後桜町天皇の皇位継承

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後桜町天皇の署名

後桜町天皇の皇位継承(ごさくらまちてんのうのこういけいしょう)は、宝暦12年7月27日(1762年9月15日)に第117代天皇として践祚した、2026年現在最後の女性天皇である後桜町天皇の皇位継承について詳述する。

18世紀半ばに在位した桜町天皇と女御(天皇の正妻)である二条舎子の第二皇女・智子内親王(後の後桜町天皇)は、当時、多くの皇女が入室した比丘尼御所への入室は行われず、未婚の皇女のまま宮廷内で成長していく。これは朝廷改革に熱心であった父、桜町天皇の皇位継承問題への対処の一環として、万一の場合、女性天皇として即位することも考慮に入れて宮中に残した可能性が指摘されている。

桜町天皇は若くして智子内親王の弟に当たる遐仁親王(桃園天皇)に譲位し、3年後に没した。若くして父を亡くした桃園天皇は養育責任者が無いまま成長したことで側近層との関係性が強くなり、摂家らと対立するようになった。この天皇並びに天皇側近と摂家との対立は朝廷を揺るがす事件となった宝暦事件を引き起こす要因のひとつとなった。桃園天皇が22歳の若さで急死した後、儲君の英仁親王がいたのにも関わらず、摂家は一致結束し、宮中にあった反対を押し切る形で智子内親王の擁立を実現する。これは宝暦事件後の混乱した朝廷をおさめるには幼い天皇では無理であったこと、英仁親王の健康問題、そして天皇の皇子である英仁親王への直系継承を確実にして、将来的には天皇経験者として皇室代表者の立場で行動できる人材を確保する目的があったのではないかと言われている。

皇位継承後の後桜町天皇は朝議や朝廷の儀式に積極的に参加し、後継者である英仁親王への教育にも熱心に取り組んだ。後桜町天皇は13歳となった英仁親王に譲位し(後桃園天皇)、後桜町は太上天皇となる。しかしその8年後に後桃園天皇は22歳の若さで皇女欣子内親王のみを遺して亡くなり、後桜町上皇の最終決断によって閑院宮家の王子祐宮が儲君に立てられることが決定し、皇位を継承して光格天皇となる。後桜町上皇は光格天皇の教育にも熱心に携わり、光格天皇は自らを支えてくれた後桜町上皇のことを尊重し続けた。このように後桜町天皇は朝廷においてその能力と存在感を示した。

  • 当記事では年齢は当時使用されていた数え年で表記する。

皇位継承の危機と対応

江戸時代の皇位継承は現職の天皇の譲位、皇位継承予定者の受禅といった形で行われるのが通例であった[1]。江戸時代の皇室は経済面で幕府にほぼ全面的に依存しており、重要事項の決定は基本的に幕府の承認のもと行われていた。皇嗣の決定、皇位継承についてもやはり基本的に幕府の事前承認を受けて行われていたが[注釈 1]幕府は具体的な人選への介入を行わず、朝廷側の決定を承認していた[5][6]。その一方で、譲位の意向を示した天皇の承認要請を拒否するケースはしばしばあり、江戸時代中期頃まではおおむね天皇が30代半ばに達した段階で幕府は譲位を承認していた。江戸期の天皇の職務が朝廷の政務の他、宮中の年中行事、和歌や管弦といった学芸に関する催しの主催、宮中祭祀の主催と多岐にわたり、その上で、天皇としての聖性を保つためのタブーの存在など、心身ともに消耗が激しいため30代半ばでの譲位が通例化したと考えられている[7]。

また江戸時代の皇位継承は、先代の天皇から実子の親王に継承する平常行われる皇位継承とは異なるパターンが多く、安定性に欠けていた[8]。中でも皇位継承問題は近世後期の朝廷にとって大きな課題のひとつとなった[9]。18世紀の半ばに在位した桜町天皇以降、天皇家では生まれる皇子女、そして成人するまで成長した皇族の数が大きく減少し、平常通りの皇位継承が困難となるケースが発生するようになった[注釈 2][11]。また桜町天皇以降、若くして亡くなる天皇が続き、皇位継承の危機感はより高まった[12]。皇位継承対象者となる親王が少なくなる中で、内親王、世襲親王家が皇位継承に大きな役割を果たす事態が起こった。女性天皇後桜町天皇の即位もそのような事例のひとつであった[11]。

