城市管理執法

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城市管理执法
Urban Management and Law Enforcement
城市管理執法の徽章
司法権 中華人民共和国の旗 中華人民共和国
第一運営主体 中華人民共和国住宅都市農村建設部
第二運営主体 中国共産党中央紀律検査委員会および中華人民共和国国家監察委員会駐住建部紀検監察組]]
関係法

運営幹部
親機関 住房和城郷建設部城市管理監督局
機能 行政処罰、市容管理
広州市の城管隊員
汕頭市の小公園で任務にあたる城管隊員
上海市楊浦区に設置された城管執法所
北京の城管執法の車両。一般に没収した物品の輸送に用いられる。
上海の城管執法の車両

城市管理執法(じょうしかんりしっぽう、中国語: 城市管理执法; 拼音: chéngshì guǎnlǐ zhífǎ、英語: Urban Management and Law Enforcement、略称「城管」)は、中華人民共和国の都市管理において、総合的な行政法執行を担当する部門である。

城管の法執行制度は、城建監察大隊から、城市管理監察大隊、城市管理監察弁公室、城市管理総合行政執法局、城市管理総合行政執法監察局を経て、現在の城市管理執法隊伍へと発展してきた。

2017年、国務院の住宅および都市・農村建設部(中国語: 住房和城鄉建設部、略称「住建部」)は『城市管理執法弁法(中国語版)』を公布した。これにより、都市管理の法執行職員は行政執法類公務員に位置づけられ、国家公務員試験に合格して正規の訓練を受けた後、局および隊の法執行職員の定員に基づいて配置されることとなった。また、城管部門で勤務していた臨時雇用職員は全面的に整理・解雇された。

2021年には、新版の『行政処罰法』が審議・可決され、国が都市管理分野において総合行政執法制度の構築を推進し、行政処罰権を相対的に集中させることが明確に規定された[1]。

名称

中国の「城管」には全国統一の組織としての正式名称は存在しない。これは、各地方政府(省・市・県など)の判断によって組織が設置されているため、都市によって名称が異なるためである[2]。例えば、北京市では北京市城市管理綜合行政執法局[3]、上海市では上海市城市管理行政執法局[4]、広州市では広州市城市管理和綜合執法局が設置されている[5]。

歴史

前史

殷代

『韓非子・内儲説上』には、「殷之法,棄灰於道者断其手」(殷の法では、道路に灰を捨てた者はその手を切断された)とある。

周代

周代には、城管に相当する者は「胥」と呼ばれ、勤務中は鞭または武器となる杖を携帯していた。物を無秩序に置いたり、道路を占有して商売をしたりして管理に従わない者がいれば、鞭で打ったり、杖を振るって追い払ったりすることが多かった。

周代には坊市制度が実施され、市場と居住区域を分離することで、商業活動が日常生活に及ぼす影響を軽減することが狙われていた。『周礼・地官司徒第二』の「司市」には、「凡市入,則胥執鞭度守門」(全ての市場の入り口では、胥が鞭度を執って門を守る)とある。「鞭」は文字どおり鞭であるが、「度」は「殳」とも呼ばれる古代の武器の一種で、竹または木で作られ、角はあるが刃はなく、長さは約一丈二尺であった。その威嚇効果は今日の警棒と同様であり、一撃で死亡させるようなものではないものの、場合によっては死に至らせることもあったため、強い威嚇力を備えていた[6]。

西周時代の軍律である『伐崇令』には、「毋壊屋,毋填井,毋伐樹木,毋動六畜,有不如令者,死無赦」(家屋を壊してはならず、井戸を埋めてはならず、樹木を伐採してはならず、家畜に手を出してはならない。命令に従わない者は、死罪として赦さない)とあり、樹木の無秩序な伐採などについて規定が設けられていた[7]。

秦漢

『漢書・五行志』にも、「秦連相坐之法,棄灰於道者黥」(秦では連座法があり、道路に灰を捨てた者には黥刑を科した)とある。「黥」とは、人の顔に文字を刺青し、墨を入れる刑罰である。手を切断する刑と比べれば軽いものの、依然として非常に苛酷な刑罰であった[8]。

