斎田功太郎

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斎田 功太郎(さいた/さいだ こうたろう、安政6年12月15日[1]〈1860年1月7日〉 - 1923年〈大正12年〉1月22日[2])は、日本の植物学者(理学博士)[3][4]。

経歴・人物

信濃松代藩士の斎田虎尾の長男として生まれる[4]。斎田家は10代前の斎田仁右衛門が真田信幸に仕えてからの家柄[5]。儒学者竹内錫鳴や藩校文武学校で漢籍や和算を学ぶ[4]。その傍らで家計のために樵夫と共に田野の耕しに携わり[4]、木版彫刻も習得した[4]。

明治維新後の1874年(明治7年)に上京し[4]、訓蒙学舎、同人社で学ぶ[4]。1877年(明治10年)4月に大学予備門、次いで1880年(明治13年)9月に東京大学理学部に入学[6]。1885年(明治18年)7月、植物学科を卒業[6]。理学部官費研究生を経て、1886年(明治19年)4月に大学院に進み、9月より高等師範学校(のち東京高等師範学校)嘱託教授として勤務[6]。翌1887年(明治20年)10月に同校教授に就任[7]、1891年(明治24年)8月、理学博士の学位を石川千代松らとともに受領[8](大学院卒では初[3])。1897年(明治30年)には帝政ドイツへ留学し[3][4]、病理学や細菌学、生理学等を学ぶ[4](1901年11月帰国[9])。1908年(明治41年)6月より東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)教授を兼任し[10]、中等学校教員の育成に尽力した[4]。晩年は内国勧業博覧会審査委員も務めた[4]。

主著

単編著

  • 編纂『小動物学』文学社、1896年。
  • 編著『大日本普通植物誌』大日本図書、1897年。
  • 『内外普通植物誌 下等植物篇』大日本図書、1900年。

共編

親族

  • 父:虎尾 - 松代藩士綿貫親兵衛の五男。維新後は開拓使の根室支庁や下妻治安裁判所長判事補などを務めた。
  • 母:義子 - 同藩士斎田千三郎(元使番)の長女。
  • 妻:あか - 辻新次男爵の娘。
  • 長男の蕃一は大阪商船社員、次男は弘二、三男は捷三。弟は覚次郎。

伝記

  • 斎田先生記念誌編纂代表 編『斎田功太郎先生』山崎与吉、1929年。

脚注

  1. ↑ 「齋田功太郎先生御履歴」『斎田功太郎先生』1929年、国立公文書館「斉田功太郎高等師範学校教諭ニ任叙ノ件」添付履歴書。
  2. ↑ 『官報』1923年1月24日「彙報・官庁事項」欄。
  3. 1 2 3 “斎田功太郎”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus(講談社). 2024年3月25日閲覧。
  4. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 “斎田 功太郎”. 20世紀日本人名事典(日外アソシエーツ). 2024年3月25日閲覧。
  5. ↑ 松下軍次『信濃名士伝 初編』。
  6. 1 2 3 国立公文書館「斉田功太郎高等師範学校教諭ニ任叙ノ件」添付履歴書。
  7. ↑ 『官報』1887年10月10日「叙任及辞令」。
  8. ↑ 『官報』1891年8月25日「彙報・教育」欄。
  9. ↑ 『官報』官報 1901年12月18日「彙報・学事」欄。
  10. ↑ 『官報』1908年6月5日「叙任及辞令」。

参考文献