小林政太郎

こばやし まさたろう 小林 政太郎 | |
|---|---|
| 生誕 |
1872年11月22日(明治5年10月22日) (現・三重県度会郡玉城町佐田) |
| 死没 |
1947年12月6日(75歳没) |
| 教育 | 済生学舎(現・日本医科大学)卒業 |
| 職業 | 医師、発明家、実業家 |
| 著名な実績 |
柔軟オブラートの発明(特許第5543号) 自動汽力製造装置の考案 |
小林 政太郎(こばやし まさたろう、1872年11月22日〈明治5年10月22日〉[注釈 1][1][2] - 1947年〈昭和22年〉12月6日[2])は、明治から昭和前期にかけて活動した日本の医師、発明家、実業家。
寒天とデンプンを用いた「柔軟オブラート」を発明し、自動汽力製造装置による大量生産を確立して世界各国へ供給した[3]。真珠養殖の御木本幸吉、電気・鉄道事業の田中善助とともに「三重県近代史における3大実業家」の一人に数えられる[3]。
生涯
生い立ちと医師開業
1872年(明治5年)、三重県度会郡田丸の新田町(後の田丸町、現在の度会郡玉城町佐田)において、代々漢方医を営む医師・小林藤十郎の長男として生まれる[1][3][4]。
地元の田丸小学校高等科を卒業後、東京の医学校である済生学舎(現在の日本医科大学の前身)で学び、18歳という若さで医術開業試験に合格して医師資格を取得した[1][3][4]。その後、郷里の田丸へ戻り医師として地域医療に従事した[3][4]。
文教事業・著述活動・晩年
医業やオブラート製造事業と並行して文教事業にも熱心に取り組み、居宅近くの浅間神社跡地(現在の玉城郵便局付近)には清朝時代の孔子像を祀る「孔子廟」を建立した[5][4]。また、4ヶ月間にわたり欧米各国を周遊してその見聞を克明に記録し、著書『走馬燈』(『世界一周走馬灯』)を著したほか、1926年(大正15年)には『孟子』を訳述した『国文孟子』を孔子廟および小林柔軟オブラート製造所から刊行した[2][5]。
昭和期に入りオブラート製造工場を閉鎖した後は医業に専念し、1947年(昭和22年)12月6日に死去した[2][4]。享年76(満75歳没)[2]。
柔軟オブラートの開発と事業展開
発明の経緯
19世紀後半に欧州から日本へ輸入されていた初期のオブラートは「硬質オブラート(せんべいオブラート、Panis Oblator)」と呼ばれ、最中の皮のように分厚く硬い形状をしていたため、服用時には水を張った小皿に浮かべて粉薬をのせ、軟らかくなるのを待って水と一緒に飲み込む必要があった[3][6]。
医師として診察を行う中で「粉薬が苦く飲みにくい」という患者の声を聞いた政太郎は、従来の硬質オブラートを改良し、より簡便に服用できる方法の研究を重ねた[3][4]。1902年(明治35年)[注釈 2]、製造法を試行錯誤する過程で誤って鉄瓶に原料の寒天とデンプン(澱粉)をこぼし、それが乾燥して固まる様子を観察したことからヒントを得て、透明で薄く粉薬を直接包むのに適した「柔軟オブラート」を発明した[3][7][4]。
国際展開と大量生産
政太郎は発明と同年の1902年(明治35年)に特許(特許第5543号)を取得するとともに、「合名会社小林柔軟オブラード製造所(小林柔軟オブラート製造所)」を設立し、「小林柔軟オブラート」や「弁天印オブラート」の製造を開始した[2][3][8][9][6]。製品は医薬用のみならず食料品にも広く使用され、日本国内のほかイギリス、アメリカ、ドイツ、フランスの計5ヶ国で製法特許を取得した[2][3][8]。1904年(明治37年)にはセントルイス万国博覧会にて銅牌を受賞し、1910年(明治43年)にはロンドンで開催された日英博覧会にて金牌を受賞したほか、同年には農商務省の重要輸出品として紹介された[3][6]。
1911年(明治44年)度の農商務省商務局『各府県重要商品調査報告』には「柔軟オブラート」の項目が設けられ、「創業以来一般ノ好評ヲ博シ、逐年其需要ヲ増加シ」と評された[3]。1910年(明治43年)時点の年間産額は約70万個(1個あたり100枚〜200枚入り)に達し、工員(特に女子)は97人が雇用されていた[3]。1913年(大正2年)には「自動汽力製造装置」を考案・特許取得して製造能力を増大させ、大量生産体制と工場の拡幅、品質の改良を進めた[2][3][8]。
競合の出現と工場閉鎖
1920年代に入ると他社でもデンプンのみでオブラートを製造する技術などが研究開発され、昭和期に入り特許権が満了したことも重なって競合他社との競争が激化した[3][4]。これにより工場での生産は1935年(昭和10年)頃までとなり、同年から1937年(昭和12年)にかけて工場は閉鎖された[3][10]。工場跡地は後に大豐和紙工業田丸工場となり、1951年(昭和26年)に買収されて現在は玉城町国民健康保険玉城病院の敷地となっている[10]。
