徐 之才(じょ しさい、天監4年(505年)- 武平4年6月4日(572年6月29日))は、中国の南北朝時代の医師・学者・官僚。字は士茂[1]。本貫は東莞郡姑幕県[2][3][4][5][1]。
南朝斉の蘭陵郡太守の徐雄(徐文伯の子)の子として生まれた。幼くして才気をあらわし、5歳で『孝経』を読み、8歳で『論語』に通じるようになった。13歳で太学生として召し出され、三礼や『易経』の概略を理解した。袁昂が丹陽尹を領知すると、之才は主簿として召し出された。南朝梁の豫章王蕭綜が江都に出向すると、之才はその下で豫章王国左常侍に任じられ、さらに蕭綜の下で鎮北主簿に転じた[6][4][7][8]。
普通6年(525年)、蕭綜が北魏に亡命すると、梁の前線の三軍は崩壊し、之才は呂梁まで退却したが、橋が落ち道路が遮断されていたため、北魏の統軍の石茂孫に拘束された。北魏は蕭綜の旧部下たちを呼び集め、彭泗にいた之才に連絡をつけた。「之才は医術を得意とし、機知と弁舌を兼ね備えている」と孝明帝に報告され、之才は洛陽に呼び出された。孝昌2年(526年)、之才が洛陽に入ると、南館に居住するよう命じられ、すぐれた礼遇を受けた。徐文伯の弟の徐謇の子の徐踐が之才に邸を返還したいと申し出た。之才は薬の処方による成果が多く、経書や史書を広く読み、弁舌に優れていたため、北魏の朝臣たちは争って之才を属僚として召し出そうとした。孝武帝のとき、昌安県侯に封じられた。天平年間、高歓に召し出されて晋陽に赴き、内館に居住し、厚い礼遇を受けた。 武定4年(546年)、散騎常侍から秘書監に転じた。武定8年(550年)、高洋が丞相となると、江南出身者に秘書をつかさどらせるのはよくないと楊愔が上申したため、之才は秘書監から退くこととなり、金紫光禄大夫の位を受けた[9][10][11]。
同年(天保元年)、北斉が建国されると、之才は侍中に任じられ、池陽県伯に封じられた。天保5年(554年)、趙州刺史に任じられた。天保7年(556年)、中書監に転じた。皇建2年(561年)、西兗州刺史に任じられた。赴任しないうちに武明太后(婁昭君)が病床についたため、之才がその治療にあたった。天統4年(568年)、尚書左僕射に転じ、まもなく兗州刺史に任じられた[12][13][14][15]。
天統5年(569年)冬、後主が之才を召し出した。武平元年(570年)、之才は再び尚書左僕射に任じられた。武平2年(571年)、尚書令に任じられ、西陽郡王に封じられた。祖珽の執政のもとで、之才は侍中・太子太師に任じられた[16][17][18][19]。
武平3年(572年)6月4日、死去した。享年は68[20][21]。司徒公・録尚書事の位を追贈された。諡は文明といった[22][23][24]。編著に『徐王八代効験方』10巻[25]・『徐氏家秘方』2巻[26]・『雷公薬対』2巻[27]があった。
未登録
IPFS未登録
📡 0ピア
N=1
CRITICAL
PQS C44