大和田重清
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| 時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代初期 |
|---|---|
| 生誕 | 不詳 |
| 死没 | 元和5年(1619年)1月 |
| 別名 | 通称:近江守、大和田近江 |
| 官位 | 近江守 |
| 主君 | 佐竹義宣 |
| 藩 | 久保田藩 |
| 氏族 | 大和田氏 |
| 子 | 六右衛門、お亀(小貫頼久正室) |
大和田 重清(おおわだ しげきよ、生年不詳 - 元和5年〈1619年〉1月)は、戦国時代末期から江戸時代初期にかけての武将。常陸国の戦国大名・佐竹氏の家臣で、のちに出羽国久保田藩士。官途は近江守。通称は大和田近江。
当主・佐竹義宣の側近・実務官を務め、文禄の役における肥前名護屋陣中の様子や帰国途上の旅程、当時の社会経済・武家文化を克明に記録した『大和田重清日記』(『大和田近江重清日記』)の記主として知られる。
生涯
佐竹氏側近として
常陸国の領主・佐竹義宣に仕えた。文禄年間、義宣から常陸国内の東茨城郡内に200石、久慈郡内に214石余、計414石余の知行を宛行われていた[1]。
佐竹家中における重清の身分は、人見藤道ら重臣・宿老層と一般の知行衆・下級家臣の中間に位置していた。同輩や下級家臣からの訴え・要望を宿老へ取り次ぐ奏者(取次)としての役割を果たすとともに、算用(勘定・会計)の才に長けていたことから、佐竹氏直轄領の管理、鉄砲衆の支配、他家への使者といった行政・軍事・外交実務を広く担当した[2]。また筆が立ち、義宣の書状代筆や同僚からの各種帳簿・位牌・詩の執筆依頼を引き受けるなど、側近・秘書官的な職務も担った。
文禄の役と名護屋参陣
文禄元年(1592年)から始まった豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄の役)に際し、重清は主君・義宣に従って肥前名護屋城に参陣した。陣中においては、豊臣奉行衆との交渉や兵站・物資調達、渡海準備などの後方支援実務に従事した[1]。また、義宣の御前に日常的に伺候し、陣中において催された茶会や酒宴、能・囃子の場にも同席した[3]。
文禄2年(1593年)8月、講和交渉の進展に伴い大名勢の多くに帰国が命じられると、重清も義宣に従って名護屋を出立した。一行は九州から山陰道を経て京都に立ち寄り、さらに中山道を経由して、約40日間をかけて佐竹氏の本拠である常陸水戸城へ帰着した[4]。
秋田移封と晩年
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後、佐竹氏は慶長7年(1602年)に出羽久保田(秋田)へ減転封となった。重清はこの国替に際しても「御供家士」の一人として義宣に従い秋田へ移住した[1]。
元和5年(1619年)1月に死去[1]。家督は子の六右衛門らが継承し、子孫は久保田藩士として代々仕えた。
人物・交流
- 真崎氏(重宗・宣広父子)との関係
- 佐竹義重・義宣の2代に仕えた侍大将・真崎兵庫助重宗は、文禄の役においても義宣に従軍して肥前名護屋に在陣した。重清にとって重宗は「指南親」(後見人・指導役)のような存在であり、日記中において主君・義宣に次いで頻繁に登場する。重清は重宗の体調や意向に細かく気を配り、公私にわたり深く頼りにしていた。
- 一方、重宗の嫡男である真崎兵庫之介宣広は、義宣の最側近・旗本として重用され、那珂川舟運の要衝・那珂湊の蔵入地(約2,113石)の代官を務めて水運・物流を掌握していた(日記中では文禄2年11月26日に佐竹東家・東義久の介添えによって元服したことが記されている)。重清が転居の際に舟の手配を依頼するなど、重清は真崎父子を中心とする家中ネットワーク・派閥に属し、深く結びついていたとされる[2]。
- 家中重臣との関係
- 佐竹家三奉行の一人であり外交面を主導した重臣・小貫頼久(大蔵丞・佐渡守)の正室として、重清の娘である「お亀」が嫁いでいる[5]。重清は宿老・奉行層の小貫氏と姻戚関係を結ぶことで、家中における確固たる地位を築いていた。また、同僚の側近・小田野義定(刑部少輔)とは日常的に行動を共にし、財政責任者であった宿老・人見藤道を上役として仰いでいた。
