戸次鎮秀
| 時代 | 戦国時代 |
|---|---|
| 生誕 | 不明[注釈 1] |
| 死没 | 慶長6年5月3日(1601年6月3日) |
| 別名 |
太郎[1]、太郎入道、山城入道宗傑[1] 通称:左京亮、山城守 |
| 戒名 | 節心院雄岩英甫宗傑大居士 |
| 墓所 | 熊本県玉名市石貫広福寺[2] |
| 主君 | 豊後大友氏 |
| 氏族 | 片賀瀬戸次氏 |
| 父母 | 父:戸次親方[注釈 2][3]、母:立花道雪妹 |
| 兄弟 | 鎮秀、鎮保[注釈 3][3]、直員[注釈 4]、鑑直 |
| 妻 | 吉弘鑑理の娘 |
| 子 | 統貞[注釈 5][3]、統秀[注釈 6]、親良[注釈 7]、志賀鎮隆[注釈 8]室、問註所統景室 |
経歴・人物
『大分県史料』第13に「加冠名字之事大友義鎭名字書出(戸次カ)藤原鎮秀 天文廿一年正月十三日」と記されている。これを元服した年(1552年)と推定される。
子の親良とともに大友家の軍学者・蒲池宗碩の軍学を習得した。
永禄5年(1562年)豊前苅田松山城に進出し、同10年(1567年)戸次氏本家の戸次鎮連に従い高橋・秋月氏の反乱を鎮圧する(休松の戦い)[1]。
天正6年(1578年)日向国遠征では南郡衆として肥後にて守りを固める[1][4]。さらに、同13年(1584年)島津勢が阿蘇に攻め込むと、阿蘇惟光・甲斐鎮隆の要請を受け、援助する[1]。
天正14年(1585年)鎮連と共に大友家加判衆となった[1]が、翌年、鎮連が島津氏への内通の嫌疑により自害した後、鎮秀は一族を率いて筑後柳川へ移住し、親族である立花宗茂の庇護を受けた。
脚注
注釈
出典
参考文献
- 阿部猛; 西村圭子『戦国人名事典』新人物往来社、1987年。ISBN 4404014120。
- 塙保己一 編「戸次系図」『群書系図部集4、第3巻』八木書店、1973年。ISBN 4797102764。