平野将監入道
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| 時代 | 鎌倉時代末期 |
| 生誕 | 不明 |
| 死没 | 不明(元弘3年/正慶2年閏2月1日(1333年3月17日)よりやや後?) |
| 官位 | 近衛将監 |
| 主君 | 西園寺公宗→後醍醐天皇 |
| 氏族 | 平野氏[注釈 1] |
| 父母 | 父:平野但馬前司? |
| 兄弟 | 将監入道、次郎蔵人、某(三弟だが名称不明)、孫四郎 |
| 子 | 男子(名称不明)?[注釈 2] |
| 特記 事項 | 本貫は摂津国住吉郡平野庄(のちの平野郷町、大阪府大阪市平野区平野) |
平野 将監入道(ひらの しょうげんにゅうどう)は、鎌倉時代末期の武将、官人、悪党。「将監入道」は仮名(けみょう、通称)で、諱(本名)は不明。下級貴族・平野但馬前司の長男か。関東申次の西園寺公宗に「不退在京」で仕えた有力家人(家臣)。当時の西国悪党の惣領格[注釈 3]。2000年代の新出史料により平野こそが倒幕勢力人脈の中心だったとする説が有力で、軍記物語『太平記』の大英雄・楠木正成も歴史上では彼の持つ悪党人脈に拠ったとされる。東大寺と下鴨社の抗争「長洲荘悪党第二次事件」で下鴨社側の教性に加担し、元徳2年(1330年)9月25日に中世史上最大規模の悪党乱妨事件を起こした。元弘の乱後半戦の天王寺合戦(1333年)では正成と共に六波羅探題の要地・四天王寺を陥落させた。同年の楠木本城の戦い(上赤坂城の戦い)では、楠木本城(旧説では上赤坂城)の城主として幕府軍大手大将の阿蘇治時(北条治時)に善戦するも敗退し、行方不明となった。『太平記』では史実と同様に赤坂城の戦いで活躍するも敗退後、処刑される。
出自
摂津国住吉郡平野郷(大阪府大阪市平野区平野)を本貫とする平野氏に生まれる[2]。次弟は平野次郎蔵人で、四弟は平野孫四郎である(『東大寺宝珠院文書』)[2]。なお、近世平野郷は摂津国だが、中世ではなぜか河内国(大阪府東部)と扱われることが多く、平野将監入道も「河内平野将監入道」とも呼ばれる(『東大寺宝珠院文書』)[2]。平野は摂河泉地域の国境にある交通の要衝で、都市的な地域だった[2]。
同族に「平野但馬前司」という人物が存在する(『楠木合戦注文』)[3]。この人物について、熊谷隆之は将監入道の親族と推測するに留める[3]。一方、堀内和明は官位関係や兄弟関係の対応(将監入道は少なくとも4人兄弟で、但馬前司には子息が4人いる)から言って、但馬前司は将監入道の父であろう、と推測している[2]。
なお、但馬守の相当官位は従五位下であり[4]、つまり父の可能性がある但馬前司(前但馬守)は貴族(従五位下以上の人物)である。平野将監入道自身も「近衛将監」(従六位上[4])の官位を持っており、元弘の乱後醍醐勢力の実質的な総指揮官・楠木正成は乱の最中に兵衛尉(大は正七位上、少は従七位上[4])から左衛門尉(大は従六位下、少は正七位上[4])に昇任しているが、それでもなお平野よりも下位だった[2]。
時期不明だが、関東申次(朝廷側の対幕府交渉の責任者)の西園寺公宗の家人(家臣)となり、「不退在京」と呼ばれるほどの地盤を京都に築いていた(『東大寺宝珠院文書』)[5][注釈 4]。
このように平野将監入道は当時の西国社会でも抜きん出た人物であり、彼ほどの人物を「悪党」と呼ぶのが適切かどうか、当時の公式文書でも争点の一つとして争われていた[5]。
倒幕ネットワークの中心人物
関係図
