| 呉懿 | |
|---|---|
| 蜀漢 仮節・車騎将軍・雍州刺史・済陽侯 | |
| 出生 |
生年不明 兗州陳留郡 |
| 死去 | 建興15年(237年) |
| 拼音 | Wú Yì |
| 主君 | 劉焉→劉璋→劉備→劉禅 |
呉 懿(ご い)は、中国後漢末期から三国時代の蜀漢の武将。『三国志 (歴史書)』では
少年時代に父を失ったが、かつて亡父と旧交のあった劉焉の入蜀の際に母と妹、そして族弟の一家と共に益州に移住し、劉焉亡き後は子の劉璋に仕えて中郎将に任じられた。
建安17年(212年)、劉備が劉璋を攻撃すると防御にあたったが、防ぐことができずに降伏した。建安19年(214年)、劉備は益州を平定すると呉懿を護軍・討逆将軍に任じ、妹の呉氏を夫人とした。章武元年(221年)、劉備が皇帝に即位した時には偏将軍・関中都督となっている[5]。
建興6年(228年)、街亭の戦いの際には、諸将は先鋒には実戦経験豊富な魏延や呉懿を推挙したが、諸葛亮は聴き容れず、馬謖を任用して大敗を喫した。
建興8年(230年)、魏延と共に羌中に進出し、魏の費曜を撃破して左将軍に昇進し高陽郷侯(兗州陳留郡)に封じられた。
建興9年(231年)の李厳が罷免された時点では左将軍・荊州刺史・高陽郷侯であった。
建興12年(234年)の諸葛亮の死後、督漢中・車騎将軍・仮節・雍州刺史となり済陽県侯(兗州陳留郡)に封じられた。呉懿の副として王平が漢中太守となり漢中を守備した。
建興15年(237年)に死去した。
呉懿は博愛の人物として知られ、戦功もあり、何より皇帝の外戚という重要人物でありながら、正史に彼個人の伝が立てられていない。
季漢輔臣賛において「非常に剛毅な人物であり、博愛の心を持っていた。弱軍を率いて強敵を制圧し、危機に陥ることがなかった」と称賛されている。
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