女谷 | |
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女谷の全景 | |
| 北緯37度14分34秒 東経138度33分7秒 / 北緯37.24278度 東経138.55194度 | |
| 国 |
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| 都道府県 |
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| 市町村 | 柏崎市 |
| 人口 (2021年現在) | |
| • 合計 | 42人 |
| 郵便番号 |
945-1252 |
| 市外局番 | 0257 |
| ナンバープレート | 長岡 |
高原田(たかんだ)、上野、下野、宮原、駒野間の集落がある鵜川の上流地の山間地に位置している。1868年(明治元年)の郡中高家数取調写帳では、家数100であったと記述されている[1]。1964年(昭和40年)国勢調査の際の人口は、上野51世帯247名・下野28世帯148名・宮原57世帯234名・駒之間33世帯160名の計202世帯789名だったが[2]、2021年は計29世帯43名(男23/女20)となっている[3]。
女谷という地名の由来は、一見平地のように見えるものの、四方が米山や黒姫山などに囲まれていて、東の低地から川水が流れており、谷もあり、盆地でも窪地もある地形で女性器に似ていることから由来している。沢や窪が濡れた女性器を表現していて、その類の表現として谷地や湿地にも使われる[4]。
気候は降水量が秋冬に集中し、積雪量が多い気候である。柏崎市内でも群を抜いた積雪量で、1966年(昭和41年)12月25日の積雪記録では、降り出した雪が26日までに1日中降り続き、他地域と比べると、曽地57cm・小国80cm・広田65cm・柏崎50cm・高柳95cm・和田50cmと大差をつけ、その冬最高積雪の150cmを記録した。よって冬季は農作物を作ることはできず、果樹栽培の導入困難であったり、酪農を減退させるなど農業振興に気候が影響を及ぼしてるといえる[2][5]。


通史
女谷地区には、宮原遺跡があり、縄文時代中期(約4,500年前)からは人が住んでいたことがわかる。ほかにも地区内には上の山遺跡(下野)や高原田遺跡などがあることから、黒姫山などの山の周辺にある丘陵に多くの竪穴建物が建てられ集落が形成され、縄文時代後期には鵜川やその支流の水辺を生活拠点としていた。弥生時代に入ると、集落近辺の低湿地で水稲耕作が行われていた[6]600年代末には、越の国が越前、越中、越後の3つに分割され、女谷を含む鵜川地域は越中に属していた[7]。702年(大宝2年) に鵜川が含まれている 越中国の三嶋郡は、越後国に編入する。また、三嶋郡の中でも鵜川流域を三嶋郷と呼ぶようになる[7]。
女谷は延宝の頃までは本谷村と称していたが、延宝期間の1673年~1681年の間に女谷村に改称されたとの伝承がある。「略縁起によると道鏡という奈良時代の僧侶が美女窟を尋ねると淫女が集い、舞い、謡っていたがその正体は古ムジナであった。それを知った道鏡が、不動空縛をすると、淫女達は倒れて死んだ。」これが女谷に改称した由来とされている。また、現在は大字女谷の中の地区としてある「駒之間」は駒之間村としてあったが、どこかの年代で合併された[11]。
元々、現在の小字の集落がありその小さな集落単位で生活をしていたが、江戸時代に大字単位の村になり、明治時代にはその大字単位の村が合併して鵜川村になった。時系列順では、最初から大字の村だったのが、市野新田村と清水谷村で他集落は小字であった。その後、小字の集落が合併し女谷村と折居村が誕生。そして、市野新田村と清水谷村、谷川新田村が女谷村に吸収され、最終的に女谷村、折居村が合併し鵜川村となった[21]。


