英和学舎

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大阪・川口居留地21番の聖テモテ教会(手前)と英和学舎(奥)

英和学舎(えいわがくしゃ)は、明治時代に米国聖公会によって大阪で設立された教育機関で、立教大学の前身校の1つである。運営された期間は長くなかったものの、英語や数学や漢学のほか、天文学、生理学、論理学、歴史学、本草学など当時としては高度な学問が教授され、多くの名士を輩出した[1][2]。歴史学や植物学、生理学などの学科はすべて英語で講義された[3]。校名として大阪英和学舎[4][5]、川口英和学舎[6]、聖テモテ学校(聖提摩太学校)などの記述もある。英称はSt. Timothy's School[3]。

概要

創成期

米国聖公会の宣教師であるチャニング・ウィリアムズは、幕末の1859年(安政6年)6月に来日した長崎で、同僚のジョン・リギンズとともにプロテスタント初の宣教師として立教大学の源流となる私塾を開設するなど活動したのち[7][8][9][10][11]、1866年(慶應2年)3月に一旦米国へ帰国し、同年10月3日に第2代中国・日本伝道主教に任命された[12]。1868年にウィリアムズは再び中国(当時・清)に渡り活動するが、同年11月に大阪に活動拠点を置くことを考え、視察のために大阪を訪れた[13][10][9]。

1869年(明治2年)7月、ウィリアムズは活動拠点を大阪に移した[14][15][16][10]。講義所を開こうとしても耶蘇宗と聞いては驚愕され、どこに行っても断られる状況であった。ウィリアムズは大きく当惑するが、大阪府庁に出頭し、「私は米国の宣教師ウイリアムスと申す者ですが、当地に一の説教所を設けんと日夜奔走いたし、偶々適当な家屋を見出しても邪宗門といって相手にしてくれませんので困ります。」と助力を求めた。その時、山本景武という人がウィリアムズに面会したが、ウィリアムズの敬虔な人格に打たれ、深い同情を表し、いろいろと斡旋を受けて、やっとの事で川口の外国人居留地近くの与力町に家を借り、ここに初めて講義所を開くこととなった[17]。
同1869年(明治2年)、この与力町の自室に小礼拝堂(ミッション・チャペル)と私塾(翌年、英学講義所となる。後の英和学舎、現・立教大学)を開き伝道活動を始動し、英語礼拝と英語教授を開始した[注釈 1][13][16][19][20][21]。この小礼拝堂が大阪におけるキリスト教伝道所の嚆矢で、二転三転して現在の川口基督教会になった。山本景武は、これをきっかけにキリスト教を研究し、その後、新島襄から洗礼を受け組合教会の信者になった[17]。
同1869年(明治2年)11月には、ウィリアムズは主教座を武昌から大阪に移し[22]、1870年(明治3年)1月には、大阪・川口の与力町に礼拝堂(ストリート・チャペル)を開設し[14]、同年に私塾を改組して、英学講義所(後の英和学舎)を開設した[15][23][24][22]。

同年12月にはウィリアムズの熱心な呼びかけに応えて、プリンストン大学出身のアーサー・ラザフォード・モリスが日本へ派遣する宣教師に任命され、翌1871年5月2日(明治4年3月13日)にモリスは大阪に到着した[14][25][26]。同年12月には、モリスが大阪・古川町(2丁目)に私塾と診療所のための家屋を入手し、ウィリアムズが与力町にあった英学講義所と医院を古川町へ移転する[14][15][13][26]。

1872年(明治5年)2月21日に、ウィリアムズとモリスは大阪・古川町に私塾(男子校)を開設[注釈 2][23][10][12]。午後2時間のみの男子学校で[23]、英語に加えて数学や理化学なども教えたが、ウィリアムズは数学、理化学を教え[10]、モリスが英語の教師として教壇に立った[25]。また、ウィリアムズが担当する聖書は選択であったが、初級クラスは全員が履修し、上級生も多数が履修した[10]。

しかし、未だ日本はキリスト教禁教下であり、私塾は開設後4ヵ月で大阪当局により閉鎖させられてしまうが[23]、同年1872年(明治5年)9月にはバイブルクラスを開いた[22]。同年12月3日は、ジェームズ H. クインビー(James Hamilton Quinby)がウィリアムズの要請によりC.D.B. ミラーと共に夫人を伴って大阪に着任した[25]。

