五位〕
  14. 義生(よしなり)〔従五位〕

川田窪松平家

  • 徳川光友の十一男・松平友著が元禄6年(1693年)、5000石を内分される。翌元禄7年(1694年)にはさらに1万石を内分され、正徳元年(1711年)に分家独立する。市ヶ谷川田窪に江戸屋敷を構えた。定府。享保17年(1732年)、子の松平友淳が高須松平家を継ぎ断絶。
  1. 松平友著(ともあき)〔従五位下、但馬守〕 尾張藩主・徳川光友の庶子
  2. 松平友淳(ともあつ)〔従五位下、但馬守〕→高須藩主・松平義淳→尾張藩主・徳川宗勝となる。

家臣団

尾張藩家臣団の形成

尾張藩の家臣団は、将軍徳川家康・秀忠の命によって幕府から附属された重臣(幕下御附属衆)を中心に、義直が駿府城にいた幼少期から仕えた者(初後御部屋附衆・駿河詰衆・駿河新参衆)に、甲斐出身で甲府藩主時代に従った者(御朱印衆)、尾張に転封された際に召し抱えた清洲藩主松平忠吉の遺臣(甚太郎衆・忍新参衆・清洲新参衆・尾張衆)、義直の傅役(御附家老)として転封直後の藩政を執った平岩親吉の旧臣(弓削衆)が合流し、さらに家康死後、義直が尾張に入部して以降に召し抱えた者(元和新参衆、瑞公御部屋新参衆、慶安以後新参衆)と義直の女系親族関係者(外戚家・勝臣衆)を加えて形成された(括弧内は尾張藩の藩命で編纂された藩士系図集『士林泝洄』による分類。)[6]。

幕下御附属衆は16氏を数えるが、成瀬、竹腰、渡辺、石河、山村、千村の6氏の本宗家は代々将軍に拝謁する資格を所持し、拝謁資格のない他氏(御附属列衆。滝川氏など)と区別された[6]。

幕下御附属衆のうち所領が万石未満の山村甚兵衛家および千村平右衛門家は、尾張藩に附属された後も山村家が木曽代官として幕府の管轄する福島関所を預かり、千村家が信濃国伊那郡と遠江国船明の幕府領を預かっていたことから、幕府と尾張藩に両属の特別な地位にあった。この2家は江戸に屋敷を与えられて大名や交代寄合のように家族を証人として江戸に置き、将軍の代替わりや家督相続時に参府して将軍に謁見した。他方、尾張藩においては城代格の大寄合とされており、隠居後に幕府の了解を得て年寄(家老)に登用された山村良由を例外として年寄等の藩政上の役職に就任することはなかった[7]。

家格と役職

家臣団の身分秩序は、(1)万石以上、(2)諸大夫、(3)老中列以上、(4)大寄合以上、(5)御用列以上、(6)千石以上、(7)礼劔、(8)物頭、(9)騎馬役以上、(10)規式以上、(11)五十人以上、(12)徒以上の12格が設けられていた。(10)規式以上から上の格が藩主に謁見できる御目見以上であり、このうち(1)万石以上から(4)大寄合以上までが騎馬役を同心として附属される同心頭を務める家老級の重臣で、年寄や城代の役職についた[8]。

年寄は別名を老中といい、藩外に対しては家老と称した。成瀬氏の本宗家(成瀬隼人正家)と竹腰氏の本宗家(竹腰山城守家)の当主は、病死した平岩親吉に代わって慶長17年(1612年)に徳川家康によって尾張藩の執政に任じられた成瀬正成と竹腰正信以来年寄の上席の地位を常に占めており、「両家年寄」と称した。この両家がいわゆる御附家老である。両家の下に所領が1万石以上である渡辺飛騨守(半蔵)家、石河伊賀守家、志水甲斐守家(外戚家・義直の母お亀の方の生家)があり、この3家から年寄に就任した場合は「万石以上年寄」と称して、5家以外から登用された年寄よりも上席とされた[9]。

家臣団に対する給地

尾張藩の家臣団に対する知行割は、義直が名古屋城に入部してから元和3年(1617年)と元和6年(1620年)の二度にわたってすべての藩士に給知の黒印状を発給したことで確立した[10]。給知は石高制による地方知行であるが、初期から1村の相給が広く行われて所領の分散性が高く[11]、知行主の所領に対する領主権は年貢収取権に抑えられ、支配権は微弱なものであった[12]。

寛文元年(1661年)、藩財政の悪化により、尾張藩は世禄制を撤廃し、万石以上の5家と山村甚兵衛家および千村平右衛門家を除く藩士が子孫に相続する際に、禄高を減らして相続を認める減禄制を採用した。しかし、これによる藩士の窮乏が著しく、衰微断絶に至った家も少なくなかったことから、138年後の寛政11年(1794年)に世禄制を復活させた[13]。

両家年寄

万石以上年寄

重臣

山村甚兵衛家と千村平右衛門家は大寄合上座[7]。

  • 山村家(山村甚兵衛・美濃久々利・中津川5700石・幕下御附属衆)
    木曽氏の旧臣で、関ヶ原の戦いで徳川家康に従って功績を挙げたことから美濃に所領を与えられるとともに幕府領の木曽谷を代官として預かり、福島に代官屋敷を構えた。大坂の陣終結後に徳川家康が木曽を義直に加増した後も引き続き木曽代官を務めたが、同時に幕府の管轄する福島関所を預かり、幕府と尾張藩に両属した[7]。
    山村良勝 - 良安 - 良豊 - 良忠 - 良景 - 良及 - 良啓 - 良由 - 良喬 - 良熙 - 良祺 - 良醇
  • 千村家(千村平右衛門・美濃久々利4400石・幕下御附属衆)維新後木曽に復姓
    木曽氏支流で、山村家と同じく関ヶ原の戦いの功績で美濃に所領を与えられるとともに天竜川流域の榑木改役として信濃国伊那郡と遠江国奥山の幕府領を預かった。山村家とともに尾張藩への転属を命ぜられたが、伊那郡の幕府領預かりと遠江の榑木改役を引き続き務めることを願い出て許され、幕府と尾張藩に両属した[7]。
    千村良重 - 重長 - 基寛 - 仲興 - 仲成 - 政成 - 政武 - 頼久 - 頼房 - 仲雄 - 仲泰 - 仲展

