幸州山城の戦い

ウィキペディアから、無料の百科事典
幸州山城の戦い

幸州山城の戦いを描いた図。
戦争:文禄の役
年月日:文禄2年(1593年)2月12日
場所:朝鮮国京畿道
結果:朝鮮軍の勝利[1][2][3][4][5]
交戦勢力
朝鮮国 豊臣政権
指導者・指揮官
全羅道巡察使 権慄
兵使 宣居怡
倡義使 金千鎰
助防将 趙儆
忠清監司 許頊
助防将 裵興立
京畿水使 李薲
僧兵将 処英
水軍 鄭傑
宇喜多秀家

小西行長
石田三成
大谷吉継
増田長盛
前野長康
黒田長政
吉川広家
毛利元康
小早川隆景
中屋善四郎 †
明石与右衛門 †
戸崎彦右衛門尉 †

戦力
約3,000人 約30,000人[6]
損害
不詳 不詳


幸州山城の戦い(こうしゅうさんじょうのたたかい)は、文禄・慶長の役において、1593年(文禄2年)2月12日に、朝鮮半島の漢城西方に位置する、幸州山城(現在の高陽市徳陽区幸州内洞)で行われた戦争。

朝鮮軍が勝利した[1][2][3][4]。韓国では「幸州大捷」と呼ばれ、薩水大捷、亀州大捷、閑山島大捷とともに、朝鮮民族の四大捷の一つとされている[7][8]。

背景

1592年(文禄元年)、豊臣秀吉の出兵により文禄の役が始まると、日本軍は緒戦で占領地を広げた。李氏朝鮮は宗主国の明を頼み、万暦帝は大軍を派遣して、同年末から明の反攻が始まった。1593年(文禄2年)1月8日、李如松は小西行長の守る平壌を奪還し、更に南下した李如松の率いる明軍は、26日からの碧蹄館の戦いで日本軍の迎撃を受けて打ち破られ、臨津江を渡って退却した。

一方、全羅道方面では権慄の率いる朝鮮軍が水原の禿城山城を拠点に守勢を布いていたが、明軍による平壌奪回と南進に呼応して、幸州山城へ進出した。権慄は約4000の兵力のうち、2300を直率して城に籠もる他、残りの約2000を宣居怡に指揮させて、城外の後巻として配置した。

地形

幸州山城は現在の大韓民国京畿道の中西部の高陽市に位置し、当時日本軍が占領していた漢城から約14kmであった。城は南側を漢江、東側を昌陵川に囲まれて独立した徳陽山(125m)にあり、北側と西側が緩斜面となっている。ここには元々城があったわけではなく、権慄の移動により、1ヶ月ほどの期間で要塞化が行われた。

攻城軍

碧蹄館の戦いで明軍を退けた日本諸将は協議を行った。先の碧蹄館の戦いでは積極的な迎撃策を唱え勝利した小早川隆景と立花宗茂は一転して城攻めを渋る中で、逆に籠城策を唱えていた石田・小西などが幸州山城攻略を提唱し、これらが主力となって攻撃することとり陣容は碧蹄館の戦いに参加しなかった大名を中心に、以下の通り編成された。

渡辺刀水は、朝鮮側記録では日本軍は3団に分かれて交代で攻撃してきた、県監の申景禧は3万に過ぎずと報告、吉見家朝鮮日記には3万余とそれぞれ引用をした後に、日本側は1万以下の兵力を動員したと推測している[9]。

経過

朝鮮軍は日本軍に対する集中射撃のために火車を使用した。

1593年(文禄2年)2月12日、日本軍の諸勢約3万人が攻撃を開始した。地形の制約により、日本軍は交代で柵への攻撃を行った[10]。

午前6時ごろ、小西行長軍の攻撃が開始されたが[11]、地形が狭く険しかったため、十分に展開することができなかった。朝鮮軍は高所から矢や石を集中して投下し、西北側の狭い正面では日本軍の各部隊が混乱し、隊列が乱れる状況となった[6]。

城内の朝鮮軍は火車で砲撃を行い、水車石砲で石を発射し、震天雷や銃筒を用い、強弓で応戦した。攻撃していた日本軍は大きな被害を受けて混乱に陥り、小西の第一隊は戦場から退いた[11]。

都体察使の柳成龍は臨津江北岸の東坡にあり、12日の昼に幸州山城が攻撃されていることを知り、付近の朝鮮軍に増援を命じたが、援軍は動かなかった。また、増援命令を受けても救援に動かなかった部隊もあった[9]。

最後の攻撃では、小早川隆景が砦の丸太の杭を焼き払って突破口を開いたものの、朝鮮軍は修復が完了するまで防衛を維持し、日本軍の進軍を阻止し続けた[12]。

西北の緩斜面から攻撃をする日本軍は、吉川広家、毛利元康、戸川達安の三隊が城柵を突破したが、朝鮮軍は高所からの火砲(火車)、弓矢、投石で対抗した。日本軍は更に火攻めを加えて、出城を奪い、朝鮮兵は本城まで退却して抵抗した[9]。

朝鮮軍の矢が尽きかけた頃、李芬が1万本の矢を積んだ補給船を率いて到着し、日没により日本軍が撤退するまで戦闘は継続されたとされる[12]。

全羅道よりの船が40隻あまり進出して、漢江より牽制を行った。吉見元頼の配下では明石与右衛門・中屋善四郎・戸崎彦右衛門が討ち死にしている。日本側の攻撃は終わった[9]。

3度の攻撃(うち1度は攻城塔を使用し、もう1度では石田三成が負傷)の後、宇喜多秀家は外郭の防衛線を突破し内壁に到達したが、自身も負傷して後退を余儀なくされた[12]。