桜町天皇の改革と皇位継承問題

桜町天皇

桜町天皇は在位中から朝廷儀式の復興や官位制度の改革などの朝廷改革に意欲的に取り組んだ[13][14]。桜町天皇の改革は朝廷における天皇の発言権強化を目指したものであった[15][16]。改革には姉小路実武の娘である姉小路定子が生んだ天皇の皇子、遐仁親王について、正妻である二条舎子を法制上の実母とする措置があった。なお遐仁親王は桜町天皇唯一の皇子であった[17]。もともと天皇の正妻は正妻所生ではない皇位継承予定者の養母となるのが慣例であった。桜町天皇の措置は法制上の実母となることによって、嫡出子ではない皇位継承予定者の権威を高め、皇位継承予定者の実母となることによって天皇正妻としての立場も強化して、天皇家の権威をより高めることをもくろんでいた[14][13]。また天皇実母の外戚が力を持ち、政務に介入してくることを防ぐ意味合いもあった[18][19]。桜町天皇の皇嗣に定められた遐仁親王は、法制上の実母となった二条舎子と同居するようになった。桜町天皇期以降、皇嗣は天皇とその正配により養育される形となる[20][21]。

二条舎子は女御から元文5年(1740年)5月には准三宮となり、延享4年(1747年)5月、桜町天皇が譲位して桃園天皇が践祚すると皇太后となった[注釈 3][17]。天皇の正配である女性が、夫の天皇が譲位ないし没後、皇太后となることは二条舎子以降定着し、これは天皇の母、すなわち国母としての立場が重視されるようになったことを示している[23][13]。二条舎子は夫、桜町上皇が寛延3年(1750年)4月に31歳の若さで亡くなると、6月には青綺門院の院号が宣下され、女院となった[24]。青綺門院は桜町上皇が亡くなった時点でまだ10歳であった桃園天皇を支え、院の職務を一部代行する形で朝廷の重要事に関与していくことになった[13][25][26]。

桜町天皇の皇位継承構想

閑院宮直仁親王

皇位継承権を持つ親王の数が減少する中で、万一の時の皇位継承候補者としての親王家と内親王に対する処遇が近世朝廷において課題の一つとなった[11]。桜町上皇は妻の二条舎子に皇位継承に関しての遺言を遺していた。遺言では桃園天皇に皇子が誕生する前に万一のことがあった場合、閑院宮直仁親王に皇位を継げるよう指示していた[27][28]。また桜町上皇は皇位継承者を確保することを目的とした親王家に関する構想も二条舎子に言い遺していた[29][30]。桜町上皇の構想は、桃園天皇に第二皇子が誕生した場合、第二皇子に一代限りの宮家を創立させ、第二皇子に皇子が誕生した場合、既存の世襲親王家(伏見宮、桂宮、有栖川宮、閑院宮)の養子として親王家を継承するプランであった[29][30]。桜町上皇は親王家の承継に関しての覚書も遺しており、親王家に後継者が無い場合、他の親王家からの養子は認めず天皇の皇子に継げるべきであるとして、もし養子となりうる皇子が不在の場合、絶家させるとの意向を示していた[31]。

桜町上皇の皇位継承構想は桃園天皇に万一のことがあった場合、血縁的に最も近い閑院宮家から皇位継承者を選ぶこととして[27]、また世襲親王家と天皇家の本家筋との血縁の近さを保ち続けることを図ったものであった[31]。桜町上皇の遺志は二条舎子から近臣、武家伝奏、そして桃園天皇に共有され、宝暦9年(1759年)に伏見宮邦忠親王が後継者を儲けることなく死去した際、桃園天皇の第二皇子の貞行親王が後継者となった。これは親王家の後継者が絶えた場合、天皇との血縁が近い皇子に相続させるという桜町上皇の構想に則ったものであった[注釈 4][34]。

智子内親王の処遇

後に後桜町天皇となる智子内親王は元文5年(1740年)、桜町天皇と天皇の正配である二条舎子の第二皇女として誕生した[注釈 5][36]。江戸時代の皇女は比丘尼御所に入室する場合は内親王宣下は行われず、他家に降嫁する場合には内親王宣下を経て降嫁となるのが通例であった[37]。例えば桜町天皇の父、中御門天皇には5名の皇女がいたが、5名のうち閑院宮典仁親王に降嫁した成子内親王以外の4名の皇女は、内親王宣下を受けることなく比丘尼御所に入室している[38]。

幼少時の智子内親王には幕府側から将軍世子であった徳川家治との婚姻が持ちかけられた[39][40]。発案者は徳川吉宗ないし徳川家重であると見られている[39]。この提案を桜町天皇は智子内親王はどこにも出さないとして拒否し、代わりに桜町天皇との血縁関係が比較的近い、閑院宮直仁親王の倫子女王が選ばれた[39][41]。智子内親王は父、桜町上皇が亡くなる直前の寛延3年(1750年)3月に内親王宣下を受け、比丘尼御所への入室の可能性がなくなった。また桜町上皇は智子内親王のために宮中に御殿の造営を指示しており、上皇没後の寛延3年9月から造営が開始された。その上で幕府側に智子内親王のための御料進献を要請し、認められている[42]。桜町上皇は将軍家との縁組を断って比丘尼御所入室の可能性も潰し、宮中に御殿を建てて経済的基盤確保のために御料進献まで手配している。これらのことから、桜町上皇は明らかに、智子内親王を宮中にとどめ置く措置を講じていた[43]。桜町上皇が娘である智子内親王の将来のためにどのような構想を抱いていたのかははっきりとしないが、親王家との関係性強化を目的とした降嫁とともに、桃園天皇に万一のことがあった場合、皇族数の著しい減少という現実を前に、明正天皇という女性天皇の先例とともに、東山天皇が自身の皇女である秋子内親王への譲位を求めたこともあって、内親王が天皇になることが認められていた状況下、智子内親王の皇位継承という事態も想定していたのではないかとの推測がある[44]。

