鼎巖津の戦い
| 鼎巖津の戦い | |
|---|---|
| 戦争:文禄の役 | |
| 年月日:文禄元年5月24日(西暦1592年9月6日) | |
| 場所:朝鮮国慶尚道宜寧南江鼎巖津 | |
| 結果:朝鮮側の勝利 | |
| 交戦勢力 | |
| 指導者・指揮官 | |
| 小早川隆景 安国寺恵瓊 |
郭再祐 |
| 戦力 | |
| 約2,000人 | 義兵50余人 |
| 損害 | |
| 不明 | 損失なし |
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鼎巖津の戦い(ていがんしんのたたかい)は、1592年5月24日に初めて義兵が日本軍と交戦して勝利した戦闘である。この戦いにより日本軍の全羅道進出が阻止され、郭再祐の義兵を中心として各地の義兵勢力が結集したとされる。
背景
文禄の役初期、日本軍に大きく押された朝鮮軍は、三大穀倉地帯のうち慶尚道と忠清道を失い、日本軍による全羅道方面への進出を阻止しようとしたものの、不利な状況に置かれていたとされる[1]。
日本軍は全羅道進撃作戦を開始し、小早川隆景が第6番隊の進軍を指揮したとされる。さらに、その配下であった安国寺恵瓊は軍勢を率い、全羅道へ通じる要衝である慶尚道宜寧へ進軍した[1]。
一方、儒生出身であった郭再祐は、家中の奴婢10余名とともに挙兵し、自宅のエノキに太鼓を掛けて打ち鳴らしながら義兵を募ったとされる。近隣の両班や民衆がこれに呼応し、義兵はわずか2日で50余名にまで増加したとされる[2]。
安国寺恵瓊は2,000の兵を率いて宜寧へ進軍した。先鋒隊はすでに鼎巖津へ到着し、南江を渡河する準備を進めていたが、周辺には湿地帯が多く、容易には進めなかったとされる。日本軍の先鋒は案内人を使い、乾いた地面を選んで杭を打ち込み、翌朝に本隊が安全に渡河できるよう備えたとされる[2]。
しかし、郭再祐は、斥候が前日にその情報を急報していたため、その動きを把握していたとされる。郭再祐は夜のうちに屈強な兵を率いて杭を抜き、湿地帯の方向へ移し替えたうえで、義兵を伏兵として配置したとされる[2]。
戦闘経過
夜が明けると、日本軍が押し寄せた。彼らは疑うことなく、杭の立てられた方向へ進軍したが、それが夜のうちに移されていたことには気づいていなかった。結果として、日本軍はぬかるんだ湿地帯へ踏み込み、混乱に陥ったとされる[2]。
このとき、義兵が襲撃を加え、日本軍を撃破したとされる[2]。
しかし、まもなく日本軍の本隊が進撃してくると、郭再祐は少数の兵では正面戦闘は困難と判断し、俊敏な将兵10余名を選抜して敵を誘引させたとされる。彼らには郭再祐と同じように赤い衣服と白馬を用意させ、太鼓を打ち鳴らしながら敵陣の左右を駆け回らせた[2]。
日本軍は、赤衣の将たちを郭再祐本人と思い込み、その後を追撃したとされる。将兵たちは山中や丘陵に現れては姿を消し、各所で攪乱を行った[2]。
その隙を突き、郭再祐は日本軍を狭路へ誘い込み、矢を射かけて奇襲したとされる。日本軍はそれ以上前進できず、退却に転じたことで戦闘は終結したとされる[2]。
その後
この戦闘での敗北により、日本軍第6番隊は全羅道への進撃を断念したとされる。朝鮮では、その後宜寧を「忠義の郷」と呼ぶようになったとされる[1]。
宣祖実録には、「倭賊が敢えて鼎巖津を越えて湖南へ進出できなかったのは、まさに再祐の功績である。再祐が軍を鼎津江右側に駐留させたことで、下道(忠清道・全羅道・慶尚道)の人々は安んじて農事を営むことができた」と記録されている[2]。
なお、日本側の一次資料にはこの戦いの記録は存在しない。