正確な時期や理由・経緯は不明なものの、遅くとも元弘の乱(1331–1333年)までに平野将監入道は以下のような人脈を築いていたと考えられている[注釈 5]。赤松氏(赤松則祐)が元弘の乱以前から護良親王と関係があったとする説は軍記物語『太平記』で著名だが、それを直接裏付ける同時代史料は存在しないため[3]、破線で示した。
| 文観房弘真 | 後醍醐天皇 | 護良親王 | |||||||||||||||||||||||||||
| 僧正道祐 | 峯僧正俊雅 | ||||||||||||||||||||||||||||
| 楠木正成 | 平野将監入道 | 江三入道教性 | 赤松氏 | ||||||||||||||||||||||||||
| 和泉悪党 若松・八田 | 摂津悪党 渡辺・キレ | ||||||||||||||||||||||||||||
悪党人脈の研究史・各論

20世紀後半の悪党研究の進展により、
- 元弘の乱の主将である楠木正成が、僧正道祐・文観房弘真を介して、元弘の乱以前から後醍醐天皇と繋がりがあったと思われること(網野善彦説)
- 同じく重要人物の赤松円心(則村)が、息子の赤松範資・赤松貞範の長洲荘悪党第一次事件への介入を通じて、悪党勢力(教念)と関係を持っていた可能性があること
などは研究上では長く知られていた[3]。しかし、21世紀初頭まで、正成と円心の間にどのような関係があるのか、史料の上では不透明だった[3]。
このような中、新出史料『東大寺宝珠院文書』中から、熊谷隆之が#長洲荘悪党第二次事件関係の史料を発見し、2007年、従来の研究上は無視されてきた平野将監入道こそが、倒幕勢力の関係図の最後のピースを埋める存在と推定されることを示した[3]。
また、旧来は「悪党」といえば寺社勢力・武家勢力と関連付けられて語られることが多かったが、熊谷によると、これは史料の残り方で偏りが生じただけで、平野の例でわかるように、実際は公家勢力も悪党を使役していたはずだという[10]。たとえば文保元年(1317年)11月にも、大炊寮河内国四条御稲田の供料を、西園寺家の悪党と北条得宗家の悪党が結託して乱妨したという事例がある(『師守記』貞治3年2月および3月記の紙背文書による。『史料纂集』所収)[10]。
同様に、両統迭立と悪党の関係では、大覚寺統(後の南朝)が強調される傾向が多かったが、平野のように持明院統(後の北朝)寄りの公家に仕えながら大覚寺統とも繋がりがあった悪党の例などを見れば、二者択一で完結するものではないだろう、と熊谷は指摘した[10]。
堀内和明も熊谷説を支持し、平野将監入道と楠木正成の二人を共に「悪党の代表格」「名誉の悪党」としている[11]。堀内の解釈では、倒幕計画の発端は正成側にあり、平野は正成に与同することで、反六波羅の悪党行為を倒幕運動に昇華していったのだという[2]。また、平野の持つ教性→赤松氏の人脈によって、楠木党と赤松氏は元弘の乱以前から連携していたと推測している[2]。その他、渡辺氏やキレ氏など悪党事件と元弘の乱の両方で活躍する氏族も、平野・正成の二大悪党が摂河泉地域での地縁で味方につけたとしている[12]。
生駒孝臣も、平野を反幕府勢力ネットワークの重要人物とする熊谷・堀内説に賛同する[9]。しかし、楠木正成を悪党の代表格とする堀内説とは違い、『後光明照院関白記』(『道平公記』)中の落書により、御家人か御内人かは不明だが、正成はどちらかといえば鎌倉幕府の関係者側の人間だったらしいとしている[13]。そして、平野の方が先に倒幕ネットワークに連なっており、後から正成がそこに組み込まれていったのだとする[9]。また、平野が「不退在京」と呼ばれる京都常駐の官人だったことや、王家直属の武士だった渡辺氏なども加わっていること等から、これらの集団は摂河泉地域の現地というより、在京活動を通して京都で作られたネットワークだったとしている[9]。また、本来は倒幕のために作られた人脈ではなく、平時からあらかじめ畿内武士たちが京で構築していた人脈だったが、後から結果として倒幕ネットワークに転用されたものだったと推測している[9]。