朝廷の混乱

桃園天皇

桜町上皇の没後、朝廷にはまだ幼少であった桃園天皇が残された上皇不在の状況となった。しかし同時期、天皇を支える摂家(近衛家、鷹司家、九条家、二条家、一条家)当主もまた、相次いで若くして亡くなっていた。結果として朝廷内の統制力が緩み、桃園天皇在位中に朝廷政治上の大きなトラブルが起こることになった[19]。桜町天皇による改革を主に補佐したのが一条兼香、一条道香父子であった。桜町天皇が朝廷のトップであった時期、摂家は一条家以外、当主の夭折などで若年者ばかりであり、必然的に天皇と兼香、道香父子との結びつきが強まっていた[13][14]。一条家以外の摂家が弱体化していた中で朝廷運営で一条家に権限が集中する形になった。同時に、他の摂家からの不満も高まっていた[45][46]。

10歳で父を亡くした桃園天皇の養育も大きな課題となった。まだ幼い天皇の養育を担うため、武家伝奏は桃園天皇と青綺門院を同居させることを提案した[26]。桜町天皇以前ならば天皇の生みの親、姉小路定子の実家である姉小路家が幼少期の天皇の養育面を担うことが出来た。しかし、青綺門院が法制上の実母となって姉小路家と天皇との関係性が切り離されたため、姉小路家が果たせる役割は低下していた[47]。この提案は摂政の一条道香から、天皇と母の同居には御所の新築・改造が必要となるが、天皇が成長して女御を迎える時点で別居することになると反対され、実現しなかった[26]。一方、一条道香は姉小路定子を准三宮として正式な外戚として扱うよう提案した。だがこの提案は、桜町天皇の遺志に反すると青綺門院から反対され、こちらも実現しなかった[48]。結局、責任を持って桃園天皇を養育する人物が不在となってしまった[49]。桃園天皇の養育は、天皇の側近である議奏と近習が担う形となった。しかし議奏や近習は、上皇や女院、実母の一族とは異なり、天皇の行動を制御、牽制できる存在ではなかった[49]。

不安定な朝廷の中で、まず寛延3年(1750年)9月、官位御定問題が起きる。これは摂政一条道香が、桜町上皇の遺詔と桃園天皇の叡慮であるとして、事実上独断で官位制度の改革を発表したことに端を発するトラブルであった。もともと青綺門院としては政治上の問題まで介入する意志はなかった。しかし改革案の内容的にとても桜町上皇の遺詔によるものとは思えず、青綺門院は武家伝奏を呼び出して詳細を確認し、摂家当主による協議を求めるといった政治介入に踏み切った。青綺門院以外にも二条家当主の二条宗基、九条家の当主である九条尚実は一条道香の措置に反発した[50]。摂家当主による協議は一条家の摂政道香と、近衛家当主の左大臣近衛内前の2名で行われ、協議結果は武家伝奏を通じて青綺門院に伝えられた。青綺門院は今回の決定が桜町上皇の遺詔として発表されたことに対しての強い不信感を抱きつつも、既にして桃園天皇名で出された決定を覆すのも問題であるとしてやむなく了承した。ただし亡き上皇に関する事項は自分に相談すること、政策決定前には他の摂家メンバーらときちんと事前協議を行うこと、そして桃園天皇の幼少期であるうちは万時無難な対応を行うことの3点を希望した[注釈 6][52]。

宝暦事件

上皇や女院、実母の一族といった若い天皇の行動を身近で制約する人物の不在は、必然的に天皇側近である近習と天皇との距離感の接近をもたらした。そのような中で宝暦事件が発生する[49]。宝暦6年(1756年)、桃園天皇は近習の徳大寺公城から垂加神道を竹内式部から学ぶよう勧められ、天皇は竹内から神道についての講義を受けるようになった[53]。竹内の学説を信奉する桃園天皇と天皇側近である近習の言動に対し、関白ら朝廷の重臣らは危機感を持った。摂家の当主たちは桃園天皇に竹内からの講義などを止めるよう諫言を繰り返したが、天皇はなかなか納得しなかった。天皇とその側近と摂家との対立激化を案じた青綺門院は、天皇を諫める役割を担った。しかしそれでも天皇は進講の再開を求め続け、天皇を擁した側近グループと摂家との対立は激化していった[54][53]。実際問題としてまだ若い桃園天皇にとって、過激化していく側近たちの動きを抑えることは困難であったと考えられる[55]。

