真崎氏
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| 真崎氏 | |
|---|---|
|
三頭丁子巴 | |
| 本姓 | 清和源氏佐竹氏流 |
| 家祖 | 真崎義連 |
| 種別 | 武家 |
| 出身地 | 常陸国那珂郡村松村真崎 |
| 主な根拠地 | 真崎城 |
| 著名な人物 |
真崎義直 真崎兵庫助重宗 真崎豊後季俊 真崎長右衛門季富 真崎兵庫助宣広 真崎兵庫睦貴 真崎勇助 |
| 支流、分家 |
兵庫家(宗家) 五郎左衛門家(源吾家) 豊後家 右馬助家 長右衛門家 |
| 凡例 / Category:日本の氏族 | |
真崎氏(まさきし)は、日本の氏族。清和源氏佐竹氏の庶流。常陸国那珂郡村松村真崎(現在の茨城県那珂郡東海村村松)の真崎城を拠点とした。
鎌倉時代より重臣として佐竹氏に仕え、特に戦国時代末期の天正年間には侍大将として、佐竹宗家の常陸国の領国平定における軍事、および知行地の管理や領内の秩序維持(仕置)において重要な役割を担った[1][2]。また、真崎浦を拠点として佐竹氏の水軍・舟運の統率や兵站実務にも深く関与した[3]。
慶長7年(1602年)の佐竹氏の秋田藩(久保田藩)転封後も、代々家老職を務めた兵庫家をはじめ、藩政の実務を担う重臣として存続した。
発祥した鎌倉時代から700年以上を経た現在も、この佐竹氏流真崎氏の血統は各地で脈々と受け継がれている。
常陸時代
鎌倉時代の弘安年間(1278年 - 1287年)、佐竹氏4代当主・佐竹義重の三男、岡田義澄の子である真崎義連(まさき よしつら、真崎次郎)が真崎に配置されて城館(真崎城)を築き、地名を取って真崎氏を称したのが始まりとされる[4][5][3]。
当時、東海村の照沼と村松の間には「真崎浦」と呼ばれる入海が広がっており、義連が入海に突き出した半島の先端部に居館を構えたのは、真崎浦を出入りする船舶の監視や沿岸漁民の統制、ひいては佐竹氏の水運・水軍拠点を形成する目的があったとされる[3]。
室町時代から戦国時代にかけては、真崎氏は佐竹一族内での様々な抗争において、武将としての役割を果たしてきた。
- 佐竹の乱(山入一揆): 佐竹宗家と庶流山入氏の約100年にわたる争乱において、文亀2年(1502年)の金砂山合戦の際、山入側として真崎孫六入道が討死した記録が残る。
- 部垂の乱: 天文9年(1540年)、佐竹宗家と宇留野義元(部垂義元)との内乱において、佐竹宗家側の真崎義直(彦三郎/兵庫介、駿河守)の弟の真崎季直(まさき すえなお、彦四郎)が討死した。
その後、真崎氏は佐竹宗家へ忠勤した。
天文6年(1537年)には、真崎義直(彦三郎/兵庫介、駿河守)が佐竹義篤に従って陸奥国・寺山の戦いで軍功を挙げた。
元亀4年(1573年)には、当時の当主・真崎義保(彦三郎、下総守)が下野国・南摩の戦いにおいて討死した。弱冠16歳の弟・重宗(彦六郎/兵庫介、宣宗)は、それに怒り単騎敵に突進し、その首級を得た。この軍功により、主君である佐竹氏18代当主・佐竹義重より「雲井亮(雲井介)」の称を授けられ、兄の家督を継承した。
領国統一と仕置の実務
真崎兵庫助重宗は、佐竹氏の領国統一が進む中で、侍大将として軍事・行政の双方で重用された[1]。 天正18年(1590年)、佐竹義宣が水戸城の江戸氏を追放し、常陸一国の平定を推し進める際、重宗は「仕置(占領後の再編および統治管理)」を任された。これに合わせ、当時佐竹氏に完全には服属していなかった鹿島・行方地域の勢力再編(いわゆる南方三十三館の仕置)においても、治安維持と権益の調整という困難な統治実務を遂行した。
また、真崎氏は真崎浦を拠点として佐竹氏の水軍編成・舟運管理にも深く関与していた[3]。文禄元年(1592年)の文禄・慶長の役(朝鮮出兵)に際し、佐竹義宣が肥前名護屋に出陣した折には、一族の真崎季俊(まさき すえとし、豊後守)が名護屋にて豊臣秀吉から貸与された軍船約100艘の受取や兵糧米の受領を担当しており、真崎氏が佐竹軍の「船奉行」・水軍統括として兵站や輸送の中核を担っていたことが確認される[3][6]。
秋田時代
江戸時代初期の慶長7年(1602年)、佐竹氏の秋田移封に際しては、当主・真崎兵庫助重宗が一族を率いて随行した。
