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服部 之総 | |
| 人物情報 | |
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| 別名 |
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| 生誕 | 1901年9月24日 |
| 死没 | 1956年3月4日(54歳没) |
| 学問 | |
| 時代 | 明治時代 - 昭和時代 |
| 活動地域 | 島根県那賀郡旭村(現・浜田市) |
| 学派 | 講座派 |
| 研究分野 | 日本近代史(マルクス主義歴史学・歴史哲学・現代史) |
| 研究機関 | 東洋大学、中央労働学園大学、法政大学 |
| 特筆すべき概念 | 幕末=厳マニュ説 |
| 主要な作品 |
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| 主な受賞歴 | 毎日出版文化賞(1955年) |
服部 之総(はっとり しそう、旧字体:服󠄁部 之總、1901年〈明治34年〉9月24日 - 1956年〈昭和31年〉3月4日)は、日本の歴史学者(マルクス主義歴史学、歴史哲学、現代史)。花王石鹸取締役、法政大学教授を務めた。島根県那賀郡旭村(現・浜田市)出身。本名は服部 之総(はっとり これふさ)[1]。
1901年(明治34年)、浄土真宗本願寺派正蓮寺に生れた。旧制浜田中学を経て、第三高等学校を卒業[2]。東京帝国大学文学部社会学科で学び、大学在学中に志賀義雄、大宅壮一らと東大新人会で活躍。文学部社会学科時代の恩師は戸田貞三[3]。1925年に卒業[4]。
1925年4月から1926年3月まで東京大学社会学講座の副手を務めたが、師の戸田とそりがあわなくなり社会学教室を離れた[3]。しかしその後も繋がりは保ち、1950年に戸田の編集で刊行された『社会学研究の栞』に他の戸田の教え子とともに執筆している[3]。
1927年、野坂参三が所属した産業労働調査所所員となった。1928年より労農党書記局長。1930年からは中央公論社初代出版部長となり、言論活動を続けた。1931年、プロレタリア科学研究所所員となった[1]。
1928年に三・一五事件の共産党弾圧で検挙されたが釈放され、唯物史観の立場で維新を論じた『明治維新史』を刊行[1]。1932年に刊行を開始した『日本資本主義発達史講座』で講座派の代表的論客となった[1]。『日本資本主義発達史講座』で明治維新研究について論文を寄せ、日本資本主義論争で土屋喬雄と論争した。服部は、「維新史方法上の諸問題」(『歴史科学』1933年〈昭和8年〉4-7月号)で、明治維新時の経済は『資本論』によるところの「厳密なる意味におけるマニュファクチュア時代」(本来的マニュファクチュア時代)であるとした。「幕末=厳マニュ説」。これは、マニュファクチュアが経済のすべてではなく、大部分を占めていることを意味し、日本における産業革命の要求の論拠となった、とする。土屋はこれを実証性が欠けるとして批判し、「問屋制家内工業段階説」を唱えた。この論争は、戦後に大塚史学の影響を受けた研究者が服部説を批判的に継承することで幕引きとなる。
1936年に花王石鹼の委嘱を受けて社史を編纂。1938年に唯物論研究会事件で検挙され、戦時下の執筆を断念[1]。釈放後の1938年に花王石鹼へ入社し、上海に渡った[1]。同社宣伝部長を経て、1942年に締役に就いた[1]。
戦後の1946年に三枝博音らと鎌倉大学校を創立して教授を務め、学界へ復帰した[1]。1949年、日本共産党入党したが、翌1950年に離党[1]。1951年、日本近代史研究会を設立し、『画報 近代百年史』(第1集~第18集)を刊行した[1]。その一方で、東洋大学講師、中央労働学園大学教授を務めた。中央労働学園大学と法政大学が合併したことから、1952年より法政大学社会学部教授となり[1]、「社会学理論」を担当した。晩年は神経衰弱だったという。[要出典]1956年に死去。
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