長洲荘悪党第二次事件
前史

平野将監入道が歴史に初めて名を現すのは、1330年代初頭に行われた長洲荘悪党第二次事件である[14]。
摂津国長洲荘(兵庫県尼崎市長洲地区)とは、奈良の東大寺が干拓して開拓した荘園である[15]。しかし、交通の要衝だったことや周囲に名勝・歓楽街・別荘地が広がっていたことから、たびたび土地問題での抗争を引き起こした[15]。
前史にあたる長洲荘悪党第一次事件は、1310年代に争われた事件である[16]。原告は東大寺の雑掌(事務官)の慶春、被告は春日大社(中世では興福寺と同義)の神人(じにん、下級神職)の教念である[16]。最初は延慶3年(1310年)8月以前に春日社(興福寺)側の悪党の教念が行った海賊行為が争点だったが、訴訟中に東大寺の悪党の一人が下鴨社(賀茂御祖神社)の領地を略奪したため、東大寺・春日社(興福寺)・下鴨社という三つの巨大寺社を巻き込む大抗争となった[16]。正和3年(1314年)、伏見上皇が事態の収拾を図ったが、その後どうなったか、結末の記録は現存しない[16]。
第二次事件の勃発
長洲荘悪党第二次事件は、東大寺と下鴨社(賀茂御祖神社)の抗争事件である[17]。
下鴨社勢力側の主犯(悪党)は、長洲荘御厨番頭(神田責任者)の教性である[17]。熊谷隆之の推測によると、おそらく第一次事件主犯の教念の息子ではないか、という[18]。
教性は嘉暦3年(1328年)12月13日に京都三条高倉で放火殺害事件を起こしたが、1310年代からの犯罪行為も合わせると「強盗海賊放火殺害等」の重犯行為で東大寺から告発された[17]。そのため、翌・嘉暦4年(1329年)2月11日に六波羅探題が御教書(公式文書)を出し、同年3月24日に教性を捕縛した[17]。しかし下鴨社側が記録所(朝廷の裁判所)に抗議したため、後醍醐天皇は一旦教性に赦免の綸旨(天皇の命令文)を出した[17]。
その後も東大寺と下鴨社(教性)の抗争は訴訟と武力行使の両方で続き、六波羅探題も国御家人を動員しての悪党の取り締まりを図った[17]。
平野将監入道の裏金要求
その後、東大寺は何らかの情報ルートにより、平野将監入道も下鴨社の教性に加勢して長洲荘の略奪を計画しているという情報を事前に察知した(『宝珠院文書』「摂津国猪名荘野地開発田雑掌重申状案 元徳3年(1331年)8月日」)[19]。そこで、「峯僧正坊」という高僧の仲介で、平野に乱入を止めるように申し入れた[19]。
ところが、平野は見返りとして2万疋の銭の裏金を要求してきたので、東大寺側はこれを黙殺した、という[19]。
峯僧正俊雅との繋がり
平野将監入道とコネクションがあった「峯僧正坊」は、おそらく軍記物語『太平記』で後醍醐天皇の側近として元弘の乱の笠置山の戦いにも加わっていたと描かれる「峯僧正春雅(俊雅)」のモデルと思われる[19]。
峯僧正俊雅の実在性は、同時代史料『花園天皇宸記』の元徳4年(1332年)4月10日条で確認することができる[19]。同日記によると、倒幕計画に加わったことを鎌倉幕府に咎められて流刑を宣告された高僧として、聖尋僧正(関白鷹司基忠の息子)や文観と共に「俊雅僧正」の名がある[19]。俊雅は東寺領山城国上桂荘(京都市西京区の桂川右岸)の史料にも現れ、そこから推測すると東寺の真言宗の僧で、花山院家(後醍醐派の公卿家)とも繋がりがあったと思われる[19]。
