川口西洲
かわぐち せいしゅう 川口 西洲 | |
|---|---|
| 生誕 | 1733年(享保18年) |
| 死没 |
1815年3月6日(文化12年1月26日) 大坂 |
| 別名 | 愷(名)、楽善(字)、治左衛門(通称)、蕭洞(別号) |
| 職業 | 儒学者、漢詩人、書家 |
川口 西洲(かわぐち せいしゅう、1733年〈享保18年〉 - 1815年3月6日〈文化12年1月26日〉)は、江戸時代中期から後期にかけての儒学者、漢詩人、書家。名は愷(がい)、字は楽善(らくぜん)、通称は治左衛門、号は西洲・蕭洞など。備後国三原の川口家の出身である。 [1] [2]
生涯
若年期に京都へ遊学し、儒学者・芥川丹丘に師事して学問や詩文を学んだ。幼少より読書を好み、学業を修めた後に郷里へ帰った。[1][2]
家督を弟の新七に譲り、大坂へ移住した。大坂では天王寺付近に居住し、門人に学問を教授した。寺の住職も西洲に弟子の礼を取ったと伝えられる。[1]
1815年(文化12年)1月26日、大坂で没した。享年83。墓所は大阪市天王寺区にあたる地域の天王寺内にあった邦福寺と伝えられる。[1][2]
人物
西洲は江戸後期の芸備・上方文人の一人として知られ、頼杏坪、菅茶山、皆川淇園、深川星巖らと詩文を通じた交流を行ったとされる。漢詩では特に四言詩を得意とし、俳諧にも通じていたという。[1]
また、薬剤を調製して病人などに施与する活動も伝えられている。『川口西洲遺稿』の巻頭辞には、平賀晋民も西洲の援助を受けたことがあり、その記録が『薫窓集』にあると記されている。[1]
著作
代表的な著作には以下がある。[1]
- 『晩成百首』
- 『四体万字集』
- 『求徳歌』
- 『覇国歌』
- 『東漢歌』
- 『三国六朝歌』
- 『朽木本集』
『晩成百首』は四言詩百首から成る作品で、『四体万字集』の一部にあたる。『川口西洲遺稿』の巻頭辞によれば、『晩成百首』は2,400字、『求徳歌』は隷書1,000字、『覇国歌』は隷書1,000字、『東漢歌』は篆書1,000字、『三国六朝歌』は草書600字で、いずれも四言詩とされる。『晩成百首』以外の作品は散逸したという。[1]
また、作品を袖珍折本に書き、『朽木本集』と名付けて西宮八幡宮に納めたと伝えられる。[1]
家系
西洲は三原川口家の一族の出身である。弟の新七に家督を譲った。[1]三原川口家は酒造業を営んだ家として知られる。
脚注
参考文献
- 廣島縣三原圖書館 編『川口西洲遺稿』三原図書館、1936年。doi:10.11501/1216608。
- 手島益雄『安芸備後両国偉人伝』東京芸備社、1937年。
- 『三原志稿』
- 『藝藩通志』
- 西向宏介「近世尾道商人の系譜と展開―橋本家文書の基礎的考察―」『広島県立文書館紀要』第16号、2022年、71–104頁。