実のところ桃園天皇が垂加神道を竹内式部らから学ぶことについての評価は、摂家内で温度差があった[注釈 7]垂加神道の講義自体に強い拒否感を持っていた一条道香とは異なり、関白の近衛内前は天皇との融和を模索していた[57]。天皇側近の排除という強硬策を訴える一条道香の思い通りになかなか事態は進展しなかったが[58]、宝暦8年(1758年)7月半ばになって、桃園天皇の側近で垂加神道の信奉派であった勘解由小路資望が天皇に提出し、天皇本人が御座所に隠していた密書を、天皇の側室の一人であった梅園久子が他の女性が天皇に宛てた恋文と勘違いして発見したことによって事態が大きく動いた[59]。密書は天皇とその側近が政務及び諸芸など朝廷内の催しをサポタージュして朝廷全体を機能不全状態に陥れることによって、摂家を朝廷の意思決定の場から排除するといった、事実上、天皇とその側近による宮廷クーデターを画策する内容であった[60]。梅園久子は密書を書き写して青綺門院に提出し、内容を把握した青綺門院は関白の近衛内前に密書の写しを転送した。近衛内前は一条道香ら、他の摂家当主にも密書の内容を共有する[59]。これまで必ずしも足並みが揃っていなかった摂家も宮廷クーデター計画を把握して態度を硬化させ、一致団結して天皇側近の垂加神道派の排除を決断し、宝暦8年7月24日(1758年8月27日)、摂家当主一同は桃園天皇に面会し、密書の写しを示しつつ問題ある側近たちの追放を迫り、天皇は不満を感じながらも追放に同意した[61][62]。

宝暦事件の影響は天皇側近の追放後も尾を引いた。事件関係者の処分は宝暦10年(1760年)の年末まで続けられ、大量処分の影響で堂上家では相続の問題が発生したり、新たな天皇側近による問題も発生した。事件による混乱が続く中で、朝廷は新たな難題に直面することになった[63]。

後桜町天皇の践祚

桃園天皇の急死

桃園天皇は宝暦12年7月8日(1762年8月27日)頃から、体にむくみが現れた[3]。7月8日まで天皇は日記を書いており、それまでの健康状態は大きな問題は見られなかったと考えられる[64]。7月10日、宮中での祝い事を前に行水を行ったところ天皇の体調は悪化し、女官らは祝い事への出席を取りやめるよう勧めたのにもかかわらず、天皇は出席を強行した[3]。体調を考慮して祝い事は簡略化して行われたが、終了後に天皇は倒れた[65][66]。

病状が急速に悪化した天皇の診察・治療は宮中の医師では手に負えなくなり、7月12日早朝、中山玄亭という医師が招かれ急遽天皇を診察した。中山玄亭の診察まで天皇の病名すらはっきりとしていなかった。診察終了後、中山玄亭は摂政の近衛内前ら主要な廷臣、武家伝奏、天皇側近の議奏らに天皇の病状説明を行い、病名は脚気であり、むくみがひどく病状は極めて悪く、治癒の見込みは薄いと答えた。関白らはこのときまで天皇の命が危険であるとは認識していなかったとみられ、病状説明に驚愕した[67]。桃園天皇は宝暦12年7月12日(1762年8月31日)の午後2時頃亡くなった。死因は脚気衝心であったとみられる[68]。

摂家による智子内親王擁立と青綺門院の抵抗

急死した桃園天皇は22歳であり、正配の一条富子との間に5歳の英仁親王[69]、伏見宮家を継承した3歳の貞行親王がいた[70]。また桜町天皇と二条舎子の二女で、桃園天皇の姉である智子内親王は23歳であった[13]。

死の直前、桃園天皇は関白の近衛内前、武家伝奏ら廷臣に対して在位中の勤労をねぎらう言葉を遺したと伝えられているが、今後の対応についての指示があったのかどうかははっきりとしない[71]。しかし天皇死去の直後、天皇の「自分が亡くなった後は、皇太姉の智子内親王が皇位を継ぐように」との遺詔について、摂家の近衛内前、前関白一条道香、左大臣九条尚実、右大臣鷹司輔平、内大臣九条道前が協議を行った[72]。協議の結果、本来的には桃園天皇の第一皇子である英仁親王が皇位を継ぐべきであるが、親王はまだ幼稚であるため、明正天皇が即位した例と、後光明天皇が亡くなった後、皇位継承者の高貴宮が幼かったため後西天皇が中継ぎとして即位した例を挙げて、英仁親王が10歳になるまで故天皇の姉である智子内親王が天皇を務めること、そして皇位継承については幕府の承諾が必要となるため天皇の死を伏せることで合意した[73]。