余談だが、峯僧正俊雅は『太平記』の古態本の一つ「西源院本」では「前帝之御外戚」となっているものの、この記述は誤りである[20]。後醍醐天皇の外戚(母方の祖父)である五辻忠継の孫に、「俊雅」(俊経とも)という人物がいたのは『尊卑分脈』に見える[20]。しかし、『公卿補任』によると、この五辻俊雅という人物は応長元年(1311年)5月22日に薨去しており、それより後の時代に活躍した峯僧正の俊雅とは別人である[20]。
以上のように、平野将監入道は持明院統(後の北朝)寄りの西園寺公宗の家人でありながら、大覚寺統(後の南朝)派の高僧とも親交があるという特異な人物だった[19]。
延福寺乱入事件
元徳2年(1330年)9月25日、教性と平野将監入道らは悪党を率いて延福寺に乱入し、城郭を構えて狼藉を行った(『宝珠院文書』「斎藤某請文案元徳2年10月13日[21])[17]。この延福寺とは、長洲荘内の寺家政所である[2]。悪党の総数は数千人にも及んだという[17]。
六波羅が作成した悪党交名表(悪党リスト)によると、延福寺乱入に参加した名のある将は40人以上にも登り、これは現存文献上では摂津国兵庫関悪党交名表に次ぐ、史上2番目の規模だった[5]。また、数千人という総数も史料上最大規模の悪党事件である[2]。教性・平野らが集めた悪党は、大和国・河内国・摂津国など各地から結集していた[5]。
これに対し、六波羅探題奉行人の斎藤某(基信?)と伊丹左衛門三郎は摂津国御家人を率いて教性・平野を討伐しようとした[22]。しかし御家人たちは六波羅軍のもとにほとんど集まらず、尩弱(おうじゃく、貧乏で弱小)な代官を寄越してきた者も多かった[17]。
吉田定房の温泉旅行

ここで突然、平野事件に後醍醐天皇第一の側近である吉田定房の名前が偶然にも現れる[23]。定房は、後世には大覚寺統(後の南朝)の賢臣「後の三房」の一人にも数えられる、当時の政界の最重要人物の一人である。なお、半年後にこの定房が倒幕計画を幕府に密告したことで元弘の乱が勃発する[23]。
『宝珠院文書』「摂津国猪名荘野地開発田雑掌重申状案 元徳3年(1331年)8月日」によると、このころ、吉田一位(吉田定房)・藤大納言入道(二条為世)・中御門中納言(中御門冬定?)が尼崎へ湯治旅行に来ており、事件を見聞きしていたらしい[23]。また、三人には六波羅探題奉行人の斎藤四郎左衛門(斎藤基夏)兄弟が同行していたという[23]。
熊谷隆之の推測によると、この集まりは、少なくとも表向きは二条派歌壇の親睦会のようなものだったのではないか、という[23]。二条為世は和歌界の主流である二条派を統率する道の宗匠であり、吉田定房と中御門冬定も二条派歌人である[23]。そして、斎藤一族は武家ながら多数の勅撰歌人を輩出した武家歌壇の名門として知られている[23]。
また別の面を見れば、伊賀兼光や小田時知の例のように、大覚寺統関係者が武家要人との密接な交流を行っていたのは周知の事実であり、大覚寺統高官の三人と六波羅関係者との繋がりもその例の一つと思われる[23]。
東大寺・六波羅の対応
10月13日、斎藤・伊丹は召捕失敗を六波羅に報告した(『宝珠院文書』)[17]。
10月25日、六波羅は斎藤・伊丹へ摂津国御家人の指揮を改めて命じた上で、新たに浅間太郎左衛門尉を援軍として起用し、河内国御家人を率いて悪党鎮圧に向かわせた(『宝珠院文書』)[17]。
同日、六波羅は西園寺家に対し、平野一族を出頭させるように要請した(『宝珠院文書』)[17]。
その後の9ヶ月間の長洲荘事件の経過は不明である[17]。後述の東大寺の書状からすると、六波羅は結局、東大寺側に対して、平野将監入道は「不退在京」として西園寺家に仕える重臣だから、悪党とするのは適当ではないというような返信をしたらしい[5]。