当時のウィリアムズの英学塾は、新しい日本の進取的青年たちが非常に歓迎するところとなり、ウイリアム学校と云って評判がよく、たちまち数十名の生徒となったことから、1872年(明治5年)末には、いよいよ学校組織を整え、モリスやミラー夫人らが教鞭を執った。前述のとおり、ウィリアムズは極めて頭脳明晰で、理化学、数学の素養も大変深い人物であったことから、英語のほかにも、これらの学問も教えた[17]。

キリシタン禁制の高札が撤去

英和学舎と聖テモテ教会があった地に建つ川口基督教会(ウィリアム・ウィルソン設計)。

1873年(明治6年)2月24日には、岩倉使節団の海外訪問と不平等条約改正の予備交渉に伴い、キリスト教徒への非人道的な行為が非難され、信仰の自由を認めることを求められたことにより、政府は太政官布告第68号によりキリシタン禁制の高札を撤去する[27][28]。 これを受けて、同年3月4日には閉鎖していた大阪・古川町の私塾を改称し、聖テモテ学校(聖提摩太学校、St. Timothy's School)が開校し[15][14][22]、モリスが初代校長に就いた[注釈 3]。

当時にあって欧米の高度な英学を教授していたことから、なかなか社会でも重んじられ、同校を卒業すれば、ウィリアムズの盟友であるフルベッキが設立に尽力した大学南校(旧東京大学及び東京帝国大学の前身)に無試験で入学することができた。同校に学んだ生徒で、1873年(明治6年)頃にウィリアムズから、洗礼を受けた者には、山下雄太郎、三崎亀之助、末延道成、吉川厳、田所貢、林包明、井上勝之助、加藤彰廉、平井重則らがいた。三崎や末延、加藤らはその後、東京大学に修学した[17]。

1873年(明治6年)11月に、ウィリアムズは東京へ活動拠点を移すと[25][10]、1874年(明治7年)2月3日に東京・築地の外国人居留地にクレメント T. ブランシェとともに私塾を開設し、年末までには立教学校と命名された[12]。

同年1874年(明治7年)、クインビーがモリスの後任として大阪の聖テモテ学校の校長となった[2]。 1875年(明治8年)1月、聖テモテ学校を手伝っていたエレン・ガードルード・エディ(1874年11月、大阪に着任)が大阪・川口にエディの学校を開校するが、聖テモテ学校の女子生徒(先に来日して指導していたクインビー夫人の生徒3名)を引き取って開校したものであった[23][15]。同年9月にはエディの学校が照暗女学校(のちの平安女学院)と改称した[注釈 4][15]。

その後、聖テモテ学校は、官立学校の発展などもあり生徒数が減少し、1876年(明治9年)6月に閉校となった[2]。

学校の再興

1878年(明治11年)11月に米国聖公会の宣教師であるテオドシウス・ティングが東京に来日し[30][31]、翌月12月に大阪に入り、モリスに迎えられた。 ティングは、大阪で廃校になっていた聖テモテ学校の再開に力を注ぐ。1879年(明治12年)7月に、ウィリアムズは大阪を訪問し、学校運営の提言を行い、在阪宣教師の同意を得たことから、米国聖公会外国委員会が経費計上することを前提に資金を供与した。こうして、学校の復興が決まり、1879年(明治12年)9月24日に、大分県士族の内田安定の名前で開校の宣言を行い、生徒募集を進めた。当局から開校の許可が得られると、1879年(明治12年)10月16日に、新たに大阪北区上福島村668番地に英和学舎として開校した[2][14][30][3]。
この時、入学希望者が多く、英語初心者に限っては翌月初旬までに来学するよう伝えられた[30]。聖バルナバ病院創設者のヘンリー・ラニングも学校の創設に携わり[32]、同校で教える[1]。教師は外国人宣教師のモリス、ラニング、ティングの3人に加え、日本人教師として中西清および中島虎次郎(後の奈良基督教会伝道師、奈良英和学校支援者、別字:中島寅次郎、別名:中島唯平[33])ら英語、漢学、数学の教師陣を擁した[30]。学校は4年制とし、生徒数の増加に伴い経費が増すことから、無料であった授業料を月30銭徴収するようになった[1]。翌月11月に、英和学舎は江戸掘北通1丁目4番地旧三田藩邸に移転した[30]。
また、この頃入学した近重利澄によると、英和学舎の校長はテオドシウス・ティングで、幹事には内田安定(豊後彼杵出身の大分県人で、聖公会信徒で大島郵便局長となった人物。)、教師には中島氏彬(林靏梁の弟子で文筆家であり、後に判事となった。)、福田直三(大阪出身の数学教師で、暗照女学校でも教えた)、中島虎次郎(長崎通詞の子)、河島敬蔵の諸氏がいたと記している[34]。

