朱国宝

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朱 国宝(しゅ こくほう、1230年 - 1288年)は、モンゴル帝国に仕えた漢人将軍の一人。大興府宝坻県の出身。

概要

朱国宝の父の朱存器はかつて修内司使を務めた人物で、ある時夜間に盧溝橋を通っていると、金1嚢を拾ったが、自分のものにせず持ち主に届け出たとの逸話がある[1]。

モンゴル帝国の第4代皇帝モンケ・カアンによる第二次南宋出兵が始まると、水軍が新たに編成されることとなり、この時朱国宝も水軍万戸の解誠の麾下に入ることとなった。1259年(己未)、モンケ・カアンの急死にともなって弟のクビライが鄂州の包囲を始めると、朱国宝は17度にわたって南宋軍と交戦して、モンゴル軍の渡河を助ける功績を挙げた。1261年(中統2年)に千戸の地位と銀符を授けられ、1262年(中統3年)には李璮の乱鎮圧に従事した後、金符を授けられて東海に駐屯した。その後は襄陽城の包囲にも加わり、戦艦の建造や万山堡の建築に従事している。1274年(至元11年)より南宋領への侵攻が始まると、朱国宝は総司令のバヤンに願い出て前鋒を務め、まず敵船20艘を奪取する功績を挙げた。また、南宋軍が船数百を連ねて長江の通行を阻む地点では、バヤンの要請を受けて朱国宝が敵船団を破り、これによってモンゴル軍は鄂州・漢陽軍の平定に成功した[2]。

1275年(至元12年)、岳州桃花灘の戦いでは高世傑を捕虜とする功績を挙げ、これにより昭信校尉・管軍総管の地位に進んだ。湖右地方の平定後は、宣武将軍の地位を授けられ、諸軍を統べて常徳府に鎮撫した。このころ、南宋領の諸州県はいまだモンゴル軍に抵抗を続けていたが、朱国宝の招論によって多くが帰順し、辰州・沅州・靖州・鎮遠のみが投降を拒む状況にあった。モンゴル軍に抵抗を続ける李信・李発らは武岡洞蛮と手を結んだが、朱国宝はこれを各個撃破し、抵抗勢力は飛山・新城に退却するに至った。思州・播州蛮が援軍としてくるも、朱国宝はこれを撃退し、さらに新城を攻めて張星・沈挙ら300人余りを捕虜とし、この功績により金虎符を下賜された。1277年(至元14年)、朱国宝は諸道の兵を集めて広西の静江府を攻略し、管軍万戸の地位を授けられて梧州を鎮守した[3]。

1278年(至元15年)には懐遠大将軍の地位を加えられ、張世傑ら南宋残党軍の追討に従事することとなった。まず、南恩州・新州で挙兵した何華・張翼らを討伐し、捕虜500人・船700艘を得る勝利を収めた。1279年(至元16年)には定遠大将軍・海北海南道宣慰使の位に遷り、鬱林州・廉州諸洞の平定を行った。その後、瓊州に移って支配体制の確立に努め、抵抗を続けていたからの南寧府の謝有奎を投降させることに成功している。これにより、黎民3千戸が30か所の蛮洞とともに投降したという。1281年(至元18年)には臨高蛮500人を破り、居亥・番毫・銅鼓・博吐・桐油等の19洞を投降させた。さらに韓旺を派遣して大黎・密塘・横山を平定し、反乱の首魁である李実を討伐して大鍾・小鍾諸部の長ら18人を投降させた。これにより鎮国上将軍・海北海南道宣慰使都元帥の地位を加えられ、またチャンパー遠征への兵糧供給にも従事している[4]。

1286年(至元23年)には嶺南広西道宣慰使の地位に遷り、1287年(至元24年)には入覲してクビライより慰労を受けている。1288年(至元25年)には輔国上将軍・都元帥・参知政事の地位を授けられ、贛州に赴任することになったが、病により59歳にして駅舎で死去した[5]。

