呉懿
蜀漢
仮節・車騎将軍・雍州刺史・済陽侯
出生 生年不明
兗州陳留郡
死去 建興15年(237年)
拼音 Wú Yì
主君 劉焉→劉璋→劉備→劉禅
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呉 懿(ご い)は、中国後漢末期から三国時代の蜀漢の武将。『三国志 (歴史書)』では呉 壹(ご いつ)と記される[1]。字は子遠。兗州陳留郡の人。従父は呉匡。族弟は呉班。妹は呉氏[2]。子の名は不明[3]。孫は呉喬[4]。

事跡

少年時代に父を失ったが、かつて亡父と旧交のあった劉焉の入蜀の際に母と妹、そして族弟の一家と共に益州に移住し、劉焉亡き後は子の劉璋に仕えて中郎将に任じられた。

建安17年(212年)、劉備が劉璋を攻撃すると防御にあたったが、防ぐことができずに降伏した。建安19年(214年)、劉備は益州を平定すると呉懿を護軍・討逆将軍に任じ、妹の呉氏を夫人とした。章武元年(221年)、劉備が皇帝に即位した時には偏将軍・関中都督となっている[5]。

建興6年(228年)、街亭の戦いの際には、諸将は先鋒には実戦経験豊富な魏延や呉懿を推挙したが、諸葛亮は聴き容れず、馬謖を任用して大敗を喫した。

建興8年(230年)、魏延と共に羌中に進出し、魏の費曜を撃破して左将軍に昇進し高陽郷侯(兗州陳留郡)に封じられた。

建興9年(231年)の李厳が罷免された時点では左将軍・荊州刺史・高陽郷侯であった。

建興12年(234年)の諸葛亮の死後、督漢中・車騎将軍・仮節・雍州刺史となり済陽県侯(兗州陳留郡)に封じられた。呉懿の副として王平が漢中太守となり漢中を守備した。

建興15年(237年)に死去した。

呉懿は博愛の人物として知られ、戦功もあり、何より皇帝の外戚という重要人物でありながら、正史に彼個人の伝が立てられていない。

孫の呉喬は成漢の李雄に30年間(李雄の在位期間に等しい)屈しなかったという[4]。

評価

季漢輔臣賛において「非常に剛毅な人物であり、博愛の心を持っていた。弱軍を率いて強敵を制圧し、危機に陥ることがなかった」と称賛されている。

三国志演義

脚注

  1. ↑ 「呉懿」は『華陽国志』や『三国志演義』の表記。一般的に、三国志では司馬懿の諱を避けたがために、「懿」を「壹」に変えたと解釈される。確かに三国志の魏書は司馬懿を「司馬宣王」と書くが、会話文中では「司馬懿」と書く場合もある。蜀書では地の文でも「司馬懿」と記載する場合もあり、後主伝では「呉壹」「司馬懿」、王平伝では「呉壹」「司馬宣王」と記載する。なお、呉壹は魏書・呉書では登場しない。唐の顔師古は、班壹(班超の祖先)と聶壹(張遼の祖先)とを挙げて「今、流通する漢書の写本は、(司馬懿の諱を避けたと早合点して)壹を懿に改めるものが多い」と批判するが、呉壹もこの風潮から免れなかったと推測される。
  2. ↑ 『呉氏統譜』は呉莧と記す。
  3. ↑ 『呉氏統譜』は呉教と呉彦の二子を記す。
  4. 1 2 穆皇后伝が引く『蜀世譜』(孫盛著)による。
  5. ↑ 『華陽国志』巻六・劉先主志、「偏將軍將軍呉懿爲關中都督」。名前の序列は諸葛亮・許靖・張飛・馬超の次で魏延・李厳・馬良・楊儀の上にある

参考文献

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