『史記』によれば、「三十三年,発諸嘗逋亡人,贅婿、賈人略取陸梁地,為桂林、象郡、南海,以謫遣戍」とあり、商人は辺境の守備に送られ、さらに商人の子孫まで従軍させられた。「先発吏有謫及贅婿、賈人,後以嘗有市籍者,後又以大父母、父母嘗有市籍者,後入閭取其左」とあるように、このような厳しい抑商政策のもとでは、露店商が発展する余地はなかった。

『秦律・田律』には、「春二月,毋敢伐材木山林及雍(壅)堤水。不夏月,毋敢夜草為灰」とあり、山林の樹木の伐採、草木の焼却、水路のせき止めなどについて明確な規定が設けられていた。

その後、漢代になると坊市制度はさらに整備され、坊と市は比較的規則正しく配置された。漢代の長安城については、「街衢洞達,閭閻且千,九市開場,貨別隧分,人不得顧,車不得旋,闐城溢郭,傍流百廛,紅塵四合,煙雲相連」と記されている。武帝以降、漢朝の経済制度は次第に農業を重視し商業を軽視する方向へ進み、工商業に従事する者には重い税が課された。さらに、市場で営業する商人にも制限が設けられ、誰でも自由に商売を行えるわけではなかった[9]。

唐代

唐代になると、市場には「市令」という官職が置かれ、主として市場取引を管理した。また、正午に太鼓を300回打つと商人が市場に入ることができ、日没の三刻前には鉦を300回鳴らして市を閉じることが定められていた[10]。長安では厳格な坊市制度が実施され、商業区域と居住区域が分離されており、その境界を越えることは認められていなかった。「市」は商工業活動を行う場所であり、「坊」は閉鎖された居住区域であった。市の商店は商品の種類ごとに分けられ、指定された場所に配置されていた。そのため、固定した営業場所を持たない露店型の商売が大量に存在することは困難であった。また、唐朝では農民が自由に都市へ入ることも禁止されており、これも長安で農産物を販売する小商人が生まれにくい要因となった[11]。

『唐律』にはさらに、「距府十丈無市,商於舎外半丈,監市職治之」と規定されていた。すなわち、露店を設ける場合には政府の役所から少なくとも30メートル離れなければならず、民家にも近づきすぎてはならず、1.5メートル以上の距離を置く必要があり、「監市」がその監督を担当した。また、道路を占有して営業する行為には厳しい処罰が定められていた。『故唐律疏議』巻第二十六「雑律」には、「諸侵巷街阡陌者,杖七十;若種植墾食者,笞五十。各令復故」(路地、街路、道路などを侵占した者は杖七十に処し、そこで作物を植え耕作した者は笞五十に処する。それぞれ原状に復させる)と規定されている。つまり、刑罰を受けた後には、占有した街路を元の状態に戻すことも求められた[12]。

宋代

宋代は、中国古代において商業が最も発達した時代であった。さまざまな制限がなくなったことで、小商人や露天商が大量に現れた。『清明上河図』からは、当時の露店経済がいかに発達していたかをうかがうことができる。当時、宋朝は露天商の管理を専門に担当する機関として「街道司」を設置していた。

街道司は街路を測量し、商人が露店を出す場所を区画した。商人はそれぞれ定められた場所で商売をしなければならず、その範囲を越えて営業することは認められなかった。『宋刑統』には、「諸侵街巷阡陌者,杖七十」(街路や道路を侵占した者は杖七十に処する)と規定されている。『清明上河図』に描かれた虹橋のそばにある木杭は「表木」とも呼ばれ、街道司が露天商の営業区域の境界を示すために設置した標識であった[11]。

