山本讃七郎

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やまもと さんしちろう

山本 讃七郎
原本は義弟三宅縫造子孫所蔵[1]。
生誕 安政2年7月12日(1855年8月24日)
備中国後月郡梶江村(岡山県井原市芳井町梶江)
死没 1943年(昭和18年)4月5日
東京府北多摩郡武蔵野町吉祥寺(東京都武蔵野市吉祥寺)
墓地 世田谷区烏山町玄照寺
国籍 日本の旗 日本
職業 写真師
活動期間 1882年(明治15年) - 1911年(明治44年)頃
時代 明治時代、清末
団体 日本写真会(英語版)、大日本写真品評会[2]
代表作 『北京名勝』
影響を受けたもの 林董、横山松三郎、中島待乳
影響を与えたもの 江木松四郎[3]、中山張次郎[4]
活動拠点 東京芝区日蔭町、北京霞公府街(中国語版)
配偶者 ちか
子供 山本明、博、勇
親 山本実太郎、林
親戚 横田政明(祖父)、山本梅園(叔父)、三宅縫造(従弟・義弟)
受賞 勲八等瑞宝章、従軍記章
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山本 讃七郎(やまもと さんしちろう、安政2年7月12日(1855年8月24日) - 1943年(昭和18年)4月5日)は明治時代の写真師。岡山県井原市出身。維新後上京して林董宅に住み、中島待乳に写真術を学び、新橋で開業後、北京王府井に写真館を構え、西太后等要人や北京内外の風景を写真に残した。

生涯

写真業へ

安政2年(1855年)7月12日[5]備中国後月郡梶江村(岡山県井原市芳井町梶江)に生まれた[6]。1868年(明治元年)頃阪谷朗廬と親戚の医者の息子(山鳴弘斎三男清三郎か坂田警軒兄待園)が大坂で学んだ湿板写真を披露するのを見て、初めて写真に触れた[7]。

明治4年(1871年)兄讃太郎を頼って上京し、1874年(明治7年)8月[8]叔父梅園の師林洞海の子林董の書生となった[9]。趣味の写真を助けてカーボンプリントに苦戦し、横山松三郎に教えを請ううち、写真家を志し、松三郎門下中島待乳に入門した[10]。

1882年(明治15年)芝区日蔭町一丁目1番地(港区新橋一丁目19番[11])に写真館を開き[12]、1890年(明治23年)5月1日同番地南方に移転した[13]。歌舞伎役者や新橋芸者を顧客としたが[1]、アマチュア写真の普及により経営は苦しくなり、1894年(明治27年)頃鹿島清兵衛の玄鹿館技師として遊興に加担するも、1896年(明治29年)玄鹿館は倒産した[14]。

中国へ渡航

写真機材の運搬馬車に乗る山本讃七郎

1897年(明治30年)5月清国駐剳全権公使林董の誘いで[15]妻子を残して中国に渡り[16]、北京霞公府街(中国語版)の借家を拠点に城内外を撮影して回った[17]。1900年(明治33年)事業の見通しを得て一旦帰国し、新橋の写真館を従兄弟横田雄寿に譲り、北京に戻った[18]。

当時は中国人経営の写真館がなく、政府要人も訪れて繁盛したが、義和団の乱が起こると休業し[19]、居留民義勇隊に属して一等軍医中川十全の助手や炊事を務め、イギリス公使館(中国語版)西壁下に避難用の穴を掘った[20]。帰国後、戦功により、1901年(明治34年)8月31日勲八等瑞宝章、1902年(明治35年)5月10日従軍記章を受章した[21]。

1901年(明治34年)11月中国に戻り[22]、霞公府街に山本照像(相)館を開いた[23]。1904年5月3日(光緒30年3月18日)頤和園に招かれ、西太后を撮影した[24][25]。1906年(明治39年)関野貞の古建築・遺跡調査に参加した[26]。

帰国後

建設遺産撮影時の山本讃七郎と岩田秀則

1911年(明治44年)辛亥革命の頃[27]照像館を甥素卜に任せて帰国し[26]、麻布区我善坊町28番地(港区麻布台一丁目1番)に住んだ[28]。1912年(明治45年)3月10日[29]林董別荘があった神奈川県葉山町堀内に移った[30]。

山本照像館はその後王府井大街26号(東単三条胡同角北)に移転し、長男明が営業を続けた[23]。

1929年(昭和4年)頃両親のいる大田区田園調布に移った[31]。1930年(昭和5年)11月長男明が山本照像館を岩田秀則に譲り[26]、1932年(昭和7年)頃赤坂区青山南町二丁目10番地(港区南青山二丁目5番)に山本写真館を構えると、長男一家と同居した[31]。

