川口宗吉

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川口 宗吉
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 不明
氏族 川口氏(桓武平氏)
父母 父:川口宗定(盛祐)、母:於富の方(華陽院)
子 川口宗勝、川口宗助
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川口 宗吉(かわぐち むねよし)は、戦国時代の武将。織田信秀・織田信長に仕えた織田氏の家臣。通称は文助。

父は川口宗定(盛祐・文助)。母は大河内元綱の養女・於富の方(華陽院)。子に川口宗勝(天文17年・1548年生)。

生涯

『寛政重修諸家譜』によれば、川口宗吉は、川口宗定(盛祐・文助)と於富の方(華陽院)の子として生まれた。父・宗定(盛祐)は大橋定廣の第2子として生まれ、川口宗持の養子となった人物である[1]

同書によれば、織田信秀・織田信長の二代に仕え、信長の伯母にあたる小島日向守信房の娘を妻とした縁により、近習として仕えたとされる。[1]

また、天文11年(1542年)の小豆坂の戦いで敵の首級を挙げ、その後も海津・稲生・浮野・桶狭間の戦い、美濃国森部の戦いなどに従軍したと記されている。[1]

永禄12年(1569年)には、織田信長の近習組織である「赤衣十人(赤母衣衆)」に列したとされる。[2]

また、同年の伊勢大河内城攻めでは二十人の精鋭の一人に選ばれたという。[1]

天正3年(1575年)の長篠の戦いにも従軍したとされる。濱島吉昭は『文化財だより』において、宗吉を前田利家・福富秀勝・佐々成政らとともに、織田信長から鉄砲運用の下知を受けた部将の一人として紹介している。[2]

晩年は病を患い、『寛政重修諸家譜』によれば、天正14年(1586年)4月11日に63歳で没した。法名は浄林。尾張国海東郡甚目寺に葬られた。[1]

子は川口宗勝(通称・久助)で、織田信長に仕えたのち、尾張沓掛城主となった。[1]

母・於富の方(華陽院)は大河内元綱の養女で、のちに水野忠政に嫁いで徳川家康の生母・於大の方を産み、また家康の祖父・松平清康にも嫁いでいる。このため宗吉と於大の方は異父兄妹の関係にあたり、宗吉の子・川口宗勝と徳川家康はいとこにあたる。

また、徳川家康の近侍として知られる大河内政局(まさとも)は華陽院の甥にあたるため、宗吉と大河内政局はいとこ同士の関係にある[3]。

さらに、父・宗定の祖母は熱田神宮大宮司社家・千秋家の娘であり、川口家は熱田神宮ゆかりの家系とも縁続きにあった。

宗吉自身の個別の事績は史料に乏しいが[4]、子の川口宗勝が織田信長・豊臣秀吉・徳川秀忠に仕えて川口家を近世旗本として再興する基盤を作った人物として重要である。

家系上の位置づけ

宗吉は、川口家が中世尾張の在地武士から徳川家周辺の縁故圏へと接続される結節点に位置する人物である[3]。母・於富の方(華陽院)を通じた徳川家康との縁戚関係は、のちに宗勝が関ヶ原後の失脚から復帰し、徳川秀忠に召し出されて旗本として再興される際の遠因のひとつとして理解できる。

系譜

『寛政重修諸家譜』では、川口氏は桓武平氏流とされ、平宗清の後裔とする家伝が掲載されている。[1]

脚注

  1. 1 2 3 4 5 6 7 “川口”. 寛政重修諸家譜. 巻第五百七十四
  2. 1 2 濱島, 吉昭. “沓懸城主川口久助 一、家系”. 文化財だより.
  3. 1 2 岩瀧山往生院ブログ「徳川家康の近侍・大河内政局(まさとも)と川口宗勝の父・宗吉について」( https://ameblo.jp/iwatakiiwakurareiji/entry-12957613802.html )
  4. ↑ 川口宗吉は盛祐の子で、宗勝の父である。母系に大河内氏・於富の方・華陽院・於大の方とつながる縁戚の広がりが見え、川口家が徳川家周辺の縁故圏に近い位置にあったことを示す。宗吉自身の個別事績は多くないが、宗勝へ家をつなぐ役割はきわめて大きく、川口家の近世史は宗吉を経由して宗勝の再興へとつながる。

参考文献

  • 寛政重修諸家譜. 続群書類従完成会 
  • 尾張志 
  • 濃尾徇行記 
  • 濱島, 吉昭. “沓懸城主川口久助 一、家系”. 文化財だより.