資料御雇外国人(小学館,1975年)には、当時モリスとラニングは、大阪・川口の本田与力町1番地と本田3ばん地1番地に居住していたことが記されている[35][36]。

1880年(明治13年)1月に、英和学舎は風雲館と合併する[2]。風雲館は、中島氏彬と中島彬夫が創設した私塾である。また、英和学舎に新たに夜学課が設置された[30]。

1880年(明治13年)4月には、英和学舎は、正教師にモリス、ラニング、ティング、ジョン・マキム、補教師に谷井正道、中島虎次郎、漢学に中島氏彬(風雲館創設者、大阪上等裁判所判事)、小笠原字一良、数学に立花義誠という教師陣で運営された[30]。

校舎の移転と新築

長崎出島和蘭商館跡に現存する同じ聖公会の旧出島神学校(旧出島英和学校、旧長崎神学校)/大阪にあった英和学舎の校舎と同じく青色で塗られている。

1881年(明治14年)8月には、英和学舎の新校舎が川口居留地21番に新築され、10月に新校舎に移転し開校となった[2][37]。英語名はSt. Timothy's School[3]。翌1882年(明治15年)には、校舎の横に英和学舎の付属礼拝堂として聖テモテ教会(聖提摩太教会)も建てられた[3][37]。

英和学舎では英語、数学、漢学、習字のほか[1]、天文学、生理学、論理学、歴史学、本草学(医薬に関する学問)など高度な学問を教授し[2]、官立大阪高等中学校(後の旧制第三高等学校、現・京都大学)、京都の同志社と並び、関西の三大校と呼ばれた[1]。また、当時の日本のおける私立学校勃興の時代の中で、英和学舎は東京の慶應義塾、京都の同志社のごとく興隆を極めた[3]。

ティング校長、モリス、ラニングら有力な宣教師が授業を受け持つ以外に、英語は当時英文学者として名声を得ていた清水泰次郎(後の同志社英学校教授、第五高等学校教授)、洋行帰りとして大変珍しがられた山中幸徳(第三高等学校/現・京都大学や同志社英学校教授を歴任)、後に立教中学校初代校長となる左乙女豊秋らを擁し、英語では断然他校を圧倒した[1]。また、当時は英語が熱く盛んになる初期の時代にあり、外国人と対等に会話ができる人は驚嘆され、英和学舎はこの時期に生まれて京阪以西の青年から人気を集めた[3]。

その他の外国人教師にはティング夫人やマーガレット・ミード(Margaret L. Mead)、日本教師には、戸谷澹斎(戸谷萩堂)、中島虎次郎、河島敬蔵、福田直之進、平山英夫らがおり、幹事には初めに内田安定が務め、後に田中克巳が就いた[3][38]。

歴史学や植物学、生理学などの学科は全て英語で教授された。学生の気風は概して活発であり、その頃は学術や政談演説が盛んな時代で、校内における演説会や討論会はいつも活気を帯びていた[3]。

1883年(明治16年)、英和学舎で徽章、制帽、制服が規定された。徽章は、桜を形どった模様に英の字が入った金色のもの、制帽は昔の海軍帽に似て、立教大学新聞記載の1930年(昭和5年)当時では慶應生の帽子に似たもの、制服は、黒色で金ボタンがついたものであった。それらを身に纏い、得意の英語を誇る学生たちは直輸入の洋書を手にして、大阪・川口居留地にそびえ立つ青色に塗られた木造洋館の2階校舎を中心に、当時の自由民権論を盛んに論じて、肩で風を切る素振りは賑やかな様相であった。また、英和学舎の授業料が、これまで月30銭であったものが、この年に月50銭に値上げされたが、その他の費用は一銭も不用で50銭玉1個で、当時として米国人が経営する一流の学校に通うことができた[1]。同年、塾生の投票により、元田作之進が英和学舎塾長となった[39]。