1938年(昭和13年)[32]武蔵野町吉祥寺640番地の三男勇宅に移り、1943年(昭和18年)4月5日死去し、世田谷区烏山町幻照寺に葬られた[30]。法名は松鶴院法讃日翁信士[33]。

写真

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親族

1979年(昭和54年)頃孫山本茂所蔵の資料が東京大学東洋文化研究所[45]、2003年(平成15年)三男山本勇旧蔵の資料が東京都写真美術館に収蔵された[46]。

脚注

  1. 1 2 日向 1997, p. 24.
  2. ↑ 日向 1998, p. 45.
  3. ↑ 日向 1998, p. 43.
  4. ↑ 遊佐 2013, p. 35.
  5. ↑ 日向 2015, p. 12.
  6. 1 2 3 日向 1997, p. 21.
  7. ↑ 日向 1998, pp. 34–35.
  8. ↑ 日向 2015, p. 21.
  9. ↑ 日向 1997, p. 22.
  10. ↑ 日向 1998, pp. 36–37.
  11. ↑ 日向 2015, p. 53.
  12. ↑ 日向 1998, p. 39.
  13. ↑ 遊佐 2013, p. 38.
  14. ↑ 日向 1998, pp. 39–48.
  15. ↑ 日向 1998, pp. 47–48.
  16. ↑ 遊佐 2013, p. 37.
  17. ↑ 日向 2005, pp. 28–29.
  18. ↑ 日向 2015, p. 102.
  19. ↑ 遊佐 2013, p. 46.
  20. ↑ 日向 1998, pp. 54–55.
  21. ↑ 日向 2005, p. 30.
  22. ↑ 日向 2015, p. 121.
  23. 1 2 日向 1998, pp. 49–51.
  24. ↑ 遊佐 2013, p. 40.
  25. ↑ 遊佐 2014, p. 74.
  26. 1 2 3 4 塩沢 & 平㔟 2013, pp. 19–22.
  27. 1 2 日向 1997, p. 26.
  28. ↑ 日向 2015, p. 161.
  29. ↑ 日向 2015, pp. 163–164.
  30. 1 2 3 日向 1997, p. 27.
  31. 1 2 日向 2015, p. 167.
  32. 1 2 日向 2015, p. 170.
  33. 1 2 日向 2015, p. 171.
  34. 1 2 日向 1998, p. 58.
  35. ↑ 『官報』第2451号、明治24年8月29日。
  36. ↑ 『官報』第197号、大正2年3月29日。
  37. 1 2 3 4 5 日向 1998, p. 65.
  38. ↑ 日向 1997, p. 28.
  39. ↑ 日向 2015, p. 34.
  40. ↑ 日向 2015, p. 26.
  41. ↑ 日向 2015, p. 166.
  42. ↑ 日向 1998, p. 49.
  43. 1 2 日向 1997, p. 30.
  44. ↑ 日向 2015, p. 179.
  45. ↑ 日向 1998, p. 31.
  46. ↑ 日向 2005, p. 18.

参考文献

  • 日向康三郎「林董伯爵と写真師山本讃七郎 ―ルーツ調べの余禄としての古い写真の発掘―」『史談いばら』第24号、井原史談会、1997年。 
  • 日向康三郎「山本讃七郎をめぐって ―続・林董伯爵と写真師山本讃七郎―」『史談いばら』第25号、井原史談会、1998年。 
  • 日向康三郎「山本讃七郎[Ⅲ] ―名人の写真師の文書資料」『史談いばら』第29号、井原史談会、2005年。 
  • 日向康三郎『北京・山本照像館 ―西太后写真と日本人写真師』雄山閣、2015年9月。 
  • 遊佐徹「近代中国の写真文化と山本讃七郎」『岡山大学文学部プロジェクト研究報告書』第20巻、岡山大学文学部、2013年3月、33-51頁。 
  • 遊佐徹「王府井の日本人写真館 ―西太后を撮った写真師、山本讃七郎―」『中国文史論叢』第10号、中国文史研究会、2014年3月。 
  • 塩沢裕仁、平勢隆郎「関野貞の「支那歴代帝陵の研究」を支えた人々 : 竹島卓一・荒木清三・岩田秀則」『法政史学』第79号、法政大学、2013年3月、doi:10.15002/00011324、NAID 120005815324。 

外部リンク