村尾昇一
村尾 昇一(むらお しょういち、1889年〈明治22年〉11月1日 - 1965年〈昭和40年〉2月5日)は、日本のキリスト教の聖職者、神学者、翻訳家。日本聖公会主教、立教大学教授、東京基督教青年会(東京YMCA)第4代総主事。キリスト教の教理や聖書学に関する多くの解説書や神学書を執筆し、日本のキリスト教文化の普及に貢献した。戦後、国際基督教大学(ICU)の設立に携わるなど、日本のキリスト教界の戦後復興や発展に大きく寄与した[1][2]。
人物・経歴
生い立ちと信仰の原点
1889年(明治22年)11月1日、鳥取県西伯郡境町(現・境港市)に生まれる。生家は代々庄屋で肥料間屋を営んでいたが、幼少期に両親が離別し祖母に育てられた[1]。
6歳半のとき、英国聖公会宣教協会(C.M.S.)の宣教師バークレー・バックストンによって開設された上り道講義所にて、荒砥琢哉から洗礼を受けた。その後、C.M.S.の宣教師J.C.マンの勧めで聖職を志し、旧制桃山中学校(第九期生)に中途編入する。1911年(明治44年)3月に桃山中学校を卒業後、同年9月に大阪三一神学校(現・聖公会神学院)に入学した[1]。
神学校時代と留学
大阪三一神学校(現・聖公会神学院)で優秀な成績を修め、1914年(大正3年)8月に卒業。同年、カナダ・トロントのウィクリフ神学校(Wycliffe's College)に入学し、神学を専攻した。1916年(大正5年)5月に文学士(B.A.)を取得し、同年10月に帰国した[1]。
晩年の1961年(昭和36年)、ウィクリフ神学校より長年の神学教授としての業績および通信伝道による開拓的功績を讃えられ、名誉神学博士(D.D.)が贈られた[1]。
教職および牧師としての活動
1922年(大正11年)9月、聖公会神学院教授に任じられ、旧約聖書とヘブル語を講じて後進の教育に尽力した。また、隣接する立教大学でも文学部教授として教鞭を執った。
教会牧師としても東京教区を中心に精力的に活動し、以下の役職を歴任した。
- 1923年(大正11年):執事叙任
- 1924年(大正13年):長老叙任
- 1925年(大正14年):池袋会館(のちの池袋聖公会)牧師
- 1927年(昭和2年):聖愛教会牧師
- 1928年(昭和3年):武蔵野教会(のち阿佐ケ谷聖ペテロ教会)牧師(約9年間)
- 1940年(昭和15年):月島基督教会牧師
文書伝道とエキュメニカルな活動
関東大震災後に開設された聖公会新会館(新生館)の事業を引き継ぎ、月刊誌『新生』の執筆や、全国の通信伝道団体と連携した「日本基督教通信協議会」を通じて文書伝道・通信伝道の分野を切り開いた。また、1934年(昭和9年)には『日刊基督教通信』(のちの『基督教新聞』)を発行し、超教派的なエキュメニカル運動に積極的に取り組んだ[1]。
東京基督教青年会(YMCA)総主事
1935年(昭和10年)1月、東京基督教青年会(東京YMCA)第4代総主事に就任[2]。斬新な機構改革を断行し、社会教育や社会奉仕を重視した青年育成に尽力した。日中戦争下の1938年(昭和13年)2月に辞任した[1]。
戦時下の日本基督教団加盟と戦後復興
第二次世界大戦中、宗教統制によって日本聖公会が組織解散を余儀なくされる中、村尾は教会の存続と聖公会の霊的資産(監督制)を後世に継承するため、日本基督教団への加入を決断した。1943年(昭和18年)8月24日、教団内で聖公会監督の按手礼を受け、教団内の旧聖公会系教会の指導に当たった。『日本基督教団信仰問答』原案の作成などにも中心的な役割を果たした[1]。
戦後は日本聖公会へ復帰し、池袋聖公会(現・インマヌエル新生教会)の牧師として教会の再建に尽力。1952年(昭和27年)には日本聖公会教務総局長に就任し、『日本聖公会新聞』の復刊を実現させるなど、日本のキリスト教界の戦後復興や国際基督教大学(ICU)の設立準備に関わるなど、キリスト教界の発展に大きく寄与した[1][3]。
1958年(昭和33年)まで池袋聖公会(現・インマヌエル新生教会)牧師を勤めたが[4]、闘病生活に入り、1965年(昭和40年)2月5日に満75歳で召天した[1]。
主な著作
- 『イエスのパラプル』開拓社、1925年
- 『エベソ・ピリビ・コロサイ・ビレモン書註解』
- 『旧約に於ける預言の進展』啓明社、1928年
- 『愛の神学』基督教思想叢書刊行会、1938年
- 『基督教を語る』
- 『神はあるか』
- 『キリスト教を語る』