学生運動による一時閉校

1883年(明治16年)9月の新年度(1884年度)からは、英語初心者の入学は9月以外は認めないという新学則によって、生徒数は31人の寄宿生を含み50人以上に増えた[40]。しかし、同1883年(明治16年)11月には、英和学舎で学生運動による騒動が起こり、生徒が大量に退学して一時閉校となる事態となった。生徒らは土曜日の授業実施を校長のティングに要求し、対岸の旅館に籠城したのち、退学した。この大量退学事件は、英和学舎のミッション関連施設の同区画内の聖テモテ教会(聖提摩太教会)の信徒脱会事件にまで発展する。これらの背景にはティングの個人的な日本語教師をめぐる複雑な対人関係の確執も関係した[40]。
当時、この学生騒動に参加した土屋元作の自伝書『記憶を辿りて』(昭和7年)では以下のような記述がなされている[41]。土屋は、1884年(明治17年) [42]夏に、父が赴任していた大阪へ行き、英和学舎(現・立教大学)に入学した。校長はテオドシウス・ティングで、首席教授はモリス。日本人では牧師の左乙女豊秋ほか2人の教員がいた。生徒の数は寄宿生と通学生を併せて5,60人ほどだった。その中で土屋は最上級であったことから、在学中の今後が短く楽しみが少ないと感じて、3ヶ月ほどで退学する[41]。 退学して4,5日後に学校へ遊びにいくと、生徒らの中でティング校長が評判の良い左乙女教授を罷免して後任に近頃学校に来た和田春耕を挙げようとしていることが不満となり、和田を排斥する運動に加わるように言われる。退学した学校なので一応断ったが、聞き入れないので共に運動に加わった。和田はイタリアに留学経験があり、毎朝石鹸を沢山使い泡立てるなど、ハイカラぶりを発揮し、絵画をしたり、生徒に課外教授をするなどの小才子で、巧みに校長に取り入っていたが、生徒仲間からは人望が無かった。生徒一同、授業をボイコットし、ティング校長に対し和田の罷免を求める要求をするが、聞き入れられないため、「英和学舎レボリューション」という旗を立てて一同勢ぞろいで練り歩いた。生徒の中には後に時事新報社で記者となり土屋と机を並べていた永松達吾も加わっていた[41]。
当時の生徒に中には給費生が4人おり、1人が塾長の元田作之進、次いで小林彦五郎、さらに小寺秀政という学僕をしていたものと、もう1人がいた。元田は給費生だからといって騒動には加わらなかったが、部屋では煽動していた。小寺は福岡県人で三人力という力自慢で、学僕でありながら、この騒動に表面的には加わっていた。騒動の中で、態度が曖昧であった小林と、もう1人の部屋が壊されたのち、和田がやって来て、土屋は退学しているのに騒動に加わっているのは教師への礼を欠いていると非難したが、生徒らは誰も和田を先生と思っておらず、土屋に謝れと争い、最終的には和田に詫び文を書かせた。この騒動の結果、元田と小林と、もう1人は学校に残ったが、他の生徒は全員退学した。退学の際には、記念写真を撮って分かれたという。その時活躍した小寺はその後、国に帰ったが、肺病で亡くなったとされ、その他の連中は東雲町にあった東雲学校に入り、英和学舎は殆ど廃校同様となった。ティングは新入生徒を募ったが少数だったといい、左乙女教授も退職し東京へ行き、牧師を務めたという[41]。
また別観点も含め、立教大学新聞第89号(1930年6月18日)では内容を以下のように伝えている。ことの経緯は、学生の間で、日曜以外に土曜日も休みである事が論議された結果、学校に対して2つの要求が出され、1つは『官立学校と比べて勉強が1週に1日ずつ遅れ、これが到底我慢できないこと』、2つは『治外法権等をたてに取って、何となく外国人が生徒を軽視していることが甚だ、けしからんこと』という内容であった。この2つの理由が徐々に熱を帯びて、同年の始めに小林彦五郎(後の立教女学校校長)、元田作之進(後の立教大学初代学長)が急先鋒となり、総退学の決意でテオドシウス・ティング校長に要求を突きつけ、改善を求めた。しかし、要求は得るところがなく、明治政府成立以来の学校騒動が持ち上がり、学生50有余名のうち38名が、自由党志士が経営する共同学館へ転校し、英和学舎は一時閉校せざるを得ない状況となった。こうしたこともあって、後述のとおり英和学舎は、翌1887年(明治20年)に東京・築地の立教大学校(現・立教大学)と合併する事となり、立教大学として第3期の東京時代が改めてスタートを切っていくこととなった[1]。