元弘の乱と並行する乱暴狼藉
長洲荘悪党第二次事件の訴訟が一向に進まない中、翌年の元徳3年4月29日(1331年6月5日)、重臣・吉田定房が後醍醐天皇の倒幕計画を幕府に密告したことで、後に鎌倉幕府が滅ぶことになる元弘の乱(1331–1333年)が勃発した。この後数ヶ月、後醍醐は幕府から厳しい追及を受けていた。
同年の2月25日(の直後)から9月ごろまでのある時期、「悪党楠兵衛尉」という人物が和泉国若松荘の押妨(略奪)事件を起こした、と鎌倉幕府は主張している(『臨川寺文書』)[24]。この一悪党こそが、(後に『太平記』で英雄の中の英雄と描かれる)楠木正成の史料上の初見である[24]。なお、当地は後醍醐勢力や悪党勢力の領地であり、その勢力に属する正成が「押妨」したという幕府側の資料は不可解である[24]。そのため、元弘の乱に備えるための兵糧所として後醍醐勢力が正成に与えていたところを、幕府側が「悪党の略奪を防ぐため」という名目で後醍醐派の領地を差し押さえたのだと理解される[24]。
これと並行して、同年7月26日、教性一味は再び乱妨事件を起こした(『宝珠院文書』「摂津国猪名荘野地開発田雑掌重申状案 元徳3年(1331年)8月日」)[17]。
東大寺側は再び書状を作成し、8月8日以降のある日に、今回は公家方に提訴した[17]。「西園寺家の重臣の平野が悪党であるはずはない」とする六波羅の返答に対し、東大寺側は、峯僧正坊を通じて事前に平野へ中止を申し入れたところ、多額の裏金を要求してきた悪党だと主張した(#平野将監入道の裏金要求)[19]。また、吉田一位殿(吉田定房)らが事件当時尼崎で湯治旅行をしており、六波羅関係者も同行していたはずだから(#吉田定房の温泉旅行)、事実関係をご確認ありたい、と主張した[23]。
しかし、まさにこの8月中の24日、後醍醐帝は京都を脱出[25]。笠置山の戦いを起こして、元弘の乱の本戦が始まり、9月27日の笠置山陥落まで戦い続けた[25]。そのため、東大寺のこの出訴がどうなったか、結果は不明である[17]。
元弘の乱
天王寺合戦

前章で見たように、教性・平野将監入道の長洲荘悪党第二次事件の後半部と、後醍醐天皇・楠木正成の元弘の乱前半戦は並行して行われていた。しかし、後醍醐は笠置山の戦いで敗れて隠岐島へ流罪となり、正成も赤坂城の戦い(下赤坂城の戦い)で敗退して雲隠れした。
元弘2年/正慶元年末、1年以上の沈黙を破って再挙兵した正成は、矢継ぎ早に紀伊国隅田荘の攻略・赤坂城の奪還を行い、さらに翌年正月には半月程度で和泉と河内南部(あわせて大阪府南部)を征服した(『楠木合戦注文』)[26]。正成の北進を止めるべく、六波羅探題は四天王寺に城郭を構えた[26]。
元弘3年/正慶2年1月19日(ユリウス暦1333年2月4日)、正成は公卿の四条隆貞(護良親王の側近)を旗頭として、天王寺合戦で四天王寺を陥落させることに成功した(『楠木合戦注文』)[27]。
この合戦には平野一族の「平野但馬前司子息四人」も参戦しており、そのうち「四郎」は戦死している(『楠木合戦注文』)。熊谷隆之はこの文を「平野但馬前司と子息4人」と解釈し、将監入道との関係については親族という以上には明言しない[3]。一方、堀内和明は「平野但馬前司の子息4人」と解釈し、長男は平野将監入道本人で、次弟と戦死した四弟については、『宝珠院文書』に見える「次郎蔵人」と「孫四郎」のことであろう、としている[12]。
また、長洲荘悪党第二次事件には、キレ氏(大阪市平野区喜連を本貫とする一族)の木礼成心や渡辺氏(頼光四天王筆頭・渡辺綱を祖とする武士団)の渡辺豊前三郎左衛門入道とその甥の渡辺源次らが参戦していたが、その同族と思われる切判官代(キレ判官代)や渡辺孫六も本合戦に参戦していた[12]。