以下は年寄を輩出した主な重臣家[18]。

  • 滝川家(尾張稲島6000石→4000石→3000石・御附属列衆)
    旧姓木全氏、元滝川一益重臣。一益の改易後、秀吉・家康・秀忠に仕え、家康の遺命により徳川義直に附属して両家以外で最初の年寄に任命された[16]。
    滝川忠征 - 時成 - 征成 = 時令 = 善成 = 忠栄 - 忠厚 = 忠暁 - 忠據 - 忠雄 - 忠挙
  • 阿部家(尾張瀬部8000石→4000石・甚太郎衆)
    三河譜代。阿部正勝の三男(岩槻藩主阿部正次の弟)正與が若年から松平忠吉に仕えて清洲藩家老を務めた後、尾張藩に入封した義直に仕えて年寄に任命された[19]。
    阿部正與 - 正致 - 正治 = 正寛 - 正恭 = 正茂 - 正嘉 - 正長 - 正信 - 正直 - 正傷
  • 寺尾家(尾張蟹江8000石→1500石・忍新参衆)
    伊予国出身で忍城主時代の松平忠吉に仕えた寺尾正俊の子直政が義直の小姓から年寄に抜擢されて8000石を与えられた。直政が義直に殉死した後、養子直龍(成瀬正虎の次男)は1万石に加増されたが乱心し、所領を大幅に削られた[20]。
    寺尾正俊 - 直政 = 直龍 - 就実 - 好実 = 実延 - 実隆 - 実専 - 実備 - 実方 - 孫十郎
  • 間宮家(間宮大隈・尾張日長4300石→改易→300俵・駿河新参衆)
    後北条氏家臣間宮氏の一族で三河国渥美郡に所領を持ち徳川家に仕えた旗本間宮之等の弟正照が駿府城時代の義直の小姓として召し出され、年寄に登用されたが、嫡男の正像のとき他藩の者と無許可で縁組したことを咎められて改易された。その嫡男正喬が召し返されて家禄300俵を与えられた[21]。
    間宮正照 - 正像 - 正喬 - 正奉 -
  • 長野家(尾張石浜4000石→1200石・駿河新参衆)
    旧姓矢野氏。元後北条氏家臣の子である政成が駿府城時代の義直に召し出され、年寄まで昇進して4000石に加増された[22]。
    長野政成 - 政武 = 祐重 = 祐久 - 祐軌 = 祐武 -
  • 大道寺家(藩内2000石→4000石→3500石・清洲新参衆)
    後北条氏家老大道寺政繁の次男直重が関ヶ原の戦いの後に松平忠吉に召し出され、その死後義直に仕えた。直重の子直時以来、代々年寄を輩出して加増された[23]。
    大道寺直重 - 直時 - 直治 - 直秀 - 直澄 = 直長 - 直方 - 直寅 - 直良 - 直近
  • 山澄家(尾張大草5000石→4000石・瑞公御部屋新参衆)
    伊勢国国司北畠の末裔である浪人川方宗成の子英龍が小姓として召し出され、義直の嫡子光友に仕えてその家督相続後に年寄まで累進した[24]。
    山澄英龍 - 英重 = 英貞 = 龍豊 - 龍明 - 豊尚 = 龍騰 - 豊功 - 豊刊
  • 成瀬豊前守(大膳)家(藩内5000石→3500石・幕下御附属衆成瀬家分家)
    元は松平忠吉の家臣で、義直・光友に小姓として仕えた鈴木資景が藩命で成瀬正虎から成瀬姓を授かって改姓し、年寄まで累進した[25]。
    成瀬正景 - 正冬 - 正苗 = 正喜 -   - 正植 - 正心
  • 成瀬吉左衛門(内記)家(藩内3000石→1800石・幕下御附属衆成瀬家分家)
    成瀬正成の弟正則が家康の命により義直に仕え、その嫡男長則が年寄に登用された[26]。
    正則 - 長則 - 長勝 - 長貞 - 正為 - 喬長 - 喬治 - 正敦 - 信平
  • 成瀬織部(半太夫)家(尾張古見1500石→4000石・幕下御附属衆成瀬家分家)
    成瀬正則の次男、正信が召し出されて1500石を与えられ、代々年寄を輩出して加増を受けた[26]。
    成瀬正信 - 正惟 - 正明 - 正恕 - 半太夫 - 半太夫 - 半之丞 - 半太
  • 渡辺半十郎(新左衛門)家(藩内1500石→2000石・幕下御附属衆渡辺家分家)
    旗本渡辺秀綱(守綱の弟政綱の長男)が義直に附属され、その次男景綱が年寄まで累進した[15]。幕末の在綱は年寄に就任したが青松葉事件で粛清された[27]。
    渡辺秀綱 - 景綱 - 相綱 - 元綱 - 久綱 = 綱忠 - 董綱 - 半十郎 - 維綱 - 在綱
  • 鈴木家(藩内4000石→3000石・初後御部屋附衆)
    平岩親吉の旧臣。鈴木重之が義直の寵愛を受けて小姓に取り立てられ、寺尾直政とともに殉死。家督を継承した嫡男重長が年寄に登用された[28]。
    鈴木重之 - 重長 = 明雅 = 重章 -
  • 野崎家(藩内2000石→1000石・元和以後新参衆)
    公家の広橋家支流。内大臣広橋兼勝の孫兼供が義直に小姓として召し出されて野崎に改姓し、年寄まで累進した[29]。
    野崎兼供 - 兼明 - 兼林 - 鎌央 -
  • 寺西家(藩内1000石→300石・忍新参衆)
    松平忠吉に仕えて1000石を与えられた寺西昌吉の曾孫雅矩が年寄に登用されたが、嫡男雅宣の早世後後継者を欠いて家格を落とした[30]。
    寺西昌吉 - 秀昌 - 昌勝 - 雅矩 - 雅宣 = 雅矩(再勤) = 昌豊 = 昌凭 -
  • 織田家(藩内4000石・慶安以後新参衆)
