庄蔵(しょうぞう、文化7年(1810年) - 没年不詳)は、江戸時代の水主・漂流民。肥後国飽託郡川尻(現・熊本県熊本市南区)の出身。

生涯

天保6年(1835年)、自らが船頭を務める船で天草を出航し長崎へ向かうが、途中で嵐に遭い、35日間の漂流のすえ船員の寿三郎・熊太郎とともにルソン島へ漂着した[1]。

マニラに移動して2年間過ごしたのち、天保8年(1837年)スペイン船でマカオに移され、同じくアメリカに漂流していた音吉ら3名、さらに肥前島原からの漂流者・力松と合流する。同年、7名は帰国するためにアメリカ商船のモリソン号で浦賀へ向かうが、異国船打払令によって撤退を余儀なくされる(モリソン号事件)。モリソン号はその後薩摩山川港にまわり、庄蔵と寿三郎がいったんは上陸できたものの、結局帰国は許されなかった[1][2]。

マカオに戻った庄蔵と寿三郎は、天保11年(1841年)に日本の家族に向けて手紙を書いている[1]。

1845年前後に香港に移住すると、庄蔵は洗濯業と裁縫業を商い、アメリカ人の妻との間に息子をもうけている[3]。また、マカオでキリスト教に改宗しており、初めて日本語翻訳版聖書を著したとされるカール・ギュツラフの翻訳作業を手伝い、香港にたどり着いた他の日本人漂流者を世話したという[3]。香港の最初の日本人の定住者ではあったが、鎖国の時代のため、日本で暮らす庄蔵の家族への影響を慮ったゆえか、香港での記録は詳しく残されていない[3]。

注釈・出典

  1. 1 2 3 方亮 (2020年). “開港の香港における最初の日本人:漂流民庄蔵・力松に関する考察”. 千葉大学人文公共学研究論集 2025年3月11日閲覧。.
  2. ↑ 門田明 (1992年). “鹿児島とアメリカ : 1837年~1863年接触から薩英戦争まで”. 鹿児島県立短期大学リポジトリ 2025年3月11日閲覧。.
  3. 1 2 3 “200年前の香港に定住した日本人 原田庄蔵の生涯(後編)”. 香港ポスト. 2025年3月11日閲覧。

関連項目

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