しかし、六波羅探題は猛将の宇都宮高綱(後の公綱)を四天王寺奪還作戦の将に起用したため、正成らは1月22日(ユリウス暦2月7日)に四天王寺を撤退した(『楠木合戦注文』)[27]。
楠木本城の戦い

東国の鎌倉幕府本軍が京に到着したため、幕府は大軍を後醍醐天皇勢力に差し向けた。後醍醐勢力は、平野将監入道を主将とする楠木本城、楠木正成を主将とする千早城、護良親王(後醍醐皇子)を主将とする吉野城の3手に分かれて幕府軍を迎え撃った。
平野が城主を務めた楠木本城での戦いは、元弘3年/正慶2年2月22日(1333年3月8日)から閏2月1日(3月17日)まで行われた[28]。平野の副将として、楠木舎弟(楠木正季として知られる楠木七郎?)が付けられた[28]。
堀内和明の推測によると、平野が正成の弟を差し置いて、乱の要の一つである楠木本城の主将に選ばれたのは、正成からの畿内屈指の大悪党への敬意と配慮もあるのではないか、という[2][注釈 6]。
『太平記』では千早城の戦いの「脇」の戦いとして軽く触れられるだけの本戦だが、当時の幕府軍は開戦前、こちらを主戦場と見なしており、楠木本城攻めには河内方面から大手総大将・阿蘇治時を配し、千早・吉野攻めには大和方面から搦手大将(副将)大仏高直・紀伊方面から搦手大将(副将)名越宗教を配している[29]。堀内の推測によると、幕府は平野を正成と同格の河内悪党の棟梁格と見なしていたのであろう、という[30]。
なお、合戦の舞台となった「楠木本城」(『楠木合戦注文』)は、旧説では史跡「上赤坂城」(大阪府南河内郡千早赤阪村大字桐山)に比定され、それに伴い、合戦も「上赤坂城の戦い」と呼ばれることが多い。これに対し、2022年、中井均は2019年の発掘調査[31]を元に、いわゆる史跡「下赤坂城」(大阪府南河内郡千早赤阪村東阪)は実際に城だったことがなく、史跡「上赤坂城」もおそらく戦国時代からの遺構ではないか、とした[32]。そして、歴史上の「赤坂城」は(後世に言う下赤坂城も上赤坂城も)楠木氏居館と同じものであり、千早赤阪村立郷土資料館内の「楠公誕生地」にあったのではないか、とした(大阪府南河内郡千早赤阪村大字水分)[32]。これらの説は2024年に生駒孝臣も賛同している[33]。
少数の手勢で幕府本軍に対して多大な損傷を与えた平野だが、最終的には投降した(『楠木合戦注文』『門葉記』)[3]。同時代史料の『楠木合戦注文』の著者は「噂では楠木の弟も城中にいたというが、その真偽についての結論はまだ聞かない」としている[34]。藤田精一の推測によると、落城の際、楠木七郎は城を脱出して兄・正成の千早城の戦いに合流したのではないかという[28]。
敗退こそしたものの、平野の戦いは元弘の乱に大きな影響を与えた[35]。市沢哲の指摘によると、苦戦する千早・赤坂の攻城戦で幕府軍の間に厭戦感情が蔓延し、そこへ倒幕を促す護良親王の令旨(皇族の命令文)などが出回ったことで、水面下では幕府を裏切るという選択肢が現実味を帯びてきたのではないか、という[35]。特に、有力武家・白河結城氏(後の「三木一草」結城親光ら)は、平野の籠城戦によって手負い200人余り・討死70人余りという大損害を受けており(『楠木合戦注文』)、おそらくこの2ヶ月程度後には他の武将に先駆けて後醍醐勢力方に寝返ることになる[35]。
平野将監入道の投降後の消息は不明である[26]。生駒孝臣は、軍記物語『太平記』で描かれるように処刑された可能性もある、としている[26]。熊谷隆之は『太平記』の処刑説を全面的に採用し、もし生き残っていたなら、楠木正成同様、南北朝時代の歴史の表舞台に名前を残していたに違いない、としている[36]。
