山下雄太郎

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山下 雄太郎(やました ゆうたろう、生没年不詳)は、日本の法学者、検事(検察官)、弁護士。専修学校(現・専修大学)の創立期における法律学教員の一人で、民法草案に対する意見書の提出を通じて1896年(明治29年)の民法制定に関与したほか、大審院検事や大阪控訴院検事を歴任した[1][2]。

経歴

土佐国(現・高知県)の士族の家に生まれる[3]。大阪に出て、ウィリアム学校と呼ばれた私塾及び聖テモテ学校(後の英和学舎、現・立教大学)にて英学を学び、1873年(明治6年)頃には、チャニング・ウィリアムズから洗礼を受ける[4]。

その後、大学南校(後の後期・開成学校と旧東京大学)に修学した後、東京大学法学部を卒業し、磯野計(明治屋創業者)、増島六一郎(英吉利法律学校〈現・中央大学〉創立者)、高橋一勝(英吉利法律学校〈現・中央大学〉創立者)、大谷木備一郎らと神田錦町に東京攻法館を設立した[5]。

旧東京大学時代は、平岩愃保(日本メソヂスト教会第2代監督)、末延佐代治(末延道成、三菱の四天王)とともに宗旨家として知られた[6][7]。

1880年(明治13年)に、慶應義塾夜間法律科、三叉学舎(三汊塾)の法律経済科、東京攻法館の法律科を統合し、専修学校(現・専修大学)が設立され、津田純一、相馬永胤、目賀田種太郎、金子堅太郎、高橋一勝とともに、法律学の教員となった。経済学の教員は田尻稲次郎と駒井重格が務めた[1]。

次いで、岩崎弥太郎の知遇を得て、同1880年(明治13年)に磯野計、増島六一郎、末延道成と共に郵便汽船三菱会社(現・日本郵船)の給費留学生に選ばれて、イギリスに留学する[5][8][9]。

1889年(明治22年)には、英国法との比較を通じて民法草案の意見書を提出するなど、1896年(明治29年)の民法制定に関与した[10]。

その後、大審院検事や大阪控訴院検事を歴任した[2]。

1899年(明治32年)に検事を退職すると[11]、大阪で弁護士を務めた[12]。

主な著作

  • 『海外見聞録』山下雄太郎 著、山下雄太郎、明治19年3月

脚注

  1. 1 2 『専修大学百年小史』専修大学出版局、1979.8、22-23頁
  2. 1 2 『官報 1898年12月01日』大蔵省印刷局 編、日本マイクロ写真、明治31年、七
  3. ↑ 『海外見聞録』山下雄太郎 著、山下雄太郎、明治19年3月、大尾215頁
  4. ↑ 『老監督』有富虎之助 著、紅潮社、大正4、27-30頁
  5. 1 2 『磯野計伝』竹越与三郎 著、明治屋、昭和10、96-98頁
  6. ↑ 『三幅対 (袖珍日本叢書 ; 第1編)』小谷保太郎 編、吉川弘文館、明36.6、90-91頁
  7. ↑ 『三幅対 (袖珍日本叢書 ; 第1編)』小谷保太郎 編、吉川弘文館、明36.6、15頁
  8. ↑ 『三幅対 (袖珍日本叢書 ; 第1編)』小谷保太郎 編、吉川弘文館、明36.6、73頁
  9. ↑ 末延道成君 實業家法學士『立身致富信用公録. 第17編』(国鏡社, 25頁,1904)
  10. ↑ 『民法編纂ニ関スル雑書』日本学術振興会、昭和16年
  11. ↑ 『官報 1899年01月04日』大蔵省印刷局 編、日本マイクロ写真、明治32年、10
  12. ↑ 『三幅対 (袖珍日本叢書 ; 第1編)』小谷保太郎 編、吉川弘文館、明36.6、136頁