小塩完次
小塩 完次(こしお かんじ、1897年 - 1992年6月26日)は、日本の社会運動家[1][2]。日本禁酒同盟の理事長を務めるなど禁酒運動に携わったほか、戦前期からの片山哲や賀川豊彦との交流をきっかけに、戦後には世界連邦運動にも関わった[1]。
経歴
1897年に、長野県下伊那郡飯田町(後の飯田市)伝馬町二丁目に、味噌醤油醸造業松岡屋を営む小塩家の次男として生まれた[3]。早稲田大学政治経済学科在学中の1922年には、澤柳政太郎が提唱した学生排酒連盟(学生廃酒連盟とも)の創立に主導的に参画した[3][4]。卒業後の1925年には日本国民禁酒同盟に参加し、事務局に勤務した[2]。
小塩はフレンド派(クエーカー)のキリスト教徒であった[3]。1927年には、禁酒運動家としても知られた元・衆議院議員の根本正夫妻の媒酌により、自由学園出身で[5]、同じ信仰をもつ[3]野村とよ子[6]と結婚した[7][8]。 以後、小塩夫妻は、長く禁酒運動に従事していくこととなった[3]。
小塩は、1934年5月から12月にかけて、文部省嘱託としてヨーロッパ諸国を歴訪し、ロンドンで開催された第20回国際アルコール問題会議 (The Twentieth International Congress on Alcoholism) にも参加した[9]。
1936年には、第19回衆議院議員総選挙の旧長野3区に無所属で立候補したが、落選した[9]。戦後も、1946年の第22回衆議院議員総選挙の長野県全県区、1947年の第23回衆議院議員総選挙の長野3区に無所属で、また、1955年の第27回衆議院議員総選挙の長野3区に憲法擁護国民連合政治委員会から立候補したが、いずれも落選した。
1953年には、米国のアルコホーリクス・アノニマス(AA)を参考に、アルコール依存症から脱すべく断酒を目指す人々の自助組織「断酒友の会」が日本禁酒同盟内に発足し、小塩もその設立に関わった[3]。
また、第二次世界大戦後には国際平和協会や世界連邦建設同盟の活動にも参加した[1]。
日本禁酒同盟では、1976年から1992年の死去まで、第10代理事長を務めた[6][10](ただし、資料によっては、理事長就任を1980年とするものもある[2][3])。
1992年6月26日、94歳で死去した[3]。妻のとよ子は完次に先立ち、1991年10月16日に88歳で死去していた[3]。
小塩夫妻には子はなく[3]、完次の活動の多くは、甥である小塩玄也[2][11][12]によって継承され、玄也は、完次の死去を受けて日本禁酒同盟の第11代理事長となって2003年までその任にあったほか[10]、世界連邦運動にも関わって、世界連邦運動協会の執行理事なども務めた[13]。完次の葬儀に際して、玄也は、完次の人生に影響を与えた先達として、沢柳政太郎、根本正、安部磯雄、賀川豊彦、片山哲、守屋東らの名を挙げ、また、関わりの深かった組織、団体として日本禁酒同盟、救世軍、国際平和協会、世界連邦建設同盟、道義新生会などを挙げたとされる[3]。
遺されたもの
旧小塩邸
小塩が1931年に東京府北多摩郡武蔵野町(後の武蔵野市)西久保一丁目に建て、以降、終生住み続けた家は、建築家の遠藤新が設計したものである[5]。小塩夫妻と遠藤は、いずれもフレンド派(クエーカー)のキリスト教徒であり[3]、小塩の妻・とよ子が自由学園の出身で、当時から校舎を手がけた遠藤を知っていたことや、遠藤新建築創作所と日本禁酒同盟が一時期には同じビルに入居していたことなどから、小塩夫妻と遠藤には接点があった[5]。施主である小塩の「久留米がすりのような、住めば住むほど味が出る家を」という意向を受け[5]、遠藤は「着れば着るほど、洗えば洗うほど、身に馴染み、それでいて着飽きることがない。久留米絣の着物のような家」として設計したとされ、小塩の没後、1994年に、遠藤の出身地である福島県相馬郡新地町に移築されて、「くるめがすりの家」として保存されている[14]。
旧小塩邸跡の敷地は売却されて移築費用などに充てられたが、残された敷地の一部には、小塩完次記念日本禁酒同盟資料館が建てられ、日本禁酒同盟の事務所として使用された[3][6][15]。
日本禁酒同盟関連資料
2015年冬、小塩完次記念日本禁酒同盟資料館が閉館することとなった際には、所蔵資料の寄贈先が探され、禁酒運動を通して小塩と交流のあった高楠順次郎を学祖とする武蔵野大学に寄贈される運びとなり、2016年5月に、武蔵野大学政治経済研究所が資料の寄贈を受けた[15]。その資料の中には、1921年から1988年まで書き継がれた、計185冊の日記も含まれている[16]。
著書
脚注
- 1 2 3 後藤、2019、p.156
- 1 2 3 4 “小塩完次氏死去”. 朝日新聞・朝刊. 1992年6月27日.