    織田信長の曾孫(信長の九男信貞の孫)貞幹が3代藩主綱誠の家督相続前に小姓として召し出され、年寄まで累進した[31]。
    織田貞幹 - 長恒 - 貞辰 - 信傅 - 信庸 - 信建 - 信重
  • 石川家(藩内1500石→1000石・甚太郎衆)
    東条松平家の家臣で、忠吉を経て尾張藩に1500石で仕えた。氏昭が光友附きの年寄に取り立てられた[32]。
    石川信光 - 吉信 - 成信 = 昭成 - 氏昭 - 昭成 - 昭嘉 -
  • 中条家(藩内4000石→1500石・慶安以後新参衆)
    公家の樋口家支流で江戸幕府高家旗本の中条家同族。中納言樋口信康の三男康満が叔母が光友の側室であった縁から小姓として召し出され、光友の隠居後に光友附きの年寄に取り立てられた[33]。
    中条康満 = 康英 = 乗康 = 康篤 = 康多 -
  • 玉置家(藩内3000石→1000石・御附属列衆)
    紀伊国熊野の国人で、近江国蒲生郡で3000石を領していた玉置小平太が家康の命で尾張藩に附属された。本家は断絶するが、別家して津田を称していた直連が光友附きの年寄に取り立てられ、のちに玉置に復姓した[34]。
    小平太 = 直次 - 嘉季 - 直連 - 小平太 -
  • 石河(西)家(西石河家・藩内1000石・幕下御附属衆石河家分家)
    石河光忠の三男忠昌が長兄正光から1000石の分知を受けて分家し、養子正相(正光の次男)が年寄に登用された[16]。
    石河忠昌 = 正相 - 興利 = 正茂 = 祥昌 - 祥久 - 當厚 - 當頭 - 當博 - 正基
  • 奥田家(藩内3000石→1200石・甚太郎衆)
    同心の家柄出身の奥田忠雄が綱誠の小姓に召し出され、年寄にまで出世した[35]。
    奥田忠雄 = 仲雄 = 智雄 -
  • 津田家(津田太郎左衛門・藩内1000石→1500石・御附属列衆)
    清洲三奉行織田藤左衛門家の子孫。織田信張の曾孫津田知信が家康に召し出されて義直に附属され、その孫高寛が年寄に登用された[36]。
    津田知信 - 信正 - 高寛 - 寛当 - 信周 -
  • 津田家(津田縫殿・藩内3000石→3500石・尾張衆)
    織田信長の叔父信康の子孫。信康の孫津田信益の娘(貞松院)が義直の側室となった縁で信益の孫(貞松院の甥)直信が小姓に召し出され、その孫秉文が年寄に登用された[37]。
    津田直信 - 英信 - 秉文 - 信延 = 信尹 -
  • 河村家(藩内4000石→2000石・駿府新参衆)
    井出氏(御朱印衆)出身の方秀が縁戚の河村家(河村秀根の家系)に養子入りして綱誠の小姓に召し出され、年寄にまで出世した[38]。
    河村方秀 - 永秀 = 品秀 -
  • 庵原氏(藩内3000石→200石・瑞公御部屋新参衆)
    駿河出身の小嶋守親が成瀬正虎に招かれて尾張藩士となり、その嫡男守治が光友の小姓に召し出された。跡を継いだ外孫の志が年寄にまで出世するが、隠居後に跡継ぎの急死が続き、家禄を減らした[39]。
    小嶋守親 - 守治 = 庵原志 = 守𣴎 = 守賢 - 守浮 = 志(再勤) = 新九郎 -
  • 渡辺半九郎(源太左衛門)家(藩内1500石・幕下御附属衆渡辺家分家)
    旗本渡辺成綱(守綱の三男)の後を継いだ綱久(守綱の二男宗綱の二男)が所領を返上して隠遁したが、その嫡男顕綱が光友に1500石を与えられて尾張藩に召し抱えられ、年寄まで累進した[15]。
    渡辺顕綱 - 富綱 - 年綱 = 豊綱 - 愷綱 - 壽綱 - 半九郎
  • 横井三太夫家(藩内4000石→1500石・尾張衆)
    後掲の祖父江横井家の庶流の時房が綱誠の庶子継友の小姓に召し出され、継友が甥の五郎太の死去により藩主になると側寄合に取り立てられて4000石に加増された。その嫡男時芳が年寄となる[40]。
    横井時房 - 時芳 = 時式 -
  • 星野家(藩内5000石→800石・弓削衆)
    国奉行星野則章の三男則昔(藤馬、織部)が綱誠の庶子宗春の小姓に召し出され、宗春が藩主になると奥組から用人、側同心頭を経て年寄に取り立てられて5000石に加増されたが、宗春の失脚を受けて隠居、養子則茂に800石のみの相続を許された[41]。
    星野則昔 = 則茂 -
  • 生駒家(尾張小折3000石→4000石・尾張衆)
    尾張国丹羽郡の国人領主で、織田信忠・信雄兄弟の生母生駒夫人(織田信長側室)の生家。信長以来代々の尾張領主に仕えて本領を維持し、18世紀後半から年寄を輩出した[42]。
    生駒利豊 = 利勝 - 宗勝 - 致長 - 致稠 = 周房 - 周邑 - 周詢 - 周武 - 周晃 - 周行
  • 遠山家(尾張西之口1000石→3000石・忍新参衆)
    後北条氏重臣江戸遠山氏の直景の妻が義直の乳母であったことから直景の次男景吉が駿府時代の義直に仕えた。18世紀後半から代々年寄を輩出するようになり、加増された[43]。
    景吉 - 遠景 - 景信 = 景正 - 景明 - 景供 - 景慶 -
  • 横井家(尾張赤目5800石→4000石・尾張衆)
    尾張国海西郡の国人領主で、北条時行の末裔を称する。宗家の赤目横井家を始めとする一族で1万石弱の所領を有し、代々の尾張領主に仕えた[40]。当初は検地を免除されるなど独立性が強かった[44]が、18世紀後半から年寄を輩出した。
