東条行長
| 時代 | 戦国時代 - 江戸時代初期 |
|---|---|
| 生誕 | 天文13年(1544年)[1] |
| 死没 | 慶長13年9月6日(1608年10月14日) |
| 戒名 | 宗光[2] |
| 官位 | 紀伊守、民部卿法印 |
| 幕府 | 江戸幕府 旗本 |
| 主君 | 三好氏→里見氏→豊臣秀吉→徳川家康 |
| 氏族 | 東条氏 |
| 父母 | 父:東条高秀 |
| 子 | 長頼、安長 |
生涯
天文13年(1544年)、東条高秀の子として生まれる。東条氏は阿波国の国人で、武田氏の庶流とみられる[1][3][注釈 1]。
はじめ、行長