


東ノ川(ひがしのかわ)地区とは、新宮川水系北山川支流の東ノ川流域の称で、大台ヶ原山南麓に位置する。奈良県吉野郡上北山村に属し、東は三重県尾鷲市に隣接している。かつての集落はダム建設に伴って水没し、残留した住民はダム湖畔の代替地などに移転したがしだいに減り、無人となった集落に残っていた東の川簡易郵便局も2005年に廃止された。
流域面積は約95km2で上北山村の南東部約3分の1に相当する。V字形の深い峡谷をなしており、北には大台ヶ原山がそばだち、それから延びる台高山脈の本脈支脈に四周を囲まれた閉鎖性の強い隔絶地である[1]。
古くから一時的な来往はあったものの人が永住するようになったのは古文書から江戸時代初め頃と推測される。北山郷上組の小瀬村・栃本村・西野村(小瀬、栃本は合して後の上北山村小橡、西野は後の上北山村西原)などからの移住がありそれらの村の枝在となっていた[2]。文政13年(1830年)以降親村からの独立を五條代官に再三上訴したが東ノ川村として独立することはなかった[3]。
昭和30年(1955年)国勢調査では戸数91戸、人口375人。東ノ川の河岸に下流から大塚・坂本・出合・古川・宮ノ平・五味・出口という集落があった。昭和13年(1938年)頃以前は最上流に木組という集落もあった。行政上は上北山村の北山川本流域にある「白川」「小橡」「河合」「西原」の4大字に分属し飛地となっている地域もありそれらが複雑に分布しているが、地理的に一区域をなしている故、東ノ川区と称して4大字と同様に扱われ、中心地の宮ノ平には神社や小学校、中学校分校、簡易郵便局などの公共施設も設けられていた[4]。

熊野川電源開発計画により昭和36年(1961年)に坂本ダムが完成、細長い人造湖は約10km余上流の薬師温泉まで及び、坂本より上流の全集落が水没した。また下流の大塚も昭和40年(1965年)に北山川本流に完成した池原ダムにより水没し、東ノ川地区全集落が水没した[5]。坂本ダム竣工前年の昭和35年(1960年)には東ノ川地区133世帯全人家の転住先が決定したが、新宅地の造築により東ノ川に残留するのは17%の23世帯に過ぎずこれらの人々も新宅地ができるまでは尾鷲方面などに一時転住していた。上北山村内への転出者は東ノ川残留も含めて32世帯23%であるのに対し尾鷲市への転出者は53世帯40%を占めた[6]。
ここでは水没前の集落について下流より順に述べる[8]。


水没直前の昭和36年(1961年)8月現在、ダム及び林道建設事業関係の従業者以外で地区に居住するのは旧宮ノ平から上方にできた林道沿いに移った雑貨店、宮ノ平の新道の上方に残る養蜂家、尾鷲に通じる新道に沿う古川谷上流の名古瀬に古川から山林事務所とこれに勤める人家1戸が来住した計3戸のみ。移転後の旧人家の一部は工事従業者の宿舎となっていたが昭和36年6月の集中豪雨による出水でほとんどが流出。坂本ダムは同年末に完成し貯水。その後残留者の新居は宮ノ平上方に十数戸、新出口橋西詰付近に数戸造築される[13]。
畔田翠山の『和州吉野郡群山記』では和州吉野郡北山荘之記において次のように記されている[14]。
北山川源は、大台山坤三滝より出て、坂本を経て、大塚に出、備後谷と合し、大瀬に至り、西川と会し…(略)按ずるに(『輿地通志』では)東川、池原村に至り、西川と会すと云う、非なり。大瀬村にて合す。(略)
東の川は、大台山東の滝・中の滝より出る水、東川村に会し…、川合村の東南二里にして坂本村有り(小瀬・栃本の枝郷なり)。その中に大塚村有り。その下、大瀬村有り。坂本・大塚より落ちる水、大瀬にて西川と会し、北山川となる。
現在北山川本流とする川を西川と記し、東川と西川が合流して北山川となるとしているが、東ノ川のほうを本流のように扱っている。

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