呉廷祚

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呉 廷祚(ご ていそ、918年 - 971年)は、五代十国時代から北宋にかけての官僚・軍人。字は慶之。本貫は并州太原県[1]。

経歴

若くして読書に励み、郭威に仕え、親校となった。後周の広順初年、荘宅副使に任じられ、内軍器庫使・知懐州に転じ、入朝して皇城使となった。天平軍節度使の符彦卿が大名尹となると、廷祚は権知鄆州をつとめた[1]。

顕徳元年(954年)、世宗柴栄が即位すると、廷祚は右羽林将軍に任じられ、内客省使をつとめた。ほどなく宣徽北院使に転じた。世宗が北漢を征討すると、廷祚は北面都巡検使となった。北征軍が帰還すると、廷祚は権判澶州をつとめた。開封に帰ると、右監門衛大将軍を加えられた。まもなく宣徽南院使に転じ、判河南府・知西京留守事をつとめた。汴河が決壊すると、廷祚は世宗の命を受けて成年男子数万人を監督し決壊箇所を塞いだ。開封から臨淮にいたる堤防を増築し、数十日で工事を完了させた。世宗が北征すると、廷祚は権東京留守をつとめた。夏、黄河が鄭州原武県で決壊すると、廷祚は世宗の命を受けて近県から成年男子2万人あまりを動員して決壊箇所を塞いだ。北征軍が帰還すると、廷祚は左驍衛上将軍・検校太傅となり、枢密使をつとめた。顕徳6年(959年)、恭帝柴宗訓が即位すると、廷祚は検校太尉を加えられた[1]。

北宋の建隆元年(960年)、廷祚は同中書門下二品[注釈 1]を加えられたが、廷祚の父の名を璋といったことから、平章事を避けたものである。潞州で李筠の乱が起こると、廷祚は潞州州城(上党)が太行山脈の険に拠っており、反乱軍に籠城されると、撃破しがたくなるとして、李筠を誘い出すよう太祖趙匡胤に進言した。太祖が親征すると、廷祚は東京留守をつとめ、判開封府を兼ねた。李筠がはたして兵を率いてやってきて、太祖と沢州の南で戦うと、反乱軍は敗走した。揚州で李重進が反乱を起こし、太祖が親征すると、廷祚は再び東京留守をつとめた[2]。

建隆2年(961年)夏、廷祚は秦州雄武軍節度使に転じた。ときに秦州夕陽鎮の西北に接する藪地で、古代の伏羌県の地を知秦州の高防とタングートの首長の尚波于が争奪していた。廷祚が高防に代わって赴任すると、尚波于らを赦免する詔をもたらした。秋、尚波于らは伏羌の地を献上した[2]。

乾徳2年(964年)、廷祚は開封に入朝し、京兆尹となった。開宝4年(971年)、長春節[注釈 2]に入朝した。まもなく病にかかり、死去した。享年は54。侍中の位を追贈された[2]。

廷祚は慎み深く温厚で寡黙であり、孝行な性質で、母の喪にあたっては、何日も水を飲まなかった。学問を好み、1万巻あまりの書籍を蒐集した。家政は厳粛で、仏教を崇拝した[2]。

家族

  • 父:呉璋[2]
  • 子:呉元輔(字は正臣、左驍衛将軍・澶州巡検、定州鈐轄)[3]
  • 子:呉元載
  • 子:呉元範(礼賓副使)
  • 子:呉元扆
  • 子:呉元吉(閤門祗候)
  • 子:呉元慶(礼賓副使)[2]
  • 孫:呉昭徳(呉元輔の子、閤門祗候)
  • 孫:呉昭遜(呉元輔の子、閤門祗候)
  • 孫:呉昭普(呉元輔の子、閤門祗候)[3]
  • 孫:呉昭明(呉元載の子、内殿崇班)
  • 孫:呉昭矩(呉元載の子、太子中舎)[4]
  • 孫:呉守礼(呉元扆の子、六宅使・澄州刺史)
  • 孫:呉守厳(呉元扆の子、内殿崇班)
  • 孫:呉守良(呉元扆の子、内殿崇班)
  • 孫:呉守譲(呉元扆の子、閤門祗候)[5]
  • 孫:呉昭允(呉元吉の子、太子中舎)
  • 孫:呉守仁(呉元慶の子、内殿崇班)[2]

脚注

注釈

  1. ↑ 「同中書門下三品」とされるのが通常で、避諱のため一品を欠いたもの。
  2. ↑ 趙匡胤の誕生日の旧暦2月16日を長春節といった。

出典

  1. 1 2 3 宋史 1985, p. 8947.
  2. 1 2 3 4 5 6 7 宋史 1985, p. 8948.
  3. 1 2 宋史 1985, p. 8949.
  4. ↑ 宋史 1985, p. 8950.
  5. ↑ 宋史 1985, p. 8952.

伝記資料

  • 『宋史』巻257 列伝第16

参考文献

  • 『宋史』中華書局、1985年。ISBN 7-101-00323-0。