生家と関連遺産
小林政太郎生家(玉城町小林政太郎邸)
三重県度会郡玉城町佐田938(玉城郵便局前)には、政太郎の生家が現存している[4][11]。玉城町では「オブラート発祥の地」である旧生家を町指定文化財に指定する方針のもと、2024年度(令和6年度)に建物および土地の寄附(寄贈)手続きを行った[12]。「小林政太郎生家」(または「玉城町小林政太郎邸」「小林政太郎翁邸」)として保存・活用されており、館内には関係資料などが展示されているほか、地域の文化行事にも活用されている[13][11][14]。
村山龍平記念館における収蔵資料
1902年(明治35年)に政太郎が寒天をこぼして柔軟オブラートを発明する契機となった鉄瓶は、2021年(令和3年)11月に子孫から玉城町へ寄贈され、同町の村山龍平記念館で展示・保管されている[7]。また、政太郎が建立した孔子廟に祀られていた清朝時代の像についても、政太郎の死後に孔子廟が解体された後、玉城郵便局裏の土蔵に保管されていたものが村山龍平記念館に寄託されている[4]。
著書
特許
脚注
注釈
出典
- 1 2 3 『日本醫籍録 昭和15年版』醫事時論社、1941年、26頁。
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 “小林政太郎とは - コトバンク”. DIGITALIO(講談社『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』・日外アソシエーツ『20世紀日本人名事典』). 2026年10月22日閲覧。
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 吉村利男 (2008年). “歴史の情報蔵:海外でも特許取り、供給-小林政太郎の柔軟オブラート”. 三重県環境生活部文化振興課県史編さん班. 2026年10月22日閲覧。
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 “特集2 オンリーたまき 小林政太郎翁 生誕150年 柔軟オブラート発明120年(『広報たまき』2022年7月号、4頁)”. 玉城町役場 (2022年7月). 2026年10月22日閲覧。
- 1 2 3 4 “地域ミニ展示「第73回 小林政太郎」”. 三重県立図書館 (2017年7月1日). 2026年10月22日閲覧。
- 1 2 3 “内藤記念くすり博物館 トピックス:オブラート”. エーザイ. 2026年10月22日閲覧。
- 1 2 “小林政太郎翁ゆかりの鉄瓶を寄贈(『広報たまき』2022年1月号)”. 玉城町役場 (2022年1月). 2026年10月22日閲覧。
- 1 2 3 4 大阪発明協会編『帝国発明家名鑑』日刊工業新聞出版部、1937年、458頁。
- 1 2 “特許第5543号”. 特許情報プラットフォーム (J-PlatPat) - 工業所有権情報・研修館. 2026年10月22日閲覧。
- 1 2 玉城町史ダイジェスト版編纂委員会編『ふるさと玉城の歴史』玉城町、2001年3月。
- 1 2 “『広報わたらい』2025年(令和7年)10月号”. 度会町役場 (2025年10月). 2026年10月22日閲覧。
- ↑ 『令和6年度 玉城町まち・ひと・しごと創生総合戦略検証シート』玉城町、2025年。
- ↑ “『広報たまき』2023年12月号”. 玉城町役場 (2023年12月). 2026年10月22日閲覧。
- ↑ “薬を飲むときに使う「オブラート」は三重県発祥!発明したのは誰?”. TABIZINE. 2026年10月22日閲覧。
参考文献
- 池山始三『田丸郷土誌』三重県郷土資料刊行会、1977年。
- 玉城町史ダイジェスト版編纂委員会編『ふるさと玉城の歴史』玉城町、2001年。
- 三重県玉城町史下巻編纂委員会編『三重県玉城町史 下巻』玉城町、2005年。
- 小林達也『文明随想 継承と移転』思文閣出版、2005年。
- 三重県史編さんグループ著、毎日新聞社津支局編『発見!三重の歴史』新人物往来社、2006年。
- 小林厚編『オブラート発明者小林政太郎・資料集』小林厚、2009年。
関連項目
- オブラート
- 玉城町
- 玉城町国民健康保険玉城病院 - 小林柔軟オブラード製造所の工場跡地に立地する。
- 日本医科大学 - 出身校である済生学舎の後身。
外部リンク
- 歴史の情報蔵:海外でも特許取り、供給-小林政太郎の柔軟オブラート - 三重県
- 地域ミニ展示「第73回 小林政太郎」 - 三重県立図書館