    横井時泰 - 時安 - 時峰 - 時盛 = 時真 - 時尹 - 有時 - 時宣 - 時保
  • 鏡島家(藩内1300石・幕下御附属衆石河家分家)
    石河章長の次男正信が石河氏の先祖の領地にちなんで加賀島(のちに鏡島)を称して別家。正信は宗睦の傅役に任じられて1300石を与えられ、その婿養子正英(生駒周房の弟)が年寄に登用された[16]。
    加賀島正信 = 鏡島正英(仲益) = 当辰 - 養正 - 正晋 - 正鶴
  • 下条家(藩内1500石→2500石・駿府新参衆)
    徳川家康の侍女の甥である下条正明が義直の誕生直後に小姓として附属されて1500石を与えられた。18世紀後半から代々年寄を輩出するようになり、加増された[45]。
    下条正明 - 正春 = 孝正 - 孝典 = 正員 -
  • 間宮家(間宮外記・藩内1000石→3000石・駿河新参衆)
    尾張藩年寄間宮正照の兄之等が三河畠の所領を返上して隠遁した後、その嫡男の正等が尾張藩に召し出された[21]。19世紀に年寄を出すようになり、3000石に加増。
    間宮正等 - 之政 - 之峯 - 之惟 - 正業 - 正統 - 正萬
  • 五味家(藩内1000石・元和以後新参衆)
    義直に取り立てられた新参家系から五味真秀が吉通の小姓に召し出されて側用人に出世し、1000石を与えられた[46]。19世紀前半の文政年間に年寄を輩出。
    五味真秀 - 真堯 -
  • 高橋家(300俵→藩内1200石・弓削衆)
    家康の八男(義直の同母兄)で平岩親吉養子の仙千代に附属され、その夭折後に親吉家臣を経て尾張藩士になった家系。第3代の麻雅が寺社奉行まで出世して加増された[47]。19世紀前半の天保年間に年寄を輩出。
    高橋正盛 - 信精 - 麻雅 -
  • 高木家(高木八郎左衛門・藩内400石→1500石・忍新参衆)
    下掲する知多郡先方三人衆高木家の別家。高木吉任の嫡男吉近が病のため家督相続を辞退して400石を与えられ、その嫡男秀矩が御側大寄合(側用人)まで出世して加増された[48]。天保年間に年寄を輩出。
    高木一吉 - 吉任 - 吉近 - 秀矩 = 秀久 - 秀縄 -
  • 中西家(藩内300石→1000石・元和以降新参衆)
    島原藩主松倉氏の旧臣で主家の改易後に召し抱えられ、3代勝続が寺社奉行まで出世して加増された[49]。天保年間に年寄を輩出。
    中西勝武 - 勝栄 = 勝続 =
  • 佐枝家(藩内2000石→1000石・弓削衆)
    平岩親吉の重臣。仙千代の乳母の子である佐枝種長が仙千代に出仕し、その夭折後にそのまま平岩家に仕えた。親吉の死後、その旧臣を同心として預かった成瀬家の同心組頭となる[50]。19世紀に28年の長期間に渡って江戸藩邸定詰を務めた種武が年寄まで登り詰めたが、藩主慶勝に排斥された[51]。
    佐枝種長 - 種定 - 種次 = 種輝 - 種朝 -   - 種武 - 種栄
  • 肥田家(尾張猪子石2000石→1000石・駿河新参衆)
    美濃土岐氏支流肥田氏の庶流で代々孫左衛門を称する家系の忠重が家康に召し出されて義直に附属され[52]、幕末に忠篤が慶勝によって年寄に抜擢された[51]。
    肥田忠重 - 忠勝 - 忠興 - 忠寅 -   = 忠篤
  • 水野家(尾張河和1460石・駿河新参衆)
    知多郡河和城主戸田氏の子孫。光康が母が水野信元の娘であった縁で水野姓を称し、関ヶ原の戦いの後に旧領河和に復帰して義直に附属された。3代伊頼から名古屋に出府して藩の役職に就き、幕末に康功が年寄に登用された[53]。
    水野光康 - 政康 - 伊頼 - 康寛=康村(康寛の甥) - 康友 - 康般 - 康民 - 康功 - 康年
  • 滝川又左衛門家(藩内1000石・御附属列衆滝川家分家)
    滝川忠征の末子忠尚が父の死後、隠居料1000石を与えられて分家した[16]。忠栄が本家の名跡を相続したため絶家したが、忠栄の孫の忠暁が四男忠貫に1000石を分与して再興[54]。忠貫は幕末に年寄に任じられた。
    滝川忠尚 - 忠周 = 忠栄 = 忠貫
  • 千賀家(尾張師崎1400石・清洲新参衆)
    元佐治氏重臣で徳川氏に水軍として仕え、関ヶ原の戦いの後に旧領知多郡師崎に復帰し、知多郡が松平忠吉に加増されたときに転封を辞退して忠吉、継いで義直に附属された。尾張藩では船奉行と篠島・日間賀島代官を世襲[55]。幕末に信立が初めて年寄に登用された。
    千賀信親 - 貞信 - 信直 - 信賢 - 著信 - 方信 - 武信 - 補信 - 信立
  • 佐藤家(藩内1200石・忍新参衆)
    松平忠吉の旧臣で200石の同心の家から召し出された忠盈が国用人まで出世して1200石に加増された[56]。幕末に年寄を輩出。
    佐藤忠盈 - 具忠 -
  • 田宮家(藩内300石)維新後男爵
    『士林泝洄』に系譜の収録されていない家系。田宮半兵衛(翼)の養子弥太郎(篤輝)が慶勝の信任を受けて側用人に抜擢された。一度は隠居して田宮如雲と改名するが再起用され、大政奉還後の慶応3年(1867年)末に年寄に任命された[57]。
    田宮翼 = 篤輝 - 兵治