しかし、重宗は移封の翌年である慶長8年(1603年)に没し、嫡男の宣広(彦六郎/兵庫助)が跡を継いだ。宣広は転封前の文禄4年(1595年)時点で、すでに那珂郡田谷(現在の水戸市田谷町)に800石の知行地を有していたほか、佐竹氏の蔵入地であった那珂湊(約994石)の代官を務めるなど、那珂川水運の要衝・河口港を押さえる要職にも就いていた[3]。
- 大坂の陣: 慶長19年(1614年)の大坂冬の陣には、重宗の跡を継いだ旗本の真崎兵庫助宣広が参戦。先鋒を志願した際、主君・義宣より「大軍を率いる指揮官は、一兵卒のような向こう見ずな勇敢さを真似してはいけない」と諭され、本陣で指揮にあたったという逸話が残る[7]。
秋田藩における真崎氏は、藩の公式名簿である『秋田武鑑』等において、主に以下の真崎五家としてその存在が認められており、職能や居住地に応じて藩政を支えた。秋田藩の家格は『廻座』である。
- 兵庫家(宗家)・・・天徳寺(秋田市)
- 1,300石。久保田城下で最も高格な家臣の居住域である二の丸上中城に屋敷を構え、代々家老職を務めた。
- 幕末の家老・真崎兵庫睦貴(宗翰)は、嘉永元年(1848年)に家督を継ぎ、軍将、後に執政(家老)として戊辰戦争の難局にあたった。慶応4年(明治元年、1867年)1月には京都にのぼり、参与役所より「徳川慶喜追討沙汰書」を親授された。奥羽列藩同盟との間で揺れる藩論を勤王に導き、新政府軍(官軍)との折衝や軍備の強化、藩内統制など、藩の存亡に関わる外交・軍事の両面で中核を担った[8]。
- 五郎左衛門家(源吾家)・・・鱗勝院(秋田市)
- 400石。真崎兵庫助宣広の次男・広房(五郎左衛門)を祖とする分家。
- 豊後家
- 100石。給人。真崎義直(兵庫介、駿河守)の弟の季直(すえなお、彦四郎)の子・真崎季俊(まさき すえとし、豊後守)を祖とする。藩政を支えた実務派の分家。
- 右馬助家
- 80石。給人。軍事や知行地管理を担った系統。
- 長右衛門家・・・誓願寺(秋田市)
- 190石→850石。地頭(給人)、秋田郡奉行。真崎季俊(まさき すえとし、豊後守)の次男である季富(すえとみ、長右衛門)と、その次男・季宗(すえむね、長右衛門)を祖とする分家。
- 長右衛門家と真崎堰
- 分流の長右衛門家は、五城目町・井川町・潟上市の三町村にまたがる広大な水田を潤す「真崎堰(まさきぜき)」の開削を主導した。これは真崎季富(まさき すえとみ、長右衛門)と、世継ぎの政綱(正親)・政武(彦四郎)の三代にわたる功績である。
- 仙北の一族
- 仙北市周辺には、真崎氏が給人として配置された。この地域は治安維持や関所の管理が必要な軍事上の要衝であり、一族は地域開発と藩境の防衛任務にあたった。
城郭
- 真崎城(常陸): 茨城県東海村村松(別称:天神山城)
系譜
佐竹氏(常陸源氏)、岡田氏を経て、鎌倉時代から江戸時代の幕末にいたるまで、宗家および各分家が武家として存続した。
以下は史料に基づく系譜である[5]。
【真崎氏 詳細系図】(※は討死)
└ 貞純親王(第六王子) └ 源経基(清和源氏祖) └ 源満仲(多田満仲、多田源氏祖) └ 源頼信(河内守、河内源氏祖) └ 源頼義(伊予守、河内源氏初代当主) └ 源義光(新羅三郎、甲斐源氏初代当主) └ 源義業(常陸源氏・佐竹郷祖) └ 佐竹昌義(佐竹氏初代当主) └ 佐竹氏4代・佐竹義重(常陸介) └ 岡田義澄(四郎、義重の三男。佐竹一族の岡田盛義(師義)の嗣となり名跡を継承、岡田氏祖) └ 1. 真崎義連(始祖、真崎次郎) └ 2. 真崎義久(蔵人大夫) └ 3. 真崎義忠(刑部大輔) └ 4. 真崎義景(左京亮、※1335年武蔵国鶴見・中先代の乱において討死) └ 5. 真崎資義(右馬助) └ 6. 真崎義基(右馬助) └ 7. 真崎義勝(駿河守) └ 8. 真崎義永(兵庫助) └ 9. 真崎義英(兵庫助) └ 10. 真崎義兼(下総守) ├ 11. 真崎義直(彦三郎/兵庫介、駿河守、1537年陸奥国・寺山合戦に功) │ ├ 12. 真崎義保(彦三郎、※1573年下野国・南摩の戦いにおいて討死) │ └ 13. 真崎重宗(宣宗、雲井介、彦六郎/兵庫助、侍大将、朝鮮出兵参戦、1603年没) │ └ 14. 真崎宣広(彦六郎/兵庫助、駿河守、阿仁金山奉行、大坂の陣参戦) │ ├ 15. 真崎宣昌(彦六郎/兵庫、代々家老)…… 真崎兵庫睦貴(幕末家老) │ └ 真崎広房(五郎左衛門、分家) └ 真崎季直(彦四郎、※1540年常陸国・部垂の乱において討死) └ 真崎季俊(豊後守、朝鮮出兵参戦) └ 真崎季富(長右衛門、秋田郡奉行、真崎堰開削始祖) └ 政綱(正親)(真崎堰完成)