年表
当時は希望者のみが入学。小学校ができるまでは、教育は少なく学問を志す人は学識者に弟子入りするか、村の中で知識のある人から読み書きやそろばんを習う程度だった。また、当時の大区長は岡野町の村山藤兵衛氏だったため、学校の書籍や用具などの必要な物は鳴鶏城峠を超え、岡野町で大区長の受領を受け、それを各附属校に分配していた[66]。
校舎改築に踏み切ったものの、敷地が狭かったため観音寺を高原田の地蔵堂と合併し、「堂の前」を移転、役場の位置も県道沿いの横道に移すなどしてどうにか校舎を増築した[67]。
移転は昭和に入ったことでさらに児童が増えたことにあった。児童数増加により増築問題に直面したのだが、敷地が足りなく困難を極めた。移転前の土地付近の農家を移転すると建設費が多大になる。一方、他に移転する場所もない。このことから、「農家移転派」と「校舎移転派」の意見で村が二分した。「校舎移転」にする場合は、農家の移転費用が不要で見積額の半分ほどで済むことから「校舎移転派」の内内で合議を行い、「農家移転派」に相談せずに当時女谷村に住んでいなかった、布施庄兵衛氏の宅地を懇願することとした。そして、柏崎市西本町に在住していた布施貞夫氏に懇請すると、同氏は快諾。更に、静雅園も寄付した。同園は6日かけ5人の庭師が手入れをし、以降の管理費として500円寄附(現在の約50万円)。また、学校用試作地として裏地の2反も寄付。管理費は学校貯金され、当分利子で庭園の手入れが行われた[67][68]。
昭和42年、有志により女谷の天狗松の地(標高200m)を利用し開場。年々整備が進みゲレンデの広さは6万平方メートルほど。またスロープの安全性に定評があり、初級・中級向けでファミリー向けのスキー場だった。さらに、県内でも有数の豪雪地帯であったため、雪解けが遅く12月から3月末までと比較的長い期間利用できるのも特徴の一つであった。
開場当初のまだ休憩所がない段階では、鵜川中学校の体育館を借りて時折豚汁を提供し、利用者にアンケートを実施して利便性の向上を図っていた。
昭和44年2月16日には米峯スキークラブ会長の協力のもと、第1回市民スキー学校が天狗松スロープで開催された。当日には、市長等が出席していた。また、同年3月2日の第2回スキー教室には元オリンピック選手で新潟県スキー連盟顧問でもある上石巌氏が出席した。
当初は有志で開場されたスキー場であったが、昭和44年に活発に活動したことが関係してか、柏崎市に正式にスキー場を設置する交渉を開始。結果、鵜川全戸加入が望ましいとの返答を受け、全戸加入で鵜川観光協会を設立して、そこに鵜川スキー場専門部を置くこととなった。7月28日には観光協会創立総会が行われ、規約制定し施行された。
そして、同年の12月25日には満を持して第一回スキー場開きが行われた。その際、古老からの示唆により”スキー場開きには名士が集まるであろうから”と珍味の狸汁を振る舞うこととなった。以来、狸汁の提供は長く続いた。
昭和45年10月25日には第1回鵜川地区民スキー大会が開催されるなど活発に活動するとともに、設備拡充も進んだ。同年10・11月には長さ100mのロープ塔や休憩所が完成し設置された。休憩所には食堂や売店・貸スキー室などが設けられた。また、同時期に案内板を柏崎駅など各所に設置した。翌年の46年には1,400平方メートル・収容台数70台の駐車場が整備され、市内の医師の寄付によりナイター設備が完成。そのため、土曜から月曜日までと祝日は夜間も滑れた。昭和49年にはミニジャンプ台も併設された。
しかし、スキー客の近郊への流出や設備の老朽化により利用者が減少。30年で合計18万人が訪れ、ピーク時には1シーズン8,000人の来場者を記録した鵜川スキー場は1999年(平成11年)に30年の歴史に幕を閉じ閉鎖した[44][76]。


太さ7m30cm、樹高約40mの杉で樹齢800年といわれている。主幹は伸びず、傘型に枝が伸びているのが特徴で地元民からは「大杉さん」と呼ばれている。市の天然記念物の指定を受けている[79][80]。
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