その他の家臣

  • 石河(中)家(中石河家・藩内2000石→1500石・幕下御附属衆石河家分家)
    石河光忠の次男宗直が兄正光から2000石の分知を受けて分家[16]。
    石河宗直 - 宗令 - 宗幸 - 邦命 - 直澄 - 直秩 - 好生 - 賢綱
  • 山村甚左衛門家(藩内500石→1500石・幕下御附属衆山村家分家)
    山村良豊の三男良房が綱誠に召し出されて500石を与えられ、子孫が加増を受けた[58]。
    山村良房 - 良盛 - 良郷 -
  • 石黒家(美濃大吉新田500石→1500石・御附属列衆)
    石黒氏は尾張国春日井郡如意・味鋺を支配する国人で石黒重成が松平忠吉に附属された尾張衆(重成の嫡男重弘のとき改易)であるが、別に美濃国内で500石を与えられていた旗本の重玄(重成の三男)が家康の遺命で尾張藩に附属された。重玄の曾孫重職のとき無嗣断絶するが、別家して1000石を与えられていた叔父重継が願い出て美濃の本領を還付された[59]。
    石黒重玄 - 重時 - 重正 - 重職 = 重継 - 重寛 - 矩古 -
  • 鈴木治部左衛門家(藩内2000石→1000石・初後御部屋附衆)
    平岩親吉の家老だった鈴木重吉が親吉没後の家中騒動で改易された後、大坂夏の陣に陣借りして参戦して戦死したため、嫡男重成が召し返されて成瀬家の同心組頭に復帰した[28]。
    鈴木重吉 - 重成 - 重方 = 重教 - 重辰 -
  • 天野家(藩内1000石・初後御部屋附衆)
    三河天野氏の重次が平岩親吉の家老となって1000石を与えられ、親吉の死後に旧臣を同心として預かった渡辺半蔵家の同心小頭となる。別系統の同族に同じく尾張藩に仕えた国学者天野信景がおり、重矩の三男英景が信景の養子に入っている[60]。
    天野重次 - 重春 - 重治 - 重矩 - 重美 -
  • 野呂瀬家(藩内500石→1200石・弓削衆)
    武田氏の旧臣から平岩家を経て尾張藩に仕え、直盛のときに御用人、大番頭にまで出世して加増された[61]。
    野呂瀬直自 - 直畠 - 直重 = 直盛 - 直亮 -
  • 榊原家(藩内1300石→1000石・駿河詰衆)
    旧姓は鋤柄氏。平岩親吉の家臣から義直の小姓に附けられた宗俊が家康の命で榊原姓を与えられ、大番頭まで出世した[62]。
    榊原宗俊 - 宗氏 - 宗令 = 宗昌 - 寧綱 -
  • 小笠原家(藩内1000石→1500石・甚太郎衆)
    松平忠吉の御附家老だった小笠原吉次が罪を得て除封された後、末子正吉が義直に召し返されて1000石を与えられた[63]。
    小笠原正吉 - 長昌 - 長綱 - 長辰 -
  • 富永家(藩内2000石→1400石・甚太郎衆)
    松平忠吉の家老富永忠兼が小笠原吉次に連座して除封された後、嫡男兼種が義直に召し返されて2000石を与えられた[64]。
    富永兼種 - 兼政 - 兼清 - 兼豊 = 資憲 -
  • 服部家(尾張山田1000石→700石・甚太郎衆)
    東条松平家旧臣の服部正吉が国奉行に登用された[65]。
    服部正吉 - 正勝 - 正真 - 正長 = 正治 -
  • 高木家(高木志摩・尾張大井2400石→400石・忍新参衆)
    徳川十六神将の高木清秀の次男一吉が父の遺領を弟の正次に譲り、松平忠吉に仕えた[48]。知多郡大井(現在の南知多町)に所領を与えられて師崎の千賀氏・河和の水野氏とともに知多半島南部の防衛を担い、「先方三人衆」と呼ばれた[66]。
    高木一吉 - 吉任 - 吉和 - 清長 = 雅言 = 清昌 -
  • 荒川家(藩内1500石→1200石・忍新参衆)
    三河吉良氏の支流。荒川義広の次男家儀が松平忠吉に仕えて1500石を与えられ、その次男弘秋から尾張藩に仕えた[67]。
    荒川弘秋 = 吉政 - 義任 - 頼廉 - 頼資 - 頼標 - 頼忠 - 頼敏 - 頼重 - 蔵主 - 鑯弥
  • 久野家(尾張丸米野1500石→1000石・忍新参衆)
    遠江久野氏の一族で今川氏真の没落後に徳川家に仕えずに関東にいた吉政が松平忠吉に出仕し、その嫡男宗信が城代を務めて加増された[68]。
    久野吉政 - 宗信 - 長雄 - 定直 - 宗直 - 辰正 -
  • 兼松家(尾張島村2600石→1000石・尾張衆)
    織田信長に仕えた兼松正吉が信雄の改易後豊臣秀吉に1000石で仕え、関ヶ原の戦いで家康に属した功績で2600石を与えられて松平忠吉に附属された[69]。
    兼松正吉 - 正成 - 正栄 - 正明 = 正武 - 武矩 -
  • 藤ヶ瀬横井家(尾張藤ヶ瀬1200石→1500石・尾張衆)
    横井氏の支流。宗家(赤目横井家)時泰の弟時朝が藤ヶ瀬に1200石を領し、代々用人などを務めた[40]。6代時般は俳人横井也有として著名。
    横井時朝 - 時孝 - 時元 - 時英 - 時衡 - 時般 -
  • 祖父江横井家(尾張祖父江1900石→1000石・尾張衆)
    横井氏の支流。時泰の弟時久が祖父江に1900石を領した。このうち1400石を領した嫡流は後継者を欠いて没落し、500石を領した分家が加増されて続いた[40]。
    横井時久 - 時有 - 時信 - 時庸 - 時諄 -
  • 中村家(藩内3000石→1000石・尾張衆)
    織田信雄の旧臣で信雄改易後に代々の尾張領主に仕えた中村元勝を租とする[70]。
    中村元勝 - 元悦 - 勝親 = 勝時 - 勝長 -
  • 毛利家(毛利源内・美濃八神2000石・尾張衆[注釈 9])
    源義家六男、源義隆の末裔を称する尾張国中島郡(のち美濃国中島郡)の国人領主。「家柄に付代々無役」とされ、原則として藩の役職には就かなかった。尾張藩主から所領安堵の黒印状を与えられたことはなく、寛延3年(1750年)以降に幕府から中島郡内に預地の支配も任されている[72]ことから、尾張藩士と同時に幕臣でもあった[73]とされる。
    毛利広盛 - 広義 - 広豊 - 広尚 - 広説 - 頼容 - 広直 - 広吉 - 広居 - 広賢 - 広貫
  • 澤井家(藩内2500石→1300石・尾張衆)
    織田信雄の旧臣澤井雄重が信雄改易後も尾張に残って3000石を領し、その嫡男元慶が義直に仕えた[74]。
    澤井元慶 - 元重 - 元智 - 元旭 - 元倚 - 元照 - 元矩 - 元算 - 元寛 - 元俊 - 繁蔵 - 馬次郎
  • 稲富家(藩内2000石→400石・清洲新参衆)
    丹後国出身の砲術家稲富祐直が丹後領主の細川忠興の下から出奔した後、松平忠吉に2000石で召し抱えられた[75]。
    稲富祐直 = 秀明 - 秀隆 = 秀勝 - 祐清 - 秀栄 -
  • 上野家(藩内350石→1300石・清洲新参衆)
    甲賀の国人で豊臣秀次、小早川秀秋を経て松平忠吉に召し抱えられた。史宗の次男師賢が召し出されて寺社奉行にまで出世し、加増された[76]。
    上野資景 - 史宗 - 師賢 = 延興 -
  • 竹中家(藩内2000石→400石・外戚家)
    竹中重治の叔父の曾孫に当たる竹中重長が、母がお亀の方の叔母(志水宗清の妹)に当たる縁から召し出されて2000石を与えられた[77]。
    竹中重長 - 重昌 - 重政 = 重道 - 重和 - 重視 -
  • 野崎家(野崎一学・藩内1000石→1200石・元和以後新参衆)
    野崎兼供の四男兼純が小姓として召し出され、大番頭にまで出世して1000石を与えられた[29]。
    野崎兼純 - 兼永 -
  • 埴原家(藩内1000石)
    『士林泝洄』に系譜の収録されていない新参家系。旗本竹内幸和の四男で尾張藩年寄織田貞幹の外孫である貞侃が貞幹の願い出によって召し出され、貞幹の親族の姓である埴原を称した。貞侃は寺社奉行にまで出世し1000石を与えられた[78]。
    埴原貞侃 - 貞寿 -