最終的に日本軍は退路を断たれることを懸念し、撤退命令を出した。宇喜多秀家、吉川広家、石田三成、前野長康などの主要な武将は負傷しつつ、夜間に漢陽方面へ撤退した[6]。

また、『日本戦史 朝鮮役』によれば、日本側の死傷者は非常に多かったとされる[6]。

戦闘後

退却する日本軍は戦場に残された遺体を焼き払いながら撤収した。朝鮮軍はその後に残された甲冑や槍などの軍需品を多数回収し、確認された戦利品だけでも二百七十件を超えた。また戦場には二百体以上の遺体が残され、焼失したものも多く、正確な数は把握できないとされる[11]。朝鮮の偵察兵が報告したところによれば、参獲した数は130個だった。[13] 朝鮮の右兵使・金應瑞が小西の副将と会見する目的で日本側の使節に会った際、使節が明らかにしたところによれば、戦死者は約400人だった。 ただし、金應瑞は日本の被害がそれ以上に大きいと答えた。[14]

戦いの後、權慄は軍を率いて坡州山城へ移動し、都元帥の金命元らとともに本城の防衛体制を維持しながら情勢を見守った。その後、權慄が金命元の後任として都元帥に任命された背景には、この戦いにおける戦功が大きく影響したとされる[11]。柳成龍は幸州山城の地形や地勢を調べたうえで、主要街道の要衝に位置し、地形も険しいことから、防御に適していると判断した。そこで、権慄に巡辺使の李薲と兵力を合流させ、この地を拠点として守備し、日本軍の西進を阻止するよう命じた。また、防禦使の高彦伯・李時言や助防将の鄭希玄・朴名賢らを遊兵として編成した[15]。

敗北に加え、査大受が少数の遊撃隊を率いて漢城を急襲し、6,500トン以上の兵糧を焼却したことで、日本軍の状況はさらに窮地に陥った。これにより、日本軍の備蓄食糧は1ヶ月分にも満たない状態となった[16][17]。

明の李如松は撤退途中にこの朝鮮軍の勝利の報を受け、判断を誤ったことを悔やんだと伝えられる[11][18]。

沈惟敬との数回にわたる交渉の末、日本軍は1593年5月17日に漢城を撤退した。李如松と宋応昌が市内に入った際に目撃したのは、「幽霊のような姿」をした民衆であった[19]。

脚注

  1. 1 2 北島万次『日記・記録による日本歴史叢書 近世編 4:朝鮮日々記・高麗日記:秀吉の朝鮮侵略とその歴史的告発』そしえて、1982年、213、235頁。
  2. 1 2 六反田豊「朝鮮中期」『世界歴史体系 朝鮮史 1』山川出版社、2017年、371頁。
  3. 1 2 「日本軍が漢城付近で朝鮮軍に大敗」(矢沢康祐「文禄慶長の役 朝鮮側の対応と戦局の推移」『改訂新版 世界大百科事典』平凡社、コトバンク。2026年5月21日閲覧)。
  4. 1 2 渡邊刀水『碧蹄戦史「附 幸州の戦・蔚山の戦」』明隣堂書店、1938年、81頁。
  5. ↑ “[신병주의역사의창] 1593년 한양 수복과 1950년 서울 수복”. Segye Ilbo. 2016年9月27日. 2026年4月19日閲覧.
  6. 1 2 3 4 日本戦史・朝鮮役 幸州山城の戦い
  7. ↑ “군사들의 사기를 북돋우며 전투를 이끈 권율의 행주대첩”. 지역N문화. 한국문화원연합회. 2026年5月19日閲覧。
  8. ↑ 「大捷」(たいしょう)は大勝と同じ。「捷」は戦いに勝つこと。
  9. 1 2 3 4 渡辺刀水「幸州の戦」(『碧蹄戦史 附幸州の戦・蔚山の戦』)1938年
  10. ↑ Hawley 2005, p. 318.
  11. 1 2 3 4 5 “행주대첩”. 한국민족문화대백과사전. 한국학중앙연구원. 2026年5月20日閲覧。
  12. 1 2 3 Hawley 2005, p. 321.
  13. ↑ https://sillok.history.go.kr/id/kna_12602024_006 『朝鮮宣祖実録』26年(1593)2月24日] 「我軍, 收拾餘尸, 斬獲一百三十餘級」
  14. ↑ https://sillok.history.go.kr/id/kna_12711018_002 『朝鮮宣祖実録』27年(1594)11月18日] 「倭使曰: ‘果於城西二十里之外, 接戰而不勝, 死者多至四百餘人矣。’ 兵使曰: ‘何以四百言之耶? 爾等不能輸去, 而委置路傍者, 收拾而斬之, 猶過四、五百, 燒火之骨, 亦如丘山, 此其只四百餘人乎?」
  15. ↑ 柳成竜『懲毖録 : 4巻 [3]』大和屋伊兵衛、1695年、12頁。doi:10.11501/2599744。2026年10月16日閲覧。
  16. ↑ Hawley 2005, p. 323.
  17. ↑ Swope 2009, p. 167.
  18. ↑ 林, 泰輔『近世朝鮮史』早稲田大学出版部、100頁。doi:10.11501/992546。2026年10月16日閲覧。
  19. ↑ Swope 2009, p. 170.

参考文献

  • Hawley, Samuel (2005), The Imjin War, The Royal Asiatic Society, Korea Branch/UC Berkeley Press, ISBN 89-954424-2-5 
  • Swope, Kenneth M. (2009), A Dragon's Head and a Serpent's Tail: Ming China and the First Great East Asian War, 1592–1598, University of Oklahoma Press