協議終了後、摂家のメンバーはただちに青綺門院のところに向かい、協議の結果について説明した。しかし桃園天皇の遺詔とされる「自分が亡くなった後は、皇太姉の智子内親王が皇位を継ぐように」との発言と、皇位継承者の高貴宮が幼かったため後西天皇が中継ぎとして即位した例については青綺門院には告げず、英仁親王はいまだ幼稚であるため、明正天皇即位の例に則って智子内親王を後継者とすべきであると申し入れた[74]。後西天皇の例を省いた理由としては、歴史学者の野村玄は、後光明天皇から霊元天皇への中継ぎとして即位する以前、後西天皇は世襲親王家である高松宮家を継承しており、桜町天皇の遺志を良く知る青綺門院との話し合いの中で、桃園天皇に万一のことがあったら閑院宮直仁親王に皇位を継げるようにとの遺言を盾に、世襲親王家、具体的には閑院宮家ないし伏見宮家を継承した貞行親王を天皇として迎え入れるべきとの議論に発展することを恐れたとしている[75]。

摂家の智子内親王擁立案に対し、青綺門院は英仁親王という後継者がいて、幼稚であっても践祚には問題が無いはずだと強く反対した。皇太姉の智子内親王を皇位継承者に指名したいわゆる遺詔というものは実際には無く、智子内親王擁立案は摂家による案であると判断した青綺門院は、英仁親王の践祚が筋であると強く主張し続けた[76]。強硬に反対意見を述べ続ける青綺門院に対して、関白の近衛内前は「もし智子内親王擁立案にお決めにならなければ、自分(内前)はともかくとして諸臣一同、朝晩不安が絶えることがありません。またこの案は英仁親王のためにも良い案です」。と、智子内親王擁立案を強く主張した。話し合いの結果、最終的に青綺門院は摂家メンバーの智子内親王擁立案を了承した[76]。青綺門院の承諾を得て朝廷の方針は智子内親王に皇位を継承することに決まった。この決定に対して武家伝奏の広橋兼胤が「今回の決定はまるで幼帝が即位した例が無かったかのようにしているが、幼帝が即位した例は数多くある反面、女帝の即位例は数少なく、今回のような事情だったのだろうか?」といった見解を述べていることからも、武家伝奏にも事後の通知であったことがわかり、決定が摂家メンバーのみで行われたことを示唆している[77][78]。

幕府の了承

関白近衛内前は桃園天皇の近臣たちと亡くなった天皇のそばで対面した。近臣たちは関白から、死去の事実を秘すること、天皇が生きているかのように過ごすことを命じられた[79]。桃園天皇は病身だが健在であるとされ、女官たちは通常通り天皇の食べる食事を配膳し、医師は診察を行って報告書である「御容体書」を提出し、門跡寺院の門主たちは病気平癒の加持祈祷を行い、近臣たちは毎日参内してご機嫌伺いを行うなど、天皇は存命かつ病気療養中であると装った[68]。しかし実際には7月16日には天皇の遺体の入棺が行われていた[68]。天皇の近臣たちは天皇の死を知りながら在世偽装工作に加担させられている無念さを吐露している日記が残っている[68]。

桃園天皇の死去が隠されたのは皇位継承には幕府の承諾が必要であり、了承を得るまで日時を要したためであった[79]。青綺門院の了承を取りつけた後、関白近衛内前ら摂家一同と武家伝奏は京都所司代阿部正右を宮中に招き、関白から桃園天皇から万一の場合、智子内親王を践祚させるとの叡慮が示され、一同協議の上、もっともであると合意し、青綺門院の了承も得られ、一同、智子内親王の践祚が決まることを願っている旨の書状と、先例として明正天皇、後西天皇即位の事例についての書状、そして智子内親王が践祚する場合、女性天皇となるため現職の関白は摂政となることについて了承を求める書状の、計3通の書状を阿部正右に渡した。書状を受け取った阿部は、早急に江戸に送付する旨を回答し、書状はすぐに飛脚で江戸に運ばれた[79][80]。

江戸からの返答は7月20日に届けられた。7月20日午前10時頃、京都所司代阿部正右は宮中に出向き、関白近衛内前ら摂家一同と面会し、将軍徳川家治が智子内親王の践祚、関白を摂政とすることについて天皇の叡慮にお任せするとの意向を示した老中奉書を渡した[79][81]。幕府の意向を受けて、まず関白近衛内前は生存中とされている桃園天皇に報告を行い、左大臣九条尚実は青綺門院への報告を行うなど、関白一同は手分けして各皇族らに伝えた。武家伝奏と議奏には摂家一同から伝えられ、その後、武家伝奏から桃園天皇の叡慮として天皇に万一のことがあった場合、智子内親王が践祚する旨を公家一同に公表した[82]。