断絶家系

  • 平岩家(尾張犬山9万3000石・御附家老)
    三河譜代。平岩親吉は家康の少年時代からの側近で、八男松平仙千代を養子とした。仙千代の夭折後は嗣子を立てずに同母弟五郎太丸(徳川義直)に傅役として仕え、駿府城で育てられていた義直に代わって政務を行った。親吉の死により平岩家は無嗣断絶し、親吉の家老であった甥の吉範(犬山城代・2000石)、宮内(1500石)は親吉の旧臣を同心として預かった成瀬家の同心組頭となった[79]。
    平岩親吉(1代)
  • 津金家(藩内2000石・御附属列衆)
    武田氏の旧臣で旗本の津金胤久が家康の命で義直に附属された。嫡男胤卜は旗本に残り、尾張藩内の所領は次男種親が継ぐが無嗣断絶。別に200石で召し出された三男信久の家系が続き、子孫に熱田前新田・飛島新田の開発者津金胤臣がいる[80]。
    津金胤久 - 種親
  • 稲葉家(美濃和知4500石・御附属列衆)
    稲葉良通(一鉄)の四男で美濃国加茂郡で4500石を領する方通が大坂の陣の後に附属され、久々利衆と同等の待遇を受けた。5代で無嗣断絶[81]。
    稲葉方通 - 知通 - 正通 - 良通 = 屋通
  • 能見(阿知波)松平家(藩内4000石・甚太郎衆)
    能見松平家の一族出身とされる松平忠広が東条松平家に仕えて家老となり、その嫡男秀勝が小笠原吉次に連座して追放された後、大坂冬の陣を前に召し返された。嫡男貞則のとき改易[82]。
    松平忠広 - 秀勝 - 貞則
  • 三河松井家(藩内4000石・甚太郎衆)
    東条松平家の重臣松井忠次の一族。松井宗家が騎西藩主として独立した後、松井忠勝が松平忠吉の家老に残った。その嫡男石見守が小笠原吉次に連座して追放された後、大坂冬の陣を前に召し返されたが、後継者がなく無嗣断絶[83]。
    松井忠勝 - 石見
  • 伊奈家(藩内1500石・甚太郎衆)
    徳川秀忠と松平忠吉の母西郷局の甥である伊奈吉勝が忠吉に少年時代から仕えた。重定が乱心自殺して所領没収[84]。
    伊奈吉勝 - 吉次 - 定次 = 重定
  • 戸田家(藩内1000石・甚太郎衆)
    奥平氏の支流・名倉奥平家の奥平信光が松平忠吉の家老となり、戸田加賀と称した。小笠原吉次に連座して追放された後、大坂冬の陣を前に召し返された。後継者がなく外孫2名に分割相続したが、いずれの家も乱心のため改易された[85]。
    戸田加賀(奥平信光) - 平左衛門
  • 福住家(尾張福住2000石・甚太郎衆)
    東条松平家旧臣の平岩元正の次男元国が同心頭に出世して2000石を与えられ、所領の知多郡福住にちなんで改姓した。嫡男元勝が病気のため所領を返上[86]。
    平岩元正 - 福住元国 - 元勝
  • 遠江松井家(尾張祐久1500石・忍新参衆)
    遠江国二俣城主松井宗信の一族松井兵部少輔の孫勘兵衛が松平忠吉に仕えて清洲町奉行となり、その嫡男三郎左衛門は城代に任じられて1500石に加増されたが、次代で無嗣断絶[87]。
    松井勘兵衛 - 三郎左衛門 - 三郎左衛門
  • 酒井家(美濃池田1000石・忍新参衆)
    旧姓坂井氏。織田信雄の旧臣で松平忠吉に仕えた酒井久左衛門が国奉行となり1000石を与えられるが、養子の代に改易[88]。
    酒井(坂井)久左衛門 = 久左衛門
  • 奥山家(藩内4000石・忍新参衆)
    奥山忠元が松平忠吉に仕えて同心頭となる。義直が夜間外出の禁令を発した際に、帰宅が遅くなった家臣を夜間巡回中の藩士に斬られたことに抗議して尾張国外に退去[89]。
    奥山忠元(1代)
  • 原田家(藩内2500石・忍新参衆)
    元は京都の町人の子で、松平忠吉の寵愛を受けて2500石を与えられ、平岩親吉の信任を得て国奉行に任命されたが、不正に木曽谷の木材を切り出して江戸で販売した罪により切腹させられた[90]。
    原田忠政(1代)
  • 藤田家(尾張名和2000石・清洲新参衆)
    三河出身で浪人していた藤田忠次が忠吉に召し出されて清洲藩の国奉行となった。孫の忠常が間宮家の無許可縁組に連座して改易。忠常の嫡男忠久が200俵で召し返されたが1代で断絶した[91]。
    藤田忠次 - 忠量 - 忠常
  • 市辺家(藩内2500石・外戚家)
    河内国牧一宮牛頭天王社(片埜神社)の社家で、義直の母お亀の方の姉の婚家。義直の従兄である市辺正好が義直に幼少時から仕えて2500石を与えられたが、嫡男勝信が病弱で所領を収公され、500石を与えられた孫の豊勝の代に断絶。国奉行になって正好と別に500石を得ていた好清の家禄を継いだ弟の系統が続いた[92]。
    市辺好清 - 正好 - 勝信 - 豊勝
  • 山下家(尾張四女子2000石・外戚家)
    飛騨国帰雲城主内ヶ島氏の旧臣。義直の母お亀の方の妹の夫である山下氏勝が義直に附属されて2000石を与えられた。嫡男氏政が間宮正像の無許可縁組に連座して改易。氏勝の隠居料を与えられていた弟の系統が継いだ[93]。
    山下氏勝 - 氏政 - 氏輝
  • 久松松平家(藩内2500石・元和以降新参衆)
    家康の異父弟松平康元の三男康久が義直に召し出された。嫡男康龍が早世したため藩主光友の庶子松平康永に家督を譲るが夭折。康久の娘婿である年寄成瀬正景の計らいでその長男である康久外孫の正賀が跡を継ぐが、隠居の康久の了承を得ていなかったことから康久が藩に訴え出て改易された[94]。
    松平康久 = 康永 = 正賀
  • 稲葉家(藩内1500石・元和以降新参衆)
    稲葉正成と春日局の間の子正定が召し出されて1500石を与えられた。3代で無嗣断絶[95]。
    稲葉正定 - 正辰 - 正上
  • 都築家(成瀬四郎左衛門・尾張松下2000石・元和以降新参衆)
    成瀬正一の与力で正一の娘婿となった都築小兵衛の子である正英が小姓として召し出されて家老に昇進し、母方の姓を取って成瀬に改姓したが、嫡男正時が改易された[96]。
    都築(成瀬)正英 - 正時

江戸屋敷

尾張藩は江戸に総坪数は31万1000坪余にもなる屋敷を所持し、諸大名のなかで最大規模を誇っていた。

  • 上屋敷【市谷屋敷】は当主の住まいで政庁も置かれた。明治4年(1871年)、兵部省用地として召し上げられ、以後は一貫して陸軍用地となり、現在は防衛省の敷地となっている。
  • 中屋敷【麹町屋敷】は、江戸城外堀の四谷門内(現東京都千代田区麹町)に拝領した屋敷。総坪数1万7870坪余あった。幕末を迎え、明治2年(1869年)に政府に接収された。
  • 下屋敷【戸山屋敷】は、和田戸山(現新宿区戸山〉にあり避災邸と休息用の別邸を兼ねた下屋敷として整備された。
  • 蔵屋敷は、江戸初期南八丁堀にあったが明暦の大火のあと築地地区の埋立地に移転された。