死後、息子の朱斌が地位を継ぎ、海北海南道宣慰使都元帥の地位にまで至っている。その他、朱贇・朱鼎・朱鉉といった息子がいた[6]。

脚注

  1. ↑ 『元史』巻165列伝52朱国宝伝,「朱国宝、其先徐州人、後徙宝坻。父存器、歴官至修内司使。嘗夜行盧溝橋、獲金一嚢、坐而待其主以付之、其人請中分、存器笑而遣之」
  2. ↑ 『元史』巻165列伝52朱国宝伝,「憲宗将攻宋、募兵習水戦、国宝以職官子従軍、隷水軍万戸解誠麾下。己未、世祖以兵攻鄂、国宝摂千戸、率鋭卒于中流与宋師鏖戦、凡十七戦、諸軍畢済。中統二年、授千戸、佩銀符。三年、囲李璮于済南、佩金符、鎮戍東海。従征襄陽、摂四翼鎮撫、督造戦艦、築万山堡。至元十一年、抜沙洋、隳新城、皆与有力焉。初、師次江上、国宝請于丞相伯顔、願当前鋒、既而奪船二十艘以献、伯顔壮之。宋拠上流、方舟数百、結為堡柵、伯顔指示曰『復能奪取是乎』。国宝即奮往破柵。既渡江、下鄂・漢」
  3. ↑ 『元史』巻165列伝52朱国宝伝,「十二年、進兵臨岳州、与宋兵戦于岳之桃花灘、獲其将高世傑、進昭信校尉・管軍総管。既降湖右、加宣武将軍、統蒙古諸軍、鎮常徳府、知安撫司事。時宋諸郡邑多堅守不下、国宝伝檄招諭、踰月悉平、惟辰・沅・靖・鎮遠未下。宋将李信・李発結武岡洞蛮、分拠阨寨、国宝撃敗之、其衆退保飛山・新城。思・播蛮来援、国宝復与戦、破之、擒張星・沈挙等三百餘人。進攻新城、獲信・発等、献俘江陵。行省奏功、賜金虎符。十四年、会諸道兵攻広西静江、抜之、進秩管軍万戸、鎮守梧州、領安撫司事」
  4. ↑ 『元史』巻165列伝52朱国宝伝,「十五年、加懐遠大将軍。初、宋臨安之破也、張世傑挾二王由閩蹈海、衆復滋蔓。時南恩・新州何華・張翼、挙兵興復、軍勢甚盛。国宝選精鋭、撃殺華・翼、擒其党二人、斬首万餘級、俘五百餘人・船七百艘、奪其兵器無算、降其将十餘・軍士二百・民三万餘戸。十六年、遷定遠大将軍・海北海南道宣慰使。蜑賊連結鬱林・廉州諸洞、恣行剽掠、国宝悉平之、磔尸高化、以懲反側。任龍光等率所部五千戸降。移瓊州、立官程、更弊政、訓兵息民、具有条制。南寧謝有奎負固不服、国宝開示信義、有奎感悟、以其属来帰。於是黎民降者三千戸、蛮洞降者三十所。十八年、破臨高蛮寇五百人、招降居亥・番毫・銅鼓・博吐・桐油等十九洞、遣部将韓旺率兵略大黎・密塘・横山、誅首悪李実、火其巣、生致大鍾・小鍾諸部長十有八人、加鎮国上将軍・海北海南道宣慰使都元帥。供給占城軍餉、事集而民不擾」
  5. ↑ 『元史』巻165列伝52朱国宝伝,「二十三年、遷嶺南広西道宣慰使。二十四年、入覲、帝慰労之。二十五年、進輔国上将軍・都元帥・参知政事、行尚書省事。以軍事至贛州、得疾、卒于伝舎、年五十九」
  6. ↑ 『元史』巻165列伝52朱国宝伝,「子斌、襲職、累官加賜金虎符・海北海南宣慰使都元帥。贇、上副万戸、佩金虎符、鎮福州。次鼎。次鉉」

参考文献

  • 『元史』巻165列伝52朱国宝伝
  • 『新元史』巻177列伝74朱国宝伝