その他、英和学舎の閉校については上記以外の事由もあり、1887年(明治20年)2月に、日本聖公会が成立し、日本における英米ミッションの教会と学校は整理されることとなったことも理由に挙げられる[2]。加えて、英和学舎の次期校長に就任予定であった立教大学校教授のジョン・H・モリニュー(John H. Molineux)が夫人が病のために医師から帰国を命じられたことに加え、次に英和学舎を管理できる者がいなかったことから、学校を廃止することが判断されたという理由もあった[16][25]。

立教大学校との合併により閉校

1887年(明治20年)2月にウィリアムズと英国聖公会のエドワード・ビカステスの尽力により、日本における英国国教会(イングランド国教会)と米国聖公会が合同し、日本聖公会が設立され、同月27日に英和学舎は閉校となった[43][2]。翌月3月には、 閉校した英和学舎が東京の立教大学校と合併した[44][2]。

主な出身者

草創期の出身者

以降の出身者

聖職者に左乙女豊秋(立教専修学校校長/現・立教大学、立教中学校初代校長)、清田海一郎(浅草聖ヨハネ教会初代牧師)、多川幾造(平安女学院院長/校長)、元田作之進(立教大学初代学長)、近重利澄(大阪聖パウロ教会牧師、月島伝道学校校長)、小林彦五郎(立教女学校校長/現・立教女学院)、名出保太郎(日本聖公会大阪教区主教)、山辺久吉(山邊久吉、大阪聖パウロ教会管理長老)、尾形虎三、袋井久乃丞、政治家に松井将壮(衆議院議員、広島県会議長)、実業家に大塚惟明(南海電鉄社長)、有田秀造(都電の源流である東京市外鉄道や山一證券の創業メンバー)、寺岡踏正(旧・平井忠介)、的場松太郎、山根虎二郎(山根虎次郎)、中村正二郎、五十嵐光彰(東京通信社社長)、土屋元作(大阪時事新報主筆)、前田貞次郎 (広島毎日新聞社社長・主筆、中江兆民の弟子)、三木保吉(東海倉庫支配人)、教育者に河島敬蔵(日本初のシェイクスピア劇翻訳者)、松村松年(日本の近代昆虫学の祖)、清水泰次郎(英文学者、第五高等学校での夏目漱石の後任教授、同志社英学校教授、日本英文学会創設者)、前田定之介(英文学者、早稲田大学講師、実用英語および商業英語教育の先駆者、パトリック・ヘンリーの名演説「我に自由を与え然らずんば死を与えよ」の翻訳者)、池田夏苗(旧制富岡中学校校長、群馬県立高崎高等学校校長、旧制呉中学校校長)、土生靑(土生青)、栃谷六三郎、清水誠吾(京都府師範学校校長、日本の学校体育や水泳教育の先駆者)、日笠彦五郎(岡山出身)、新聞記者に水田栄雄(水田南陽/日本へシャーロック・ホームズを紹介した先駆者)、永松達吾(玉川電鉄代表取締役/現・東急)、粟屋関一(国際通信社〈後の電通及び時事通信社〉の初期幹部)、山本秀樹、医師に深澤鑑十郎(大阪府会副議長、深澤病院長)、官吏に久芳直介(台湾総督府税務官)、法律家に岸本市太郎(岡山地方裁判所判事、大阪弁護士会会長)、吉田長敬(徳島地方裁判所判事、大阪弁護士会副会長、神戸海上保険大阪支店長)、妹澤某(判事)、そのほか白沢保美(樹木学者、東京の都市緑化事業の第一人者)、渡辺五郎(教育者、九州日報筑後支社長)、林虎之助など、多くの名士を輩出した[3][2][45][46][47]。

浄土宗の僧侶で近代仏教音楽の先駆者でもある岩井智海(浄土宗管長、京都・知恩院第80世門跡、東京・増上寺法主)も英和学舎を修了した後、立教大学校に選抜生として進学した[48][49]。

