大野佐長

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大野 佐長
おおの さちょう
生年月日 (1904-03-12) 1904年3月12日[1]
出生地 日本の旗 日本岐阜県羽島郡笠松町[1]
没年月日 (1989-01-11) 1989年1月11日(84歳没)[1]
死没地 日本の旗 日本
第14・15代豊橋市長
当選回数 2回
在任期間 1952年(昭和27年)[1] - 1960年(昭和35年)[1]
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大野 佐長(おおの さちょう、1904年〔明治37年〕3月12日 - 1989年〔平成元年〕1月11日)は、元愛知県豊橋市長(2期)。

人物

1904年(明治37年)3月12日、岐阜県羽島郡笠松町の大野伊三郎の長男として出生[1]。

警察官として

1927年(昭和2年)、愛知県巡査[1]。1937年(昭和12年)内務省警察講習所(現警察大学校)を卒業[1]。名古屋城北警察署長、愛知県情報課長、千種警察署長、港警察署長を経て、1947年(昭和22年)豊橋警察署長に就任した[1]。

1948年(昭和23年)、豊橋市警察長兼豊橋警察署長となった[1]。

千種警察署長時代

千種警察署長時代には、管内の東山動植物園の戦時猛獣処分に携わった[WEB 1]。当時の北王園長のゾウはおとなしいから残したいという意見を汲み、殺処分を行わない決定をした[WEB 1]。

市長候補としての擁立

1952年(昭和27年)豊橋市長となる[1]。

『河合陸郎伝』によれば、大野の先代豊橋市長にあたる大竹藤知が在任中に直腸癌となり、にわかに後任候補探しが始まったという[2]。その際に白羽の矢が立ったのが、当時豊橋警察署署長職にあった大野だった[3]。

先の豊橋市長選挙にも立候補していた無所属の片山理、右派社会党の露久保賢治との選挙権を制し、32,702票を獲得し、第14代豊橋市長となった[4]。

2期目

2期目を目指す1956年(昭和31年)夏の豊橋市長選挙では、大野以外に片山理・長坂次郎・佐藤一平が立候補していた[5]。事前の下馬評では、片山有利という声があった[6]。結果、片山は32,104票、大野36,466票という結果で続投が決まった[7]。しかし、これは現職豊橋市長である大野への批判票が片山と佐藤に割れた結果でもあった。

大野2期目の末年、1959年(昭和34年)には保守合同により、大野の市長擁立、選挙事務長としての役割を果たした河合とその宿敵でもあった片山が自由民主党豊橋支部の旗の下にタッグを組むこととなった[8]。

1959年6月21日の不二タイムスには、河合と片山の対談として次の豊橋市長選挙に大野以外の擁立を匂わせる記事が掲載される[9]。この記事を皮切りに大野三選を阻む論陣が展開され、翌年4月には豊橋市長退陣宣言を出すに至った[10]。6月30日、正式に退任[11]。在任期間は2期8年間だった[1]。後任を河合陸郎に譲った[11]。

大野市政の成果

大野市政の成果として2006年の『豊橋百科事典』は、戦災復興事業の完成と都市基盤の整備の2点を挙げている[1]。

また、大野本人は振り返って豊橋産業文化大博覧会の開催を挙げている[12]。

市長退任後

1960年(昭和35年)豊橋市長退任後は、ユタカ自動車学校理事長、豊栄ビル取締役などを歴任した[1]。

1988年(昭和63年)11月3日、豊橋市長を2期務め、豊橋市の市勢の振興発展に功績があったとして豊橋市名誉市民に推戴される[WEB 2]。

1989年(平成元年)1月11日にこの世を去った[1]。

脚注

WEB

  1. 1 2 “戦時中の動物園に殺処分命令…生き残った“奇跡のゾウ”の物語 絵本「ぞうれっしゃ」が伝える史実”. CBCテレビ (2022年8月15日). 2026年5月16日閲覧。
  2. ↑ 豊橋市役所企画部秘書課. “名誉市民”. 2026年5月15日閲覧。

書籍

参考文献

  • 豊橋百科事典編集委員会(編)『豊橋百科事典』豊橋市: 豊橋市文化市民部文化課、2006年12月1日。Wikidata Q138963187。
  • 河合陸郎伝編纂委員会 編『河合陸郎伝』河合陸郎伝編纂委員会、1982年12月。doi:10.11501/12258907。 
  • 歴代知事編纂会 編『日本の歴代市長 市制施行百年の歩み 第2巻』歴代知事編纂会、1984年11月、458頁。doi:10.11501/11897534。 
先代
大竹藤知
愛知県豊橋市長
第14 - 15代:1952年 - 1960年
次代
河合陸郎