家紋
佐竹氏流真崎氏の家紋は、系統によって明確に使い分けられている。
主要な家紋
- 三頭丁子巴(みつがしらちょうじどもえ)
- 秋田藩の重臣層(兵庫家・長右衛門家など)が、3代藩主佐竹義処より賜ったとして使用する主要な紋。
- 亀甲に木瓜(きっこうにもっこう)
- 秋田県仙北地方に土着した一族が使用する家紋。独自の系統を示すものである。
- 三つ盛り左三つ巴(みつもりひだりみつどもえ)
- 常陸時代からの伝統を継ぐ紋。茨城県常陸大宮市鷹巣の一族などに伝わる。
- 丸に違い鷹の羽(まるにちがいたかのは)
- 常陸時代からの伝統を継ぐ紋。茨城県那珂市静の一族などに伝わる。
- 左三つ巴(ひだりみつどもえ)
- 常陸時代からの伝統を継ぐ紋。茨城県桜川市本木の一族などに伝わる。
- 五瓜に左三つ巴(ごかにひだりみつどもえ)
- 丸に釘貫・五三の桐
- その他の分家の家系などで用いられる。
家紋画像
- 三頭丁子巴
- 亀甲に木瓜
- 三つ盛り左三つ巴
- 丸に違い鷹の羽
- 左三つ巴
- 五瓜に左三つ巴
他系統との区別(九州の真崎氏について)
「真崎」姓は現在、九州地方(特に佐賀県および福岡県)に最も多く分布しているが、常陸・秋田の真崎氏(佐竹氏流)とは別系統として区別される。
地名由来の独立性
九州の真崎氏は、各地に点在する「真崎(まさき)」という地名に由来するものが多く、常陸国の地名に由来する佐竹氏流真崎氏とは血縁的な関わりはないと考えられる。
歴史的背景
九州の真崎氏は、佐賀の有力豪族や松浦党などの流れを汲む一族、あるいは地主・農家層をルーツとする家系が多い。
脚注
注釈
出典
- 1 2 『勝田市史 中世編』。真崎兵庫助重宗が佐竹義重の侍大将として、軍事のみならず占領地の管理などの実務においても重用された事実が記されている。
- ↑ 『東海村史』。常陸時代における真崎氏の系譜と、那珂川左岸の田谷(現在の水戸市)などを含む知行地の管理状況について詳述されている。
- 1 2 3 4 5 6 7 志田諄一『佐竹氏とその時代』(舞鶴叢書3、茨城県常陸太田市、1980年)。
- ↑ 『新編常陸国誌』。真崎城(天神山城)の築城から始祖・義連以降の歴代当主、および常陸時代の活動について記載がある。
- 1 2 『中世常総名家譜』。真崎氏の興りから詳細な系図、歴代の戦功について詳述されている。
- ↑ 『佐竹家譜』。朝鮮出兵時に真崎氏が船奉行を務めた経緯が記されている。
- ↑ 『羽州秋田鱗勝院誌』。大坂冬の陣における真崎氏の逸話が記されている。
- ↑ 『秋田人名大事典』。真崎兵庫睦貴(宗翰)の生涯と戊辰戦争時の活躍について詳述されている。
参考文献
- 『秋田武鑑』
- 『寛政重修諸家譜』
- 『勝田市史 中世編』
- 『東海村史』
- 『新編常陸国誌』
- 『中世常総名家譜』(系図家譜刊行会)
- 『佐竹家譜』
- 『羽州秋田鱗勝院誌』
- 『秋田大百科事典』(秋田魁新報社)
- 『秋田人名大事典』(秋田魁新報社)
- 『水戸市史 上巻』
- 『大和田近江重清日記』
- 『大和田近江重清日記人名考』
- 『佐竹氏探訪』(秋田魁新報社)
- 『埼玉苗字辞典 第5巻 関東甲信越 マエヤマ〜 』
- 『佐竹分流系図』(秋田県公文書館蔵)
- 『真崎家の系譜〜その起源と分脈〜』
- 『城下町久保田の原初形態:秋田藩城下町久保田の形成過程(その1)』(日本建築学会計画系論文集)
- 『戦国期佐竹氏家臣研究と系図』(日本家系図学会)
- 『佐竹一族・家臣系図:常陸大宮ゆかりの諸家』(常陸大宮市史編さん委員会)
- 『秋田県の地名(真崎堰)』(平凡社)
- 『秋田県の中世城館』(秋田県教育委員会)
- 『佐竹氏とその時代』(舞鶴叢書3、茨城県常陸太田市、1980年)