関連項目

脚注

注釈

  1. ↑ ウィリアムズが当初居を構えた与力町は、川口居留地に程近い雑居地(のちの本田三番町付近、現在の川口3丁目付近)にあった。川口居留地は、当初わずか26区画しかなく、競売で土地を落札することができなかった外国人は隣の梅本町、与力町等の雑居地に住むようになったが[18]、ウィリアムズも与力町に居を構え、住居は日本人の協力を受けて得られたものだった[13]。
  2. ↑ 1930年(昭和5年)の「立教大学新聞第89号」には、学校は聖テモテ学校という名称で明治4年6月に設立されたとの記載もあり、学校の設立年と名称には複数説がある[1]。
  3. ↑ 明治6年に校名(和名)を英和学舎と改めたとする資料もある[1]。
  4. ↑ この改称と同時に学校の場所を川口居留地14番に移したと考えられる。照暗女学院は、1879年6月には川口居留地6番の元オーサカホテルを購入し移転[29]。

出典

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  2. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 学校法人桃山学院・桃山学院史料室 大阪川口居留地・雑居地跡 『立教学院』
  3. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 立教史データベース 『雑録/旧英和学舎を憶ふ 元田作之進』 基督教週報第8巻第15号,1903年12月11日
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  13. 1 2 3 4 学校法人桃山学院・桃山学院史料室 大阪川口居留地・雑居地跡 『C.M.ウィリアムズ師と米国聖公会』
  14. 1 2 3 4 5 6 学校法人桃山学院・桃山学院史料室 大阪川口居留地・雑居地跡 『川口居留地の歩み』
  15. 1 2 3 4 5 6 川口居留地略年表『大阪川口居留地の研究』 川口居留地研究会,79-82頁
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  34. ↑ 『アイザック・ドーマン師追憶録』教会時報社 編,教会時報社,昭和8年,150頁-152頁
  35. ↑ 『資料御雇外国人』ユネスコ東アジア文化研究センター 編,小学館,1975年,444頁
  36. ↑ 『資料御雇外国人』ユネスコ東アジア文化研究センター 編,小学館,1975年,451頁
  37. 1 2 『川口居留地研究資料集 : 研究発表資料を中心として 第1号』107頁,川口居留地研究会,1987年12月
  38. ↑ 『日本聖公会史』元田作之進 著,普光社,明43年10月,180頁-181頁
  39. ↑ 寺﨑 昌男「立教人物誌 : 元田作之進(一) : 誕生から受洗・留学まで」『立教学院史研究』第6巻、立教学院史資料センター、2009年3月、88-93頁。
  40. 1 2 『立教学院百五十年史』第一巻、73頁-77頁
  41. 1 2 3 4 『記憶を辿りて』土屋大夢 著,土屋文集刊行会,昭和7年,103頁-110頁,146頁
  42. ↑ 土屋元作の自伝書『記憶を辿りて』(昭和7年)では、騒動が起こったのは1884年(明治17年)と書かれており、『立教学院百五十年史』にある1883年(明治16年)に起こったとする記述と相違があり、どちらが正確がはっきりしないが、土屋の自伝書は、自身の経歴が時系列に書かれており、1884年(明治17年)が正しい可能性がある。
  43. ↑ 大阪市立図書館 明治前期大阪編年史綱文データベース 『4.1887(明治20)年から1889(明治22)年』
  44. ↑ 立教学院百年史編纂委員会, 立教学院, 海老沢有道『立教学院百年史』立教学院、1974年。doi:10.11501/12110238。NDLJP:12110238。
  45. ↑ 平沢信康「近代日本の教育とキリスト教(7) : 1880年代におけるキリスト教徒の教育活動<2> - 大学設立構想」『学術研究紀要 / 鹿屋体育大学』第18巻、鹿屋体育大学、1997年9月1日、31-42頁。
  46. ↑ 『立教学院百五十年史』 第一巻、76-77頁
  47. ↑ 『日本聖公会史』元田作之進 著,普光社,明43年10月,180頁-181頁
  48. ↑ 『伝弘の生涯 : 大僧正岩井智海伝』71頁,松浦行真 著,大東出版社,1991年4月
  49. ↑ 『岩井智海』 - コトバンク