『太平記』

軍記物語『太平記』(1370年頃)の「西源院本」では「平野将監入道」もしくは「平野入道」の名で現れる[37]。
天王寺合戦を描いた『太平記』「西源院本」第6巻「宇都宮天王寺に寄する事」では登場しない[38]。
『太平記』「西源院本」の第6巻「赤坂の合戦事、并人見本間討死の事」では、赤坂合戦(上赤坂城の戦い)の城主として登場[37]。なお、「西源院本」版では幕府側の大将が(史実の阿蘇治時ではなく)赤橋流北条氏の「赤橋右馬頭」という人物になっている[37]。幕府方に城の水源を絶たれたため、赤橋に助命や本領安堵を約された上で降伏した[37]。しかし、軍奉行の長崎九郎左衛門(長崎師宗?)はこの約束を破棄したため、平野らは六波羅探題へ引き渡され、京都の六条河原で処刑されたと描かれる[37]。
近世の伝承
『太平記』への偽書的注釈書『太平記評判秘伝理尽鈔』(1600年頃)の巻第六では、「平野の左金吾」として登場[39]。同作では矢尾の別当(「楠公八臣」八尾顕幸)の甥とされ、楠正成の養子になったので、正成は数代に渡り矢尾氏と争ってきた係争地を平野に与え、さらに赤坂城の城主に任じたのだという[39]。しかし、今井正之助らによると、平野が矢尾別当顕幸の甥だったり、正成の養子だったりといった記述は、『理尽鈔』以前には見えないという[40]。また、矢尾別当自体、『太平記』に登場せず、(偽書である)『理尽鈔』の中で活躍する武将である、としている[41]。
また、近世の系図である『江戸譜 平野氏系図』によると、諱(本名)は重吉、後に将監と号すという[42]。父は平野重紀で母は八尾別当の娘とされる[42]。平野氏の遠祖は鎮守府将軍の源満政(西暦1000年前後)であり、その子孫の浦野重直の曾孫である重季が平野重季を名乗ったのに始まり、重季の6世孫が平野将監入道であると伝わる[42]。しかし、「八尾別当の甥」というのは、偽書『太平記評判秘伝理尽鈔』で初出の設定[39][40]と同じである。
脚注
注釈
- ↑ 15世紀以降の同地の自称坂上氏後裔の平野氏との関係は不明。
- ↑ 『宝珠院文書』「摂津国猪名荘野地開発田雑掌重申状案 元徳3年(1331年)8月日」に「平野将監入道父子」[1]という一文がある。
- ↑ 日本中世史の「悪党」とは、当時の中央政権・大勢力に反抗的な新興勢力・地域勢力に対する、大勢力側からの蔑称である。便宜上、そう呼ばれた層を指す歴史用語としても用いられる(本人たちが「悪党」と自称していた訳ではない)。用語名のインパクトの強さからか、現代の創作上は悪党の全員が山賊のようなごろつきとして描かれる場合が多いが、これは歴史的事実ではない。悪党を形成した層は多種多様だが、本記事の平野に代表されるように、悪党の幹部たちはその地域の社会における名士・豪族層(有力官人・国御家人やその子弟など)である。
- ↑ なお、鎌倉幕府側の職掌では、六波羅探題に直属する京都の警備兵団「篝屋守護人」を務めた御家人たちも「不退在京」と規定されている(『吾妻鏡』寛元元年(1243年)11月10日条)[6]。
- ↑ 熊谷隆之[7]、堀内和明[8]、生駒孝臣[9]などに基づく。
- ↑ ただし、軍記物語『太平記』の記述を採用して折衷する場合は、正成はあえて当時著名な平野を矢面に立たせたのかもしれない、とも堀内和明は推測している[2]。
出典
- ↑ 熊谷 2007, p. 341.
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