ちょう こくとう
張国燾
『最新支那要人伝』(1941年)
中国共産党臨時中央委員会主席
任期
1935年10月5日 – 1936年6月6日
中華ソビエト共和国臨時中央政府中央執行委員会副主席
任期
1931年 – 1935年
中国共産党中央政治局委員
任期
中国共産党第六次全国代表大会
任期
1928年 – 1931年
中国共産党中央委員会委員・中央政治局常務委員
任期
中国共産党第五次全国代表大会
任期
1927年 – 1928年
中国共産党中央執行委員会委員・中央農工部主任
任期
中国共産党第四次全国代表大会
任期
1925年 – 1927年
中国共産党中央執行委員会委員・中央組織部長
任期
中国共産党第二次全国代表大会
任期
1922年 – 1925年
中国共産党中央局組織主任
任期
中国共産党第一次全国代表大会
任期
1921年 – 1925年
個人情報
生誕張特立
(1897-11-26) 1897年11月26日
清の旗 清江西省袁州府萍郷県
死没1979年12月5日(1979-12-05)(82歳没)
カナダの旗 カナダ カナダオンタリオ州トロントスカーバロー
国籍清の旗 清(1897年-1912年)
中華民国の旗 中華民国(1912年-1979年)
政党 中国共産党(1921年7月23日-1938年4月18日除名)
中国国民党(1938年4月3日-1979年12月5日)
配偶者
楊子烈(結婚 1924年⁠–⁠1979年)
子供張海威、張湘楚、張渝川(子)
親張鵬霄(父)
出身校北京大学
職業政治家・革命家
兵役経験
所属国 中国共産党
所属組織 紅軍
軍歴1930-1938
張 国燾
各種表記
繁体字: 張 國燾
簡体字: 张 国焘
拼音: Zhāng Guótāo
ラテン字: Chang Kuo-t'ao
和名表記: ちょう こくとう
発音転記: ヂャン グオタオ
英語名: Zhang Guotao
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張 国燾(ちょう こくとう)は、近代中国の政治家、革命家。長征中に造反し、その後共産党を除名された。字は榿陰。別名は特立。号は凱音、克仁。

経歴

党歴

思想

そもそも毛沢東や朱徳と異なり、農村の出身者ではなかった。北京大学在学中は学生運動家ではあったものの、共産主義者ではなかった。五四運動の高まりの中で、急速に民族意識を高めていったと思われるが、当時最先端の革命思想であるマルクス主義に触れたのもこのころであろう。都会派であり、モスクワ在留で中国共産党中央執行委員を務めたのも彼が最初であった(第6回大会、1928年)。このため、毛沢東の主張する「農村で都市を包囲する」中国革命の手法に共感できなかったと思われる。

評価

中国共産党は「建党の功労者」であり、「最初の反逆者」であり、「極左冒険主義者」であり、「右傾修正主義者」と、非常に明快に定義・評価している。しかし、南昌起義の無謀さを指摘したのも張国燾であり、長征の目的地を陝西省延安にすることに異を唱えたのも彼であった。南昌起義に対する彼の態度と、長征に対する彼の態度は、それぞれ相反的である。

南昌起義 について

1927年7月30日、共産党は南昌を軍事的に占領したが、これは何を目的としたものか。当時国民党は北伐の真っ最中であり、ここで武装蜂起しても国民党軍は戦力を南昌に差し向ける余裕はないと踏んだのか。仮に南昌を短期間維持できたとして、その後の展開をどう進めるのか。張国燾は周恩来に対して、これらを論難したのであり、革命そのものを否定したわけではなかった。

結果として8月1日に武装蜂起を起こしたものの3日には早くも撤退することになり、以後周恩来は都市の維持には広大な農村部の共産化・根拠地化は避けて通れないと考え、毛沢東路線に追随する。他方張国燾は、周到な準備と計画があればロシアのような都市からの革命は可能であると考えるようになった。

長征をめぐって

長征開始はもはや避け得ないとして、張国燾は長征そのものには反対していない。しかし北進を主張する党首脳部に対し張は南進・根拠地建設を主張、遵義会議で決定された毛沢東路線の選択および毛沢東の指導権の確立に対しても反対した。この対立は、朱徳・劉伯承らの戦略的観点による南進による根拠地の再確立と任弼時・賀龍らの戦術的観点による北部への転進の論争でもあった。

結果として一部の部隊が南進するものの強力な国民党勢力に阻まれることになり北進に転ずることになるが、張の主張通り一致して南下すれば或いは果たして貴州・広西・広東を掌握できていただろうか疑問は残る。また、その代償として甘粛・陝西を失った可能性は否定できないであろう。

関連項目

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