後藤晃吾

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後藤 晃吾
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 静岡県島田市
生年月日 1940年
没年月日 2023年12月24日
身長
体重
182 cm
75 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督歴

後藤 晃吾(ごとう こうご、1940年 - 2023年12月24日[1])は、静岡県島田市出身のアマチュア野球選手(投手)。

来歴・人物

榛原郡金谷町(現島田市)出身で、金谷中学時は県下に知られた投手。掛川西高では2年生の時、エースとして1957年夏の甲子園予選山静大会決勝に進み清水東高と対戦。後に大学の1年先輩となる漆畑勝久や早大に進む鈴木悳夫らに打ち崩され大敗、甲子園出場を逸する。

明治大学に進学。東京六大学野球リーグでは、同期の八木孝と投の二本柱を組み1961年春季リーグで優勝、ベストナイン(投手)にも選出される[2]。同年の全日本大学野球選手権大会に出場するが、準決勝でエース宮田征典を擁する日大に敗れた。リーグ通算43試合13勝10敗、防御率1.87、96奪三振。他の大学同期では一枝修平、辻佳紀、別部捷夫、松本雄作(4年中退、国鉄)がプロ入りしている。

卒業後は社会人野球の八幡製鐵に進み、都市対抗野球大会に10年連続出場。1968年の都市対抗では3勝を挙げ準決勝に進む。富士製鐵広畑の岡田光雄(松下電器から補強)と投げ合うが完封を喫した[3]。同大会の小野賞を獲得。同年8月にはアラスカ・ゴールドパナーズ[4]との日米親善野球試合に出場した。

引退後は新日本製鐵八幡監督となる。1974年の都市対抗では、エース萩野友康の好投もあって準優勝[3]。同年は第1回社会人野球日本選手権にも出場を果たす。

2008年からは善波達也からの要請で明治大学の投手コーチとなり、山﨑福也、野村祐輔、柳裕也、森下暢仁らをプロへと輩出した[1]。

2023年12月24日、肝臓がんのため死去。享年83[1]。

脚注

  1. 1 2 3 “第38号 - 駿台倶楽部” (PDF). 明治大学野球部. p. 7 (2024年3月20日). 2024年9月14日閲覧。
  2. ↑ 「東京六大学野球連盟(記録)」(一財)東京六大学野球連盟
  3. 1 2 「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年
  4. ↑ 「アラスカ・ゴールドパナーズ1968年」大学生を主体としアラスカ・リーグに所属するセミプロチームである

関連項目