建部政宇

ウィキペディアから、無料の百科事典
 
建部政宇
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 正保4年3月17日(1647年4月21日)
死没 正徳5年1月26日(1715年3月1日)
改名 三十郎、政宇
別名 主水、政吉
墓所 京都市北区紫野の大徳寺芳春院
官位 従五位下・内匠頭
幕府 江戸幕府寺社奉行
主君 徳川家綱→綱吉→家宣→家継
藩 播磨林田藩主
氏族 建部氏
父母 父:建部政長、母:不詳
養父:建部政明
兄弟 政勝、政明、政忠、政宇、藤掛永俊正室、小堀正之正室、松平康紀正室、高木正次室、川合宗賀室、大嶋義近正室、人見宜郷室ら
妻 板倉重形の娘
子 政辰、政周、内藤忠種正室、猪飼晴光室、有馬氏倫正室
テンプレートを表示

建部 政宇(たけべ まさのき)は、江戸時代前期から中期にかけての大名。播磨国林田藩の第3代藩主。官位は従五位下・内匠頭。

略歴

初代藩主・建部政長の五男として誕生した。幼名は三十郎、主水。初名は政吉。

寛文9年(1669年)12月の先代藩主で兄の政明の死去により、その養嗣子となって寛文10年(1670年)2月27日に跡を継いだ。同年12月28日に叙任する。禁裏造営奉行や寺社奉行などを務めた。絵画の才能にも優れ、狩野常信の門人となる。

吉良義央の親戚にあたる為、伏見奉行の時には、京都山科に隠棲した大石良雄の動向を警戒している[1]。

正徳5年(1715年)1月26日、69歳で死去し、跡を次男の政周が継いだ。墓所は京都市北区紫野の大徳寺芳春院。

系譜

脚注

  1. ↑ 落合勝信『江赤見聞記』