7月21日、病気療養の甲斐なく桃園天皇が亡くなられ、智子内親王が践祚する予定であることが公表された。同日、関白近衛内前は宮中で京都所司代阿部正右に対し、桃園天皇が亡くなられ、智子内親王が践祚することを幕府に伝えるよう要請した[79]。7月24日には江戸に桃園天皇の死去と智子内親王が践祚することが伝えられている[82]。

後桜町天皇践祚

幕府への了承を求めている間、智子内親王の践祚の準備が進められていた。7月14日と翌15日、関白近衛内前は践祚の先例調査を指示していた[83]。7月20日には智子内親王はひそかに住まいの御所から宮中に移った[84]。桃園天皇死去の公表後、関白らは5、6日のうちに智子内親王の践祚を行おうと準備を急いだ[83]。宝暦12年7月27日(1762年9月15日)、清涼殿に桃園天皇の遺体が安置されているため、小御所で智子内親王の践祚が行なわれて智子内親王は天皇となった[79]。践祚した後桜町天皇はこれまでのところ最後の女性天皇である[79]。

なお践祚当日、世襲親王家の当主らは参内して皇位を継いだばかりの後桜町天皇に祝意を述べるべく、面会を希望したが摂家の意向により断られた。摂家が新天皇と世襲親王家の当主らとの面会を断った理由について、野村玄は英仁親王に皇位を継げない事情がある場合、世襲親王家から皇位継承者を選定するのが筋であったのに、女性天皇を即位させるというイレギュラーな措置を強行したことにあるとしている[85]。

くすぶる反対意見

桃園天皇の後継者が姉の智子内親王に決まったことは公家社会に大きな波紋を呼んだ。正親町公明は日記に、天皇の決定ならば従うべきであるものの、決定に対して様々な意見が出されていたと記し[78]、野宮定和(定晴)も日記に様々な噂が飛び交っていたと伝えている[78]。公家たちの疑念は、まだ5歳ではあるものの英仁親王というれっきとした後継者がいるのにもかかわらず、故天皇の姉である智子内親王を後継者とするという異例な措置にあった[78]。前述のように武家伝奏の広橋兼胤は決定に対して困惑を隠せなかった。野宮定和は古代の女性天皇の例は参考にはならず、明正天皇という前例も末世の例であって参考にはならず、女性天皇は皇位継承の正道を乱すと非難し、そもそも英仁親王、貞行親王という故天皇のれっきとした皇子がありながら、弟から姉に皇位継承を行うことは末代まで批判されるだろうし、臣下として嘆かねば禽獣と何ら変わらないと主張した[注釈 8][88]。また正親町公明は実際には7月12日に亡くなっていたのにもかかわらず、21日に死去したと公表されたのは「東夷の飛脚を待つ」ためであると日記に記しており、皇位継承に際して幕府の承諾を得る必要がある状況も批判の対象となった[89][90]。

後桜町天皇擁立の理由

宝暦事件という朝廷を揺るがした大事件を協力して解決に導いた摂家は、桃園天皇の急死という朝廷の危機に際しても関白近衛内前を中心としてその協力体制を維持し、後桜町天皇の皇位継承という形で難局を乗り切った[83][91]。しかし摂家がなぜ智子内親王の擁立に踏み切ったのか、その理由ははっきりとはしない。関白近衛内前が青綺門院を説得した、智子内親王が践祚しなければ諸臣一同の不安が尽きず、英仁親王のためにも良い案であるとの言葉も、諸臣一同の不安とはいったい何なのか、どうして英仁親王のために良いのかについての説明がない[76]。

歴史学者の久保貴子は宝暦事件の影響を指摘している。久保は事件が起きてからまだ日も浅く、朝廷内の動揺も収まっていない状態で摂家のメンバーたちは対応に追われていて、後継者の英仁親王のことに目が行き届かない中で桃園天皇が急死してしまい、幼少で英仁親王が即位したら父の桃園天皇のように側近の台頭を招き、再び宝暦事件のような朝廷を揺るがす事件が起きることを恐れたため、体制を立て直すまでの時間稼ぎのために中継ぎとして智子内親王の皇位継承を提案したと考えている[92]。また米田雄介も、天皇と摂家との対立にまで発展した宝暦事件の後であり、幼い天皇を摂政に後見させることに不安があったのではと指摘している[注釈 9][93]。これら宝暦事件主因説に対して野村玄は、桃園天皇の死去は宝暦8年(1758年)の天皇側近の追放から4年後であり、宝暦事件の影響であった可能性は低いと考えている[94]。この野村の意見に対して歴史学者の林大樹は、宝暦事件は天皇側近の追放後も影響が続いて朝廷の混乱は収まっておらず、幼い天皇では混乱した朝廷の安定化は難しいと判断したのではないかと指摘している[95]。