京藩邸

当初は天神山町(四条烏丸北西)にあった。しかし禁門の変で罹災したことでメインの藩邸として吉田邸が整備されることとなり、尾張藩は、文久3年(1863年)10 月頃に、屋敷を設けるための土地を吉田村に購入した。それ以降、主殿をはじめとする諸施設が徐々に営れ、京都における同藩の拠点として重要な役割を担うに至った。愛知県公文書館に架蔵される「吉田御屋敷之図」には、「三万三千三百三十三坪」と書きこまれており、尾張藩の吉田邸の面積が確かめられる。吉田邸は、明治4年(1871年)に処分され、京都大学吉田キャンパスの敷地となった。これまでにおこなわれた京都大学本部構内における発掘調査で、尾張藩吉田邸に関係するものと考えられる遺構が検出されている。邸内には熱田神宮も勧請された。

東浜御殿

尾張藩は東海道を往来する大名らを招待し供応するため、寛永元年(1624年)初代藩主の徳川義直の命で神戸(ごうど)の浜を埋め立てて出島を造り、そこに東浜御殿を造営した。「厚覧草」によれば寛永11年(1634年)には、三代将軍徳川家光が上洛の際に止宿した。その敷地は1万平方メートル以上、海上城郭の様相を誇っていたとされ、御殿は名古屋城本丸御殿に匹敵する壮麗な仕様であったと考えられている。鯱をいただいた小天守閣のような西側の高楼は、桑名城の天守閣に対抗して建造されたものという。これを桑名楼と呼び、東側の楼閣を寝覚(ねざめ)楼と言い城郭のような構えであった。東浜御殿の位置は、現在の名古屋市熱田区内田町付近であったと推定される。

西浜御殿

尾張藩は承応3年(1654年)に七里の渡しの北西に西浜御殿を築いた。現在、その跡は残っておらず、西浜御殿があった白鳥コミュニティセンター(名古屋市熱田区神戸町)北側に看板が立っているだけである。2018年に徳川林政史研究所(東京)において詳細な間取図が発見された。西浜御殿は平坦な邸だが内部の調度が豪華を極めていたという。歌川広重の浮世絵「宮 熱田濱之鳥居」にも画面左端にその姿が描かれている。

尾張藩主の別荘

陣屋・奉行所・代官所

年貢と正保四ツ概

当初、尾張藩では領内の村々の年貢を徴収するにあたり、天正年間の太閤検地で調べた石高(元高)を基準としていたが、4割以上を徴収していた村もあり、4割未満を徴収していた村もあって一定ではなかった。

正保2年(1645年)に、領内の寺社領を除き、それまで六公四民であった年貢を四公六民(尾張藩が4割を徴収し、百姓は6割を自分の収入とする)ことを定めた。これにより実収入の増加を図るために、元高の65万3千石余を、24万千石余を増やして89万4千石とした概高(ならしだか)に改め、高の40%を基準として年貢を課することにしたので、これによって尾張藩の収入は、約10万石増加した。

その際に従来4割以上徴収していた村の石高を増やし、4割未満を徴収していた村の石高は減らした。このことを正保四ツ概(しょうほうよつならし)と呼んだ。[97]

これにより、尾張藩は10万石程度、実収入が増えることとなった。

木曽谷に対する林政改革

寛文4年(1664年)6月、尾張藩は目付役の佐藤半太夫以下の役人を木曽谷に派遣し、木曽の山々の巡見を行った。

その結果、川筋の材木の伐採に適した所は全て伐り尽くされて乱伐が進んでいたことから、林政改革を行うこととなった。

この改革の眼目の一つは、木曾代官の山村甚兵衛家に一任していた木曽山林の伐木・運材の支配を尾張藩の直轄事業に移し、統制と改革を行うことであった。

それは第一に、山村甚兵衛家および木曽谷の住民に与えられていた山林利用の既得権の大幅な削減であった。具体的には、山村甚兵衛家が家康以来受けていた御免白木5千駄の原木を雑木に切り替え、木曽谷の村々へ与えていた「御免白木」(使用が許可された材木を割って半製品にした材料)6千駄を3千駄に減らした。

統制の第二の点は、尾張藩が木曽谷の村々への民政の直接的支配強化に重点を置いたことである[98]。

改革の第二の点は、「留山」(伐採を禁じた山林)を指定して、山林資源の保持を図ったことである。

また尾張領は御用商人による伐採を停止したり、運材の統制・管理を強化した。この施策は、山林乱伐を防ぐ森林保護政策の先駆であったが、森林資源でくらしを立てていた木曽の領民にとっては厳しい経済統制となった。

寛文5年(1665年)、尾張藩は、それまで山村甚兵衛家に支配を任せていた木曽川中流の錦織役所を廃止し、新たに尾張藩直轄の錦織川並材木奉行所と、牧野川並材木奉行所の両方を新設した。

寛文5年(1665年)、尾張藩は、山林管理のために上松材木役所を設置して材木奉行を派遣した。初代奉行には佐藤半太夫が任命された。奉行定員は2名で1名は、木曽川中流の美濃国可児郡錦織村に存在した尾張藩の錦織川並材木奉行を兼任した

羽書(藩札)の発行と回収

寛政6年(1789年)、尾張藩は羽書(藩札)を発行し、その後、羽書の回収にあたっての課役銀(夫銀・堤銀)の倍額増徴などの財政政策を実施して、藩財政の緊縮と増収を図った。

幕末の領地

明治維新後に、美濃国中島郡2村(八神城主・毛利源内預所の旧幕府領)、北見国網走郡、斜里郡が加わった。

脚注

注釈

  1. ↑ 水戸藩と分家の額田藩でない県南と鹿行も含めると常陸で59件(木村由美子『茨城の百姓一揆と義民伝承』(筑波書林)
  2. ↑ うち2件は紀伊徳川以前の浅野幸長・長晟の北山一揆・紀州一揆(日高一揆)
  3. ↑ 大規模な死者がでた例としては、寛文年間以降に、決起したキリシタンが数百人単位で名古屋の千本松原などに埋められた「濃尾崩れ」、明治維新後に、3万人以上が参加し百姓側に多くの死傷者が出た「稲葉騒動」が起きている。
  4. ↑ 八代吉宗、十四代家茂が紀州からであり、十五代慶喜は、水戸家出身で後に御三卿一橋家の養子になり、その後将軍になっている。
  5. ↑ 吉宗から三か条の詰問を受けたにもかかわらず、宗春は無視して政策を推し進めたとする説もあるが、吉宗から咎めを受けたという公式記録は存在していない。
  6. ↑ 『一条兼香公記』には、紀州藩を批判し、尾張藩を持ち上げる記述が散見される。
  7. ↑ 第4代藩主吉通の長女信受院千姫は、五摂家の九条家に嫁ぎ、その血筋は多くの家に繋がっていき、現在の皇室とも繋がっている。また、御附家老竹腰家にも第2代藩主光友の血筋は伝わっている。
  8. ↑ 公文書において官が低く位が高いときは、位・官の間に「行」の字を入れる。大納言は正三位に相当。
  9. ↑ 1.美濃国中島郡を本領とし、2.土岐氏・斎藤氏・信長・秀吉・家康に仕えた後に、家康の命で徳川義直に附属した、3.松平忠吉の家臣であったことはない毛利家が尾張衆に分類されていることについては、疑問視する見解もある[71]。