喪主はおい玄也(げんや)氏。...早大在学中に学生廃酒連盟を結成。卒業後の1925年に日本禁酒同盟事務局に勤務し、...80年から理事長を務めていた。
- 朝日新聞クロスサーチにて閲覧 - 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 加藤純二「新地町のくるめがすりの家―遠藤新設計による旧小塩邸」日本禁酒同盟。2026年11月3日閲覧。
- ↑ 後藤、2019、p.160
- 1 2 3 4 “[建築懐古録]日本禁酒同盟本部・小塩完次氏邸 酒害追放の歴史証言”. 読売新聞・朝刊・都民版. 1987年11月23日. p. 25.
とよ子さんは、教育者、羽仁もと子が創設した自由学園の二期生。目白の学舎を手がけた遠藤をそのころから知っていた。後には、遠藤新建築創作所と禁酒同盟が同じビルに入っていた時期もある。小塩さんは、「久留米がすりのような、住めば住むほど味の出る家を」と注文した。
- ヨミダスにて閲覧 - 1 2 3 「小塩完次記念 日本禁酒同盟資料館」日本禁酒同盟。2026年11月3日閲覧。
- ↑ 小塩立吉「苦節22年の金字塔 未成年者飲酒禁止法と 根本 正先生 併せて 禁酒運動の黎明期→発展期→戦中、戦後→現在の酒害防止運動 (PDF)」日本禁酒同盟、2014年5月25日、21頁。2026年11月3日閲覧。
- ↑ 「くるめがすりの家-旧小塩邸- (PDF)」新地町、5–6頁。2026年11月3日閲覧。
小塩 とよ子(こしお とよこ) 明治36年1月、茨城県土浦市の砂糖問屋、野村太助、はなの次女として生まれます。父である太助はキリスト教フレンド派の草分けの一人であり、後に土浦禁酒会長を務めています。,,,自由学園の第二回卒業生でした。守屋東らの導きにより、小塩完次氏と結婚。禁酒運動、世界連邦運動ともに、小塩完次の強力な片腕として活動...平成3年10月16日、急性心不全にて逝去、享年は88歳でした
- 1 2 後藤、2019、p.162
- 1 2 後藤、2019、p.159
- ↑ 「The Photo Scramble 小塩完次の足跡をたどる」『広報しんち』(PDF)、第450号、新地町、2008年12月5日、11(PDF 16)。2026年11月3日閲覧。「...小塩完次の甥にあたる小塩玄也元玉川大学教授の基調講演とパネルディスカッションが行われました。」
- ↑ 「編集後記」『根本正顕正会会報』(PDF)、第32号、根本正顕正会行事広報委員会、2003年9月20日、16(PDF 17)。2026年11月3日閲覧。「...南日本禁済同盟理事長小塩玄也先生のご講演。...一生を禁酒運軌に捧げた小塩完次さんは先生のおじさんです。」
- ↑ 「2014年度全国総会開催」『世界連邦 Newsletter』(PDF)、第623号、世界連邦運動協会、2014年5月28日、2頁。2026年11月3日閲覧。「引き続き第 1 回理事会が行われ、 理事長に日下部禧代子氏が就任、下記のごとく各氏が執行理事・監事に就任することが承認された。執行理事:小塩玄也、...」
- ↑ 「旧小塩邸 くるめがすりの家(1931(1994移築))」『福島建築探訪』福島県土木部。2026年11月3日閲覧。
- 1 2 後藤、2019、p.155
- ↑ 後藤、2019、p.163
参考文献
- 後藤新「一般財団法人日本禁酒同盟より寄贈された資料について」『武蔵野大学政治経済研究所年報』第18号、武蔵野大学政治経済研究所、2019年2月28日、155-170頁、CRID 1050282813222477440、2026年11月3日閲覧。