明清

明代には、太祖朱元璋が厳格な統治を行ったことで知られる。『明会典』の記録によれば、京城では「凡侵占道路,而起蓋房屋,及為園圃者,杖六十,各令復旧」(道路を占有して家屋を建て、または菜園・庭園などとした者は杖六十に処し、それぞれ原状に復させる)と定められていた。また、街路にごみを捨てたり汚水を流したりする行為についても、「其穿牆而出汚穢之物於街巷者,笞四十。出水者勿論」(壁に穴を開け、汚物を街路へ排出した者は笞四十に処する。ただし、水を流す場合は罪に問わない)と規定されていた。このほか、明代には、公共施設の破壊、規定に従わない車両の通行、禁止区域内での露店営業、土を採取して日干し煉瓦を作る行為、路上での大小便なども一律に処罰の対象とされ、違反者には強制的に刑具を装着させ、街頭で1か月間さらし者にする、いわゆる「枷号一個月発落」という処分が科された。このように、都市管理の手段はきわめて厳しいものであった[13]。

清末の光緒34年(1908年)、清政府民政部は巡警道の官制を正式に設ける案を上奏し、各省に従来設置されていた巡警などの諸機関を統合して、全省の巡警、消防、戸籍、営繕、衛生に関する事務を一元的に担当させることとした。光緒帝はまもなくこの上奏を裁可した。続いて、『巡警道官制並びに分課弁事細則』が公布され、巡警道の下に警務公所を設置し、全省の警務を執行する機関とすることが定められた。

宣統2年(1910年)4月には、天津に直隷巡警道が設置され、舒鴻貽が初代道員に就任した。その後、民政部が制定した『各省巡警道官制並びに分課弁事細則』の規定に基づき、直隷巡警道はその管轄地域に直隷警務公所を設置した。同公所には総務、行政、司法、衛生の4科が置かれた[14]。このうち、衛生科が担当した『改定清道章程』『預防時疫清潔規則』『管理飲食物営業規則』などに関する職務、および行政科が担当した『管理夜市執行細則』などに関する職務は、都市管理(城管)に関連する機能であった[15]。

民国期

北洋政府期の警察制度は清末の警察制度を踏襲したものであり、都市管理分野における法執行も警察が担当していた。

1914年8月29日、全18条からなる『京師警察庁官制』が公布された。このうち京師警察庁行政処第三科は、主として警衛の派遣、市場および商品の監察、開業・廃業の登記、工場・質屋・各種商店の管理、度量衡・貨幣の管理、官民の建築物審査、管轄区域内の道路・橋梁の審査などを所管した。市中の日常的な商業秩序を維持し、商業の安定的な発展を保障することは、京師警察庁による北京の都市管理においてきわめて重要な業務の一つとなった。京師警察庁は、露天商の管理に関する規則を公布して、管轄下の各区署にその遵守を命じ、最終的には末端の巡警が具体的な執行を担当した。巡警は、警察庁が公布した各種の規則、条例、章程、弁法、細則、公告、布告、訓令、公函などに基づき、露天商を厳格に監督した。具体的には、末端の巡警による露天商管理には主として次の四つの業務があった。第一に、露天商の営業資格を審査すること、第二に、露天商の営業秩序を維持すること、第三に、露天商による各種の違法な営業行為を取り締まること、第四に、露天商を対象とする各種の税・賦課金を徴収することであった。市中の秩序を効果的に維持するため、警察庁および各区署は露天商の営業許可証を厳格に監督し、無許可の露天商には営業の停止を命じるか、区署に申請して許可を得た後に営業するよう命じた。

例えば、1925年5月8日午前7時ごろ、劉姓の花売りが花を載せた天秤棒を西単北大街の東華興電料行の前に置き、その日の営業を始めようとしていた。この区域を日頃から巡回し、「浮攤票」の販売も代行していた霍姓の巡警が、浮攤票を購入済みであるかを確認したところ、購入していないことが判明したため、1枚購入するよう命じた。しかし、劉姓の花売りには浮攤票を購入する金がなかったため、霍姓の巡警はその場で彼を追い払い、その場所で露店営業を行うことを禁止した。また、露天商が営業中に関連規定に違反し、その情状が重大な場合には、『違警罰法』に基づいて処分された。例えば、1913年4月27日、露天商の李士祥が路傍で食品を販売する行商を行い、巡警による制止に従わなかったため、管轄区署は『違警律』第28条第2項および第35条第2項に基づき、李士祥を行政拘留に処するとともに、露店を撤去するよう命じた。