出典

  1. ↑ 『百姓一揆の発生地と件数』出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
  2. ↑ 尾張藩『角川日本地名大辞典(旧地名編)』
  3. 1 2 『圓覺院様御伝二十五箇条』近松茂矩記
  4. ↑ 『徳川実紀』
  5. ↑ 徳川義直『軍書合鑑』
  6. 1 2 林董一 1975, pp. 131–132.
  7. 1 2 3 4 林董一 1962, pp. 53–107.
  8. ↑ 林董一 1975, pp. 190–209.
  9. ↑ 林董一 1962, p. 160.
  10. ↑ 林董一 1957, p. 4.
  11. ↑ 林董一 1975, pp. 192–193.
  12. ↑ 林董一 1957, p. 94.
  13. ↑ 林董一 1957, pp. 13–14.
  14. 1 2 林董一 1962.
  15. 1 2 3 『士林泝洄』1, pp. 66–73.
  16. 1 2 3 4 5 6 『士林泝洄』1, pp. 73–83.
  17. ↑ 『士林泝洄』3, pp. 320–326.
  18. ↑ 林董一 1962, pp. 161–179.
  19. ↑ 『士林泝洄』2, pp. 1–4.
  20. ↑ 『士林泝洄』2, pp. 233–239.
  21. 1 2 『士林泝洄』3, pp. 376–382.
  22. ↑ 『士林泝洄』3, pp. 390–393.
  23. ↑ 『士林泝洄』3, pp. 252–257.
  24. ↑ 『士林泝洄』4, pp. 353–356.
  25. ↑ 『士林泝洄』1, pp. 51–55.
  26. 1 2 『士林泝洄』1, pp. 49–51.
  27. ↑ 『名古屋市史人物編』1, p. 147.
  28. 1 2 『士林泝洄』1, pp. 187–203.
  29. 1 2 『士林泝洄』4, pp. 1–6.
  30. ↑ 『士林泝洄』3, pp. 118–120.
  31. ↑ 『士林泝洄』4, pp. 396–397.
  32. ↑ 『士林泝洄』2, pp. 51–54.
  33. ↑ 『士林泝洄』4, pp. 379–380.
  34. ↑ 『士林泝洄』1, pp. 143–145.
  35. ↑ 『士林泝洄』2, pp. 155–157.
  36. ↑ 『士林泝洄』1, pp. 124–131.
  37. ↑ 『士林泝洄』3, pp. 183–189.
  38. ↑ 『士林泝洄』3, pp. 413–414.
  39. ↑ 『士林泝洄』4, pp. 366–367.
  40. 1 2 3 4 『士林泝洄』3, pp. 150–168.
  41. ↑ 『士林泝洄』1, pp. 249–256.
  42. ↑ 『士林泝洄』3, pp. 136–139.
  43. ↑ 『士林泝洄』2, pp. 181–189.
  44. ↑ 梶川勇作「近世の尾張藩における尾張衆とその知行地(後編)」『金沢大学文学部 地理学報告』8号、1997年, pp.43-47.
  45. ↑ 『士林泝洄』3, pp. 418–421.
  46. ↑ 『士林泝洄』4, pp. 6–11.
  47. ↑ 『士林泝洄』1, pp. 417–418.
  48. 1 2 『士林泝洄』2, pp. 207–221.
  49. ↑ 『士林泝洄』3, pp. 440–443.
  50. ↑ 『士林泝洄』1, pp. 341–343.
  51. 1 2 『名古屋市史政治編』1, pp. 208–213.
  52. ↑ 『士林泝洄』3, pp. 371–372.
  53. ↑ 『士林泝洄』3, pp. 386–390.
  54. ↑ 『名古屋市史人物編』1, p. 142.
  55. ↑ 『士林泝洄』3, pp. 297–301.
  56. ↑ 『士林泝洄』3, pp. 37–40.
  57. ↑ 『名古屋市史人物編』1, pp. 170–179.
  58. ↑ 『士林泝洄』1, pp. 93–94.
  59. ↑ 『士林泝洄』1, pp. 131–142.
  60. ↑ 『士林泝洄』1, pp. 234–245.
  61. ↑ 『士林泝洄』1, pp. 359–365.
  62. ↑ 『士林泝洄』1, pp. 508–511.
  63. ↑ 『士林泝洄』2, pp. 4–9.
  64. ↑ 『士林泝洄』2, pp. 17–32.
  65. ↑ 『士林泝洄』2, pp. 122–127.
  66. ↑ 梶川勇作「近世の尾張知多郡における給地と地頭」『金沢大学文学部地理学報告』5号, 1989年, pp.4-8.
  67. ↑ 『士林泝洄』2, pp. 228–233.
  68. ↑ 『士林泝洄』2, pp. 240–243.
  69. ↑ 『士林泝洄』3, pp. 139–145.
  70. ↑ 『士林泝洄』3, pp. 168–174.
  71. ↑ 梶川勇作「近世の尾張藩における尾張衆とその知行地(後編)」(『金沢大学文学部 地理学報告』8号、1997年)P.40、P.50
  72. ↑ 梶川勇作「尾張藩における「給人領」とその給人(後編)」(『金沢大学文学部論集 史学・考古学・地理学篇』18号、1998年)P.44
  73. ↑ 梶川勇作「尾張藩における「給人領」とその給人(前編)」(『金沢大学文学部論集 史学科篇』10号、1990年)P.44
  74. ↑ 『士林泝洄』3, pp. 189–196.
  75. ↑ 『士林泝洄』3, pp. 221–224.
  76. ↑ 『士林泝洄』3, pp. 237–241.
  77. ↑ 『士林泝洄』3, pp. 341–342.
  78. ↑ 『士林泝洄続編』, pp. 139–140.
  79. ↑ 『士林泝洄』1, pp. 165–182.
  80. ↑ 『士林泝洄』1, pp. 145–150.
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  82. ↑ 『士林泝洄』2, pp. 10–17.
  83. ↑ 『士林泝洄』4, pp. 549–550.
  84. ↑ 『士林泝洄』2, pp. 33–36.
  85. ↑ 『士林泝洄』2, pp. 138–140.
  86. ↑ 『士林泝洄』2, pp. 149–151.
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  90. ↑ 『名古屋市史人物編』1, pp. 240–242.
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  94. ↑ 『士林泝洄』4, pp. 597–599.
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  96. ↑ 『士林泝洄』4, pp. 616–617.
  97. ↑ (濃飛通史・濃陽徇行記)
  98. ↑ 近世林業史の研究・岐阜県史

参考文献

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関連項目

外部リンク

先代
(尾張国)
高須藩
行政区の変遷
1610年 - 1871年 (尾張藩→名古屋藩→名古屋県)
次代
名古屋県