市川元好

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市川元好
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不詳
死没 天正20年10月5日(1592年11月8日)
戒名 決叟全勝居士
官位 式部少輔、兵部少輔
主君 毛利輝元
氏族 藤原南家工藤流吉川氏庶流市川氏
父母 父:市川経好
兄弟 元教、元好、隆久、伊予守、女(今田土佐守室)
妻 神村親冬の娘
子 元直、元好、経勝、飯尾元行、
女(内藤元泰室)、紫福(内藤元家正室)[1]
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市川 元好(いちかわ もとよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。毛利氏の家臣。父は山口奉行を務めた市川経好。

生涯

毛利氏家臣で山口奉行を務めた市川経好の次男として生まれる。

天正6年(1578年)、兄の元教が大友宗麟と内通して反乱を企てていることが露見し、父・経好の命を受けた内藤元輔や雑賀隆利らによって討ち取られた。元教の追討に伴い、以後は元好が嫡男となった。

天正12年(1584年)10月29日に父・経好が死去したため家督と山口奉行職を引き継ぎ、天正14年(1586年)から始まる豊臣秀吉の九州平定では、毛利輝元の命を受けて出陣している。

しかし、山口奉行の機構は周防国と長門国の支配に関しての権限が大きく、毛利家の中央行政機構の意に従わないこともしばしばあったため、輝元にとって廃止すべき中間機構となった。また、この頃の山口奉行には国司元信や黒川兵部丞も参画していたが、それぞれの父である国司就信や黒川著保もかつて山口奉行に参画していたことから、奉行職が世襲化する傾向を示していた。そこで、輝元は惣国検地の実施に伴い、天正16年(1588年)に元好の出雲国への給地替えを行い、奉行職の世襲化を断ち切ろうとしている。

天正20年(1592年)10月5日に死去。嫡男の元直が後を継いだが、元直は文禄の役に従軍して同年12月27日に朝鮮で戦傷死したため、元直の嫡男である元栄が幼少ながら後を継いだ。

脚注

注釈

    出典

    参考文献

    • 『萩藩閥閲録』巻38「市川七右衛門」、巻140「市川三右衛門」
    • 防長新聞社山口支社編 編『近世防長諸家系図綜覧』三坂圭治監修、防長新聞社、1966年3月。 NCID BN07835639。OCLC 703821998。全国書誌番号:73004060。 国立国会図書館デジタルコレクション
    • 岡部忠夫編『萩藩諸家系譜』(マツノ書店、1999年復刻)
    • 光成準治『ミネルヴァ日本評伝選 毛利輝元 ―西国の儀任せ置かるの由候―』(ミネルヴァ書房、2016年)