国民政府期においても、都市管理の機能は引き続き行政警察が担った。例えば、上海市が1945年に定めた『上海市経常保持清潔弁法』には、行政警察が巡回する際、路上での痰吐きや大小便、汚水の排出、紙くずや果物の皮の投棄、道路をまたいで衣服を干す行為、露天商が道路脇を占有して営業する行為などを取り締まることが規定されていた[16]。

共和国建国後

共和国建国初期

1949年の新中国建国直後、都市管理は軍事管制体制の下で実施された。

例えば北平(現・北京)においては、市軍事管制委員会および人民政府は、軍事管制を通じて市内の秩序を急速に回復させた。1949年以降、「北京市清潔運動委員会」や「整頓攤販指揮部」などの臨時的組織が設置され、党・政・軍・市民をあげた大規模なゴミ清掃運動や露店整理が短期間に集中動員方式で展開された。都市機能の復興に伴い、1949年12月に衛生局から「衛生工程局」(1950年に龍須溝の下水道整備などを主導)が分設され、1950年には公共交通・水道・ガス等を管轄する「公用局」が発足した。これにより、市容環境衛生・市政工程・公用事業を中心とする都市管理の基本枠組みが形成され始めた[17]。

上海においても、解放後、露天商は至るところに露店を出すようになった。歩道や道路沿いの弄堂の入口に店を構える者もいれば、集団で移動しながら営業する者もおり、交通渋滞や歩行者の混雑など、混乱した状況を引き起こしていた。南京路、中正路(現在の延安路)、林森路(現在の淮海路)、金陵路といった主要道路にまで露店が立ち並んでいた。金陵路の一部区間だけでも7,000~8,000人もの露天商がおり、社会治安と交通秩序に深刻な支障をきたしていた。統計によれば、1949年5月25日から6月2日までの7日間に、露天商に起因する車両事故によって3人が死亡し、2人が負傷する惨事が発生した。上海市人民政府は、交通秩序を整え、市民の利益と安全を守るため、露天商の整理・取締りを公安行政の重点業務とすることを決定した。1949年6月26日には『管理攤販暫行規則』を公布し、市街地に固定した露店を設けて営業する者は、いずれも資力の確かな商店による保証を得たうえで、所在地を管轄する公安分局に営業許可証を申請しなければならないと定めた。

解放当初、上海における露天商管理の組織体制は、基本的に市公安局の指導のもと、各公安分局が執行を担当するものであった。市政府はまず『管理攤販暫行規則』を公布し、公安局が露天商の集中営業区域を指定して、露店の位置を暫定的に区画するとともに、申請・登記・許可証の交付を行い、巡察制度や休業届出制度の整備に着手した。その後、管理業務が複雑で多方面に関係することから、市政府の下に攤販整理委員会が設置され、公安部門が中心となって業務を担当した。1949年7月11日、市公安局は天蟾舞台で市全域の露天商を対象とする会議を開催し、各区から3,500人余りの露天商代表が出席した。

露天商管理の行政組織を強化するため、市人民政府は1950年9月、露天商管理業務の中心を公安局から工商局へ移管することを決定した。これに伴い、攤販整理委員会は攤販管理委員会へと改組された。同委員会は工商、公安、税務、工務、財政、衛生などの各局および区政指導処によって構成され、工商局が主任委員を務めた。露天商管理に関する原則や方針を明確にし、委員会で決定した事項については、工商局攤販科がその実施を補佐することとされた。各区には分会が設置され、区人民政府工商科攤販組が営業管理業務を担当した。この時期には、工商政策に基づき、各方面への配慮と全体的な調整を図るという原則のもと、露天商管理の正常な秩序の基礎が確立された。