- 信仰と嗜み
- 重清は眼病の平癒や予防を祈願して三日月信仰を抱いており、特定の日に火を通した食物を断つ「火物断ち」を行い、生栗や果物などで食いつなぐ様子が日記に記されている。また、義宣が自ら包丁を執って魚をさばき家臣に振る舞う「御料理」(武家の礼法・嗜みとしての包丁儀礼)の席に度々列席するなど、主君を中心とするサロン的な武家文化に深く親しんでいた。
大和田重清日記
概要
『大和田重清日記』(おおわだしげきよにっき)は、重清が文禄2年(1593年)4月18日から水戸帰着後の12月29日までの動向を記した日記である[6]。原本の表紙に「第二」と記されていることや、記述が4月途中から始まっていることから、名護屋参陣当初を記した第1巻が別に存在していた(全2巻構成であった)とみられている[1]。原本は旧佐竹公爵家所蔵(表紙とも美濃判墨付101枚)で、東京大学史料編纂所に謄写本が所蔵されている[6]。
戦後、歴史学者の小葉田淳により『大和田近江重清日記』と題して翻刻・紹介され(『日本史研究』44–46、48、49、52号、1959–1961年)[6]、のちに『茨城県史料 中世編』などにも所収された。
日記は時期的に以下の3部から構成される。
- 名護屋在陣期(4月18日 - 8月17日):名護屋陣中での諸大名との交礼、茶会、能・囃子の興行、渡海・兵站の準備。
- 帰国道中期(8月18日 - 9月末):名護屋を出発し、山陰道・京都・中山道を経て水戸に至る道中記録。
- 水戸帰着後(10月 - 12月29日):水戸城下での義宣への出仕、家政・所領管理、年貢収納、近隣諸氏(宇都宮氏等)との交流。
史料的価値
豊臣政権期における戦国大名家臣の実態を記した同時代史料として、日本中世・近世移行期史研究において高く評価されている。
- 陣中生活と武家文化:豊臣秀吉をはじめとする諸将の陣所での動向や、佐竹陣屋における茶会、前田利家や伊達政宗らとの交流、能・囃子など、陣中での文化的・儀礼的活動の諸相が具体的に記録されている[3]。
- 交通史・物価史の基準資料:名護屋から常陸へ向かう大名の帰国軍勢による街道の混雑、宿場・川越えでのトラブル、宿代や船賃の立替払い(取越)、各地の物価などが細かく書き留められており、当時の交通事情や貨幣経済・物価水準を復元する貴重な基礎史料となっている[7]。
- 大名家臣団の秩序構造:宿老と平家臣を取り持つ取次(パイプ役)の役割、上級家臣と中下級家臣を結ぶ「指南・被指南」の人的ネットワークなど、大名権力の内実と家臣団構造を読み解く上で重視される[2]。また、所領管理の記述には下野国「宝積寺」(現・栃木県高根沢町)などの地名が初出史料として確認できる[1]。
脚注
- 1 2 3 4 5 6 『高根沢町史 通史編Ⅰ』高根沢町、1999年、638頁。
- 1 2 3 安達和人「『大和田重清日記』に見る佐竹「御東御一家中」の構成」『戦国史研究』第81号、2021年。
- 1 2 「『大和田近江重清日記』にみられる名護屋陣屋での佐竹氏の茶会」『茶の湯文化研究』第4巻、2024年、75頁。
- ↑ 『中津川市史 中巻2』中津川市、1988年。
- ↑ 土居輝雄『佐竹義宣その時代 : 『常羽有情』控え抄』秋田魁新報社、1994年、23頁。
- 1 2 3 『国史大辞典 第2巻』吉川弘文館、1980年、大和田重清日記の項。
- ↑ 国立歴史民俗博物館「主要史料の概要と凡例(大和田近江重清日記)」
参考文献
- 小葉田淳編「大和田近江重清日記」『日本史研究』第44・45・46・48・49・52号、日本史研究会、1959–1961年。
- 国史大辞典編集委員会編『国史大辞典 第2巻』吉川弘文館、1980年。
- 高根沢町史編さん委員会編『高根沢町史 通史編Ⅰ 自然 原始古代・中世 近世』高根沢町、1999年。
- 中津川市編『中津川市史 中巻2』中津川市、1988年。
- 茨城県編『茨城県史料 中世編Ⅳ』茨城県、1991年。
- 土居輝雄『佐竹義宣その時代 : 『常羽有情』控え抄』秋田魁新報社、1994年。
- 安達和人「『大和田重清日記』に見る佐竹「御東御一家中」の構成」『戦国史研究』第81号、戦国史研究会、2021年。
- 「『大和田近江重清日記』にみられる名護屋陣屋での佐竹氏の茶会」『茶の湯文化研究』第4巻、2024年。