| 村松 梢風 | |
|---|---|
| 誕生 |
村松 義一(むらまつ ぎいち) 1889年9月21日 静岡県周智郡飯田村(現:森町) |
| 死没 | 1961年2月13日(71歳没) |
| 職業 | 小説家 |
| 国籍 |
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| 代表作 | 『残菊物語』『男装の麗人』 |
| 子供 |
村松友吾(長男) 村松喬(三男) 村松暎(四男) 村松友視(孫、籍上は五男) |
村松 梢風(むらまつ しょうふう、本名:村松 義一〈むらまつ ぎいち〉、1889年〈明治22年〉9月21日 - 1961年〈昭和36年〉2月13日)は、日本の小説家。静岡県周智郡飯田村(現:森町)生まれ。作家、村松友視の祖父。
祖父に利殖の才があったため、村一番の金持ちだったという。しかし、その金を梢風の父と梢風の代で殆ど放蕩し尽くしてしまった。静岡県立静岡中学校を経て[1]慶應義塾大学部理財科に入学。しかし、父が亡くなったため中退、静岡に戻り教師となる。授業中に落語や百面相をやってみせたという。近隣の村の娘と結婚するが、翌年同文学科に再入学する。ところが、吉原などで遊蕩三昧を尽くしたため再び中退、幾つか職を転々とするがいずれもモノにはならなかった。この頃には実家から金を持ち出すこともできなくなり、毎朝早くに起きて道端に落ちている金を拾ったりしていた。後年、梢風は「結構落ちてるものでな」と語ったという。
梢風は文学に憧れてはいたものの、自分が文筆で身を立てるのは到底実現できないと思っていた。しかし1917年(大正6年)、処女作「琴姫物語」をダメ元で『中央公論』に応募したところ、滝田樗陰に認められデビュー。その後文筆活動に専念し、次々と作品を発表する。ただし、同誌の創作欄ではなく、説苑欄という中間小説或いは読み物を載せる欄に掲載され、梢風自らこれを「情話」と称した。梢風の号を用い始めるのもこの頃で、うらぶれた気持ちで街を歩いていると、木々の梢を冬の風が吹き抜けていくのを見て決めたという。ところが、当時新進の流行作家であった佐藤春夫が芥川龍之介らと謀って、梢風らに対する排斥運動を起こす。佐藤は樗陰に、「あのような下賤の輩に紙面を提供するなら、以後『中央公論』への執筆を停止する」と申し入れてきた。剛腹な樗陰も、有力作家たちに反対されては屈せざるを得なかった。梢風はこのことで後年まで佐藤春夫を恨み、佐藤が和解を申し出ても聞く耳持たなかったという。これを気の毒に思った樗陰が、新しく企画したのが「本朝画人伝」であった。
1923年(大正12年)には、上海に渡航し、その魅力にとりこになって滞在する。中国文化にふれるとともに、租界にあったヨーロッパのモダニズム文化にもふれる。彼が住んだアパートは、ロシア人が経営し、ロシア人のほかにドイツ人やフランス人が住んでいた。また、郭沫若、郁達夫、田漢、欧陽予倩ら、中国の若き知識人たちと知り合う。また、上海を舞台とした作品「魔都」を発表する。
以降もたびたび中国を訪問し、「支那通」として有名となる。
滝田樗陰の死後の、1926年(大正15年)には、個人雑誌『騒人』を創刊。1928年(昭和3年)には、郭沫若が亡命してきたため、匿い、市川に居住させる。ただし、同年に勃発した「済南事件」を梢風が支持したことから、ながらく続いてきた田漢との友情関係が決裂した。
その後、戦前は多くの時代小説等を執筆。戦後も多くの時代小説や伝記小説を執筆・連載した。 代表作として『近世名勝負物語』『正伝清水次郎長』『女経』などが知られる。実証的な手法に裏付けられた評伝作品に、卓越した腕をふるった作家として知られる。
また明治期の歌舞伎俳優・二代目尾上菊之助を描いた『残菊物語』は、戦前の溝口健二以降三度映画化され、舞台でもしばしば上演された代表作である。「男装の麗人」「東洋のマタ・ハリ」と呼ばれた清朝王女の川島芳子を取材し、小説『男装の麗人』を発表した。しかし、小説で芳子のスパイ行為をことさら誇張して描いたため、戦後芳子が漢奸裁判にかけられた際に小説が証拠として扱われ、芳子を死刑に追い込んだという批判がある。梢風自身、戦後芳子の知人から「お前のせいで川島芳子は死んだ」となじられたという[2]。
現在では、主に『本朝画人伝』の作者として知られている。同作は、文献資料を漁るのはもとより、自分の足で直接取材した話が多いのが特色である。梢風は心から絵が好きで、川端康成が大金を投じて『十便十宜図』だか何かの絵を買った話を聞くと、「世の中で名画と定評ある絵は確かにいいさ。だからそういう絵を金を惜しまずに買う人は、絵好きには違いない。だがな、例えば二流の画家でも生涯に何作か、ひどく出来のいい絵が描けることがあるものだ。値は安くてもそういう絵にも、得も言えない良い所がある。自分で買えるそういう絵を見つけて楽しむのも絵好きなんだぞ」と語ったという。
文筆一族で知られる。
猫好きで、猫を十数匹も飼っており、「猫好きに関しては、大佛次郎と双璧」といわれた。晩年は妻と別居し、愛人と2人で鎌倉に住んでいた。その経緯は村松友視の『鎌倉のおばさん』に詳しい。
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