1950年11月29日、上海市人民政府は『上海市攤販管理暫行弁法』を公布し、従来の『管理攤販暫行規則』に一部修正と補足を加えた。同弁法では、飲食、医薬品、理髪、洗濯などを営む露天商について、「まず所在地の区の衛生部門による審査・許可を受け、証明書を取得した後でなければ、営業登記を申請することができない」と定めた。また、営業時の遵守事項として、「装飾や仮装を施したり、看板を掲げたり、音の出る器具を使用したり、大声で呼び込みを行ったりしてはならない」「道路沿いの消防設備を遮蔽してはならない」「検定を受けていない度量衡器を使用してはならない」といった規定が追加された。さらに、規定に違反した者に対しては、「1. 警告教育(反省を誓約する書面の提出を含む)、2. 1日以上10日以下の営業停止、3. 2,000元以上5万元以下(旧通貨単位)の罰金、4. 営業許可証の取消しおよび永久営業停止命令、5. 情状が重大な場合は人民法院へ送致する」ことが定められた[18]。

調整期(1961年 - 1977年)

1960年代から1970年代にかけては、経済調整や政治的動乱により都市管理組織の不完全な再編が続いた。1960年代初頭の国民経済調整期において、都市人口削減方針に伴い都市管理組織の人員削減が行われた。一方で、1964年には「環境衛生局」が新設され、市容・清掃管理の一体化・集中化が推進された。1966年に始まった文化大革命では、革命委員会(中国語版)体制において、従来の行政機構は一時撤廃・統合され、「工交城建組」や1969年発足の「建設局」へと過度に一元化されることとなった。1971年以降、都市計画局、房管局、園林局、市政工程局、市容弁公室、環境管理局などの再分設・復元が進められた[18]。

改革開放後

再建期(1978年 - 1999年)

1982年12月11日、城郷建設環境保護部は『城市市容環境衛生管理条例』(試行)を公布した。これは中国の都市市容・環境衛生管理に関する初の部門規章であった[19]。これにより、中国大陸では、都市管理の職能が警察・工商部門から、住宅・都市農村建設部門の管轄下にある城管へと正式に移管され始めた。

改革開放の開始に伴い、都市の急速な拡大と計画経済および単位制の解体が進行し、違法建築や市容の「髒、乱、差(汚い・無秩序・劣悪)」といった問題が深刻化した[19][20]。これに対処するため、全国各地の都市政府は市容整頓から着手し、「城市建設管理監察」(あるいは市容監察)と呼ばれる取締機構を順次立ち上げた。こうして次第に城建監察制度と城建監察執法組織が整備されていったものの、分散執法、多頭執法、委托執法、野蛮執法の問題も同時に出現した[19]。これは取締の根拠法が分散しており、各分野ごとに執法組織が整備されたためであり、各地方政府は、市容環境衛生、都市計画、市政公共事業、造園緑化、不動産、風景名勝区などの分野ごとに専門の監察大隊を設置し、これらの専門的な監察大隊は、それぞれ所管の行政機関に属し、専門分野ごとに分散して法執行を行う体制が形成された[20]。また、これらの大隊は多くが事業単位としての性格を持ち、行政法執行の主体となる資格を備えていなかったため、政府の各部局はそれぞれ大隊に法執行・監察業務を業務委託する形をとっていた[20]。

こうした分散・重複執法や委託執法の乱立を解消するため、1988年の中央機構改革により、城建監察の管轄権が建設部に一元化された。1989年1月には、建設部が『城建管理(市容)監察工作の強化に関する通知(中国語: 建设部关于加强城建管理(市容)监察工作的通知』を発令し、各省・自治区の建設庁/建設委員会が地域の城建監察を統一管理する体制が整えられた[19]。同年12月には『中華人民共和国城市計画法』が公布された[19]。

1992年6月3日には建設部が『城建監察規定』(建設部令第20号)を公布し、全国の城建監察執法主体およびその職責範囲を規定した[19]。これにより、全国の城建監察執法組織の「隊伍の名称・執法主体・執法内容・執法体制・服装標識・帰口管理」の統一が達成された[19]。1992年6月28日には国務院が『城市市容和環境衛生管理条例』(国務院令第101号)を正式に頒布・施行した。これは同分野において初となる全国共通の行政法規であり、『城建監察規定』(建設部令第20号)と並んで、城建監察の現場取締りを支える重要法規として機能した[19]。