後継者の英仁親王の健康問題が、宝暦12年(1762年)の時点での皇位継承の見送りの原因ではないかとの説もある。英仁親王は幼い頃から病弱であり、左目が見えず、腹部からの出血もあった。藤田覚は摂家のメンバーは病弱な英仁親王の成長を危ぶみ、10歳くらいまで様子を見たいと考え、中継ぎとして智子内親王を擁立することにしたと考えている[87]。野村玄も幼い英仁親王が無事に成長できるのかを不安視した摂家のメンバーたちは、ある程度の年齢になるまで様子を見るべきであると考えて英仁親王の即位を見送ったとしている[96]。また皇位継承者の養育問題が絡んでいたのではないかとの説もある。歴史学者の石田俊は、父の桜町天皇を早くに亡くした桃園天皇は、養育責任者がいない状態で成長した結果として天皇と側近との関係性が深まり、宝暦事件を引き起こす原因のひとつとなったため、まだ幼い英仁親王と母の一条富子との同居を継続して養育して、皇位継承者を健全に育てるために智子内親王を中継ぎとして擁立したのではないかと推測している[97]。

朝廷のシステムを円滑に運営していくために智子内親王を皇位継承者に選んだという考え方もある。野村玄は前述の英仁親王が無事成長できるか不安であったという理由とともに、智子内親王が即位して天皇となり、譲位をすれば確実に天皇経験者である太上天皇となるため、英仁親王に皇位継承者が出来ないまま万一のことがあったとしても天皇家を代表する発言権者が確保できる上に、当時、皇位継承で一番重要視された天皇の子である英仁親王への直系継承を円滑に行うためには、世襲親王家から皇位継承者を選ぶのは望ましくないため、智子内親王を皇位継承者に擁立したと考えている[98]。林大樹は、桜町天皇により天皇の権限が強化され、天皇経験者の早世が続いて院の不在が通例化する中で、天皇が摂政関白の補佐を受けつつ朝廷全体を統括していく体制が固められた。しかし幼少の天皇ではそのような体制を動かすことは不可能である。そのため、成人女性である智子内親王を皇位継承者としたのではないかとしている[95]。また林は、天皇の権限が強化された中では、側近の暴走を止めにくい未成年よりも決定権を持つ成人が天皇となることが望ましく、また女性天皇は摂政を置くことになっていたため摂家にとってコントロールしやすいため、摂家は成人女性の智子内親王を擁立したのでないかと考察している[15]。

践祚後の後桜町天皇

即位式と大嘗会

後桜町天皇の即位時に使用された宝冠

宝暦13年(1763年)2月、後桜町天皇の即位式用の諸道具の作成が命じられた。即位式用の諸道具は宮中の倉庫に保管されており、補修して利用するものも多かったが、女性天皇の即位であったこともあり、新調が必要となるものもあった[99]。宝暦13年11月27日(1763年12月31日)前夜降った雪で一面の雪景色の中、後桜町天皇の即位式が行われた[99]。即位式の装束は江戸時代の男性天皇のものと基本的には変わりがない唐風の衣装であった。装束には通常の男性天皇の即位時と異なる面もあって、男性天皇が文様がついた赤色であったのに対し、後桜町天皇は白の無地の唐風の礼服を纏い、男性天皇が被る冕冠ではなくて、天皇を象徴する日輪と八咫烏が飾られた宝冠を被って即位式に臨んだ[100]。なお即位式当日、紫宸殿に白いカラスがとまっていることが目撃された。白いカラスは延喜式を参照して瑞祥であると判断されて目撃者は褒賞として位階を授けられた[101][21]。これは後桜町天皇即位に対する反対意見など、不信感が渦巻いていた朝廷内の雰囲気を払しょくし、後桜町天皇の正統性を示そうとしたのではないかとの推測がある[21]。後桜町天皇は宝暦13年末に、即位式が無事終了したことと白いカラスの瑞祥が現れたことを祝い、摂政以下近臣を招いて祝宴を行ったが[102]、公家の一人は、噂によれば実際に現れたのは白い羽が混じったカラスであって、これを白いカラスと言いくるめるとはいかがなものかとの批判を書きこのしている[21]。

摂政近衛内前は即位式に引き続いて大嘗祭を行うように提案した。これに対し後桜町天皇は、即位式の翌年に行いたいとの希望を示し、幕府の了承も得て即位式翌年の明和元年挙行と決定した[103]。大嘗祭の準備は明和元年(1764年)8月から先例の確認等が進められるなど本格化し[104]、明和元年(1764年)11月の卯の日である8日(1764年11月30日)、後桜町天皇は大嘗祭を挙行した[105][89]。女性天皇による大嘗祭は、奈良時代の称徳天皇の重祚時に行われて以来、約千年ぶりのことであった[89]。

