| 時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
|---|---|
| 生誕 | 生年不詳 |
| 死没 | 慶長8年1月13日(1603年2月23日) |
| 改名 | 水野半右衛門[1][2]→本多利久 |
| 別名 | 水野利忠[3]、与八郎[3]、太郎左衛門(通称)[1][2] |
| 官位 | 従五位下・因幡守 |
| 主君 | 織田信安→豊臣秀吉→秀長→秀保→秀吉→秀頼→徳川家康 |
| 氏族 | 尾張水野氏→源姓本多氏 |
| 父母 | 父:水野利元 |
| 兄弟 | 利久、利氏、女 |
| 子 | 俊政、女(秋田孫九郎室)、光吉 |
本多 利久(ほんだ としひさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。大和国高取城主。官位は従五位下・因幡守。
はじめ水野半右衛門と称し、尾張国岩倉城主・織田信安に仕えていたが[1][2]、後に羽柴秀吉、次いでその弟・秀長の家臣となり、天正7年(1579年)の三木城攻めで戦功を挙げた[1]。
天正13年(1585年)には脇坂安治に代わって大和国高取城主となり(『藩翰譜』、『諸家系図纂』)[2]、天正17年(1589年)には秀長の命を受けて高取城の改修を行った[4]。技師長は軍学者の諸木大膳が務め、これにより高取城は近世城郭として整備された[5]。
また、天正年間の末頃に嫡男・俊政に1万石を分知し[1]、文禄3年(1594年)には伏見城の普請を分担した[1]。
文禄4年(1595年)に秀保が没した後も所領は据え置きのまま秀吉に仕えた[2]。
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