1996年制定の『行政処罰法』により、複数部門に分散していた行政処罰権を単一機関に集中させる「相対集中行政処罰権」の法的根拠が確立された[19]。1997年5月、北京宣武区に全国初となる「宣武区城市管理監察大隊」が設立され、相対集中行政処罰のパイロット運用が開始された[19]。

拡張期(2000年 - 2015年)

2000年代に入ると、従来の分散型からこうした単一部門による総合行政執法体制への移行が定着した[20]。2002年の国務院による「集中行政処罰権工作を一層推進することに関する決定(中国語: 关于进一步推进相对集中行政处罚权工作的决定、国発17号)」および国務院弁公庁「行政法執行組織の整理・再編および総合行政法執行の試行に関する意見(中国語: 关于清理整顿行政执法队伍实行综合行政执法试点工作的意见、国弁発56号)」により、相対集中行政処罰権と総合執法が全国に展開された[20]。2003年、北京市において「城市管理総合行政執法局」が正式発足し、2011年には市政市容管理委員会から離脱して北京市政府直属の行政執法機構へと格上げされた[17]。

2008年の「住宅・都市農村建設部の主要な職責、内部機構および人員定数に関する規定の公布についての国務院弁公庁の通知(中国語: 国务院办公厅关于印发住房和城乡建设部主要职责内设机构和人员编制规定的通知、国办发〔2008〕74号)」により、都市管理の具体的な職責は正式に地方都市政府へ委ねられた[19]。2008年9月19日、浙江省第十一届人民代表大会常務委員会第六次会議で『浙江省城市管理相対集中行政処罰権条例」が成立し、これは省级人大で城市管理相対集中行政処罰権について定めた初の地方性法規となった[19]。2011年2月18日には長沙市人民代表大会常務委員会が全国初の地方性都市管理法規である『長沙市城市管理条例』を公布した[19]。また「我愛北京」城管マップや市民城管通アプリの導入により、市民参加型の共治モデルが開始された[20]。

統括管理期(2016年 - )

2015年12月24日、中央城市工作会の関連文書として「都市法執行体制の改革を深化させ、都市管理業務を改善することに関する中国共産党中央委員会・国務院の指導意見(中国語: 中共中央国务院关于深入推进城市执法体制改革改进城市管理工作的指导意见、中发[2015]37号)」が公布され、全国的な都市管理体制の再構築が行われた[20]。

2016年、住建部内に「城市管理監督局」が新設され、全国の城管業務に対する中央の指導体制が一本化された。2017年5月には『城市管理執法弁法』(住建部令第34号)が施行され、1992年の『城建監察規定』は廃止された[20]。

北京市では2016年に「城市管理委員会」が発足し、エネルギー日常運行、水務、緑化、環境衛生等の統括権限が強化された[17][20]。2020年には城管執法局も同委員会の管轄下に組み込まれ、都市の計画・運行管理と末端執法の一体化が図られた[17]。

2018年以降、北京市では「街郷吹哨、部門報到(街道が笛を吹き、部門が駆けつける)」および「接訴即辦(市民の訴えを受け即座に対処する)」改革が進められた[17][20]。2020年には市・区の431項目の行政執法権限が街道・郷鎮レベルへ下放され、現場の近接執法体制が強化された[17]。

職権

『城市管理執法弁法』によれば、都市管理執法部門は以下の権限を行使する。

  • 都市管理における行政法執行に係る行政処罰権の範囲は、法律・法規および国務院の関連規定に基づいて定められる。これには、住宅・都市農村建設分野の法律・法規・規章に定められた行政処罰権のほか、環境保護管理、工商管理、交通管理、水務管理、食品・医薬品監督管理の各分野における、都市管理に関連する部分の行政処罰権が含まれる。
  • 都市管理における法執行事項を集中的に行使する必要がある場合、以下の条件をすべて満たさなければならない:
    • 都市管理と密接に関連していること。
    • 住民の生産活動や日常生活と密接に関連し、複数部門による法執行が住民に迷惑を及ぼす問題が顕著であること。
    • 法執行の頻度が高く、求められる専門技術の水準が適切であること。
    • 権限を集中的に行使する必要性が実際に認められること。
  • 都市管理執法主管部門が法律に基づき行政処罰権を相対的に集中して行使する場合、法律・法規に定められた、行政処罰権に関連する行政上の強制措置を実施することができる。