天皇、上皇時代の活躍

後桜町天皇は院が不在の朝廷で、天皇の職務に積極的に取り組んでいく[106]。朝議や朝廷の儀式に積極的に参加し[107]、政務はおおむね摂政が担っていたが、重要事項の決定時に後桜町天皇自らの考え方を示して、摂政に再考を要請する場面もあった[106]。また和歌への精進も怠らず[106]、後継者である英仁親王の教育にも熱心に取り組んだ[106][108]。

明和7年11月24日(1771年1月9日)、後桜町天皇は13歳になった甥の英仁親王に譲位した[109][84]。当初、後桜町天皇は英仁親王が10歳くらいになるまで中継ぎとしての在位が想定されていた。予定より遅れて13歳になった時点の譲位となった理由ははっきりとしないが、英仁親王の健康問題が影響したのではないかとの推測がある[84]。

後桜町天皇から受禅した後桃園天皇は病弱であり、安永8年10月29日(1779年12月16日)、22歳の若さで亡くなった。後桃園天皇には生後10か月の皇女、欣子内親王しか皇子女がおらず、皇室は皇位継承を巡る危機に陥った[110]。皇位継承者として閑院宮典仁親王の王子、祐宮が選ばれ、唯一の天皇経験者として事実上の天皇家の家長の役割を担った後桜町上皇の、「祐宮然るべし」との意向で最終決定に至った[111][112][113]。後桜町上皇は帝王学を学ぶことなく、傍系の閑院宮家から9歳で皇位を継いだ光格天皇の教育に熱心に取り組んだ[108][111]。光格天皇もまた自らを支えてくれた後桜町上皇のことを尊重し続けた[114]。このように後桜町天皇は朝廷においてその能力と存在感を示していった[6]。

脚注

注釈

  1. ↑ 江戸時代を通じて幕府の事前承認無くして行われた例としては、後水尾天皇の譲位に伴う明正天皇の受禅[2]。孝明天皇没後の明治天皇の践祚がある[3]。明治天皇の践祚に関しては、嘉永4年(1851年)に朝廷と幕府との間で結ばれた、皇太子が践祚する場合は幕府の事前承認を省略できるという取り決めによるとの見方もある[4]。
  2. ↑ 歴史学者の林大樹は江戸中期以降、天皇の正配が生む嫡出子を後継者とする意識が強まって側室からの出生が歓迎されなくなり。その上、天皇の側室の条件が堂上家出身に限定されるようになってなり手不足と高齢化が進み、結果として皇子女の出生数が激減したと分析している[10]。
  3. ↑ 桜町天皇は28歳の若さで7歳の桃園天皇に譲位した。これは天皇よりも立場的に自由である上皇として、朝廷の改革や朝儀の復興を主導していきたいとの考えによるとされている[13][22]。
  4. ↑ 貞行親王は明和9年(1772年)6月に亡くなり、安永3年(1774年)11月、邦忠親王の弟で仏門に入っていた寛宝法親王が還俗して伏見宮邦頼親王として伏見宮家を相続した[32][33]。
  5. ↑ 桜町天皇と二条舎子との間の第一皇女である盛子内親王は、元文2年(1737年)に生まれ、延享3年(1746年)に亡くなっている[35]。
  6. ↑ この官位御定問題は幕府による介入がなされ、一部が撤回された[51]。
  7. ↑ 宝暦4年(1754年)、二条家の当主である二条宗基は28歳で亡くなり、後継者の二条重良はまだ4歳と幼く、宝暦事件から桃園天皇の急死、後桜町天皇の践祚という時期、摂家の中で二条家のみは関与していない[56]。
  8. ↑ 野宮家は朝廷で有職故実を家業としており、野宮定和は有職故実に詳しかった[86][87]。
  9. ↑ 米田雄介は、智子内親王は朝廷が混乱する中で皇位を継承することに不安を感じていたのではないかと推測している[93]。

出典

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  2. ↑ 藤田 (2019), p. 137.
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  4. ↑ 藤田 (2019), p. 134.
  5. ↑ 藤田 (2019), p. 142.
  6. 1 2 村 (2021), p. 17.
  7. ↑ 藤田 (2019), pp. 140–142.
  8. ↑ 藤田 (2019), p. 113.
  9. ↑ 佐藤 (2026), p. 5.
  10. ↑ 林 (2024), p. 114.
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  15. 1 2 林 (2021), p. 308.
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  31. 1 2 佐藤 (2026), p. 64.
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  40. ↑ 佐藤 (2026), pp. 60–61.
  41. ↑ 佐藤 (2026), p. 61.
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  43. ↑ 佐藤 (2026), p. 62.
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