不祥事

城管は社会の下層に属する人々と直接向き合うため、違法行為を行った者を管理・処罰するうえで、十分に有効な手段を持たない場合が多い[21]。また、違法行為を行った者が自らの置かれた境遇によって社会の世論の関心を集めることも多く、それが城管の業務をさらに困難にしている[21]。さらに、都市の各職能部門は、街頭の流しの露天商(店舗を持つ商人は市場監督管理部門が所管)や違法建築物(許可証のある建築物は自然資源部門が所管)など、管理が難しく、社会の下層に属する人々を対象とする業務を城管に委ねる一方で、比較的規制しやすい業務は各部門が引き続き所管している。そのため、多くの地域で城管はさまざまな社会的対立の焦点にもなっている[21]。

一部の研究者は、実際の法執行の過程では、失業した労働者や無職者などの社会的弱者の多くが遵法意識に乏しく、教育水準も高くないため、城管による法執行に際して、理不尽な言いがかりや執拗な抵抗によってその執行を妨害したり、暴力を用いて法執行に抵抗したりすることが多く、これに対して城管側も法律・法規および自らの権益を守るため、相応の措置を講じていると指摘している[21]。また、城管部門自体は比較的新しい機関であり、その制度的な規範化にはなお改善の余地がある。城管の法執行職員は出身・経歴が多様で、その資質にもばらつきがある。さらに、法執行に際しては、主として罰金、没収、強制執行などの画一的な手段が用いられているため、違反者の反感や抵抗を招きやすい行為が頻繁に発生している[21]。

城管は暴力的な法執行などによって「知名度」を高めたことから、その漢語拼音表記である「chengguan」が英語の新たな外来語となり[22]、「暴力」の同義語にもなった[23]。

「城管」という名称は新しく生まれたものであり、その職能も中華人民共和国に固有のものだと考える人は多い。しかし実際には、小規模な露天商や投棄物を管理するという城管の職能は、すでに商代からその痕跡を確認することができる。また、国外にもこれに相当する法律が存在する。例えば、日本の『道路法』、イングランドおよびウェールズの『1982年地方自治体(雑則)法(英語: Local Government (Miscellaneous Provisions) Act 1982)』、中華民国の『道路交通管理処罰条例』、香港法例第132章『公衆衛生および市政条例(英語: Cap. 132 Public Health and Municipal Services Ordinance)』[24]、シンガポールの『公共環境衛生法(英語: Environmental Public Health Act)』、アメリカ・ポートランドの『市条例(英語: City Code)』[25]、ワシントン州ナパバインの『市条例(英語: Napavine Municipal Code)』、カナダ・バンクーバーの『街頭販売附属条例(英語: Street Vending By-law)』などが挙げられる。歴史上や国外には違法な露店営業を管理する城管に相当する機能が存在しないという一般市民の誤解に加え、小規模な露天商が相対的に弱い立場に置かれていることから、城管による法執行をめぐって世論が形成される際には、一般に露天商側に比較的同情的な論調となる傾向がある。

参考文献

  1. ↑ “《中华人民共和国行政处罚法》” (2021年1月22日). 2021年1月31日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年1月31日閲覧。
  2. ↑ 余池明. “城市管理机构名称亟待规范统一” (中国語). paper.people.com.cn. 中国城市报-人民网. 2026年10月11日閲覧。
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  4. ↑ “上海市城市管理行政执法局”. cgzf.sh.gov.cn. 2026年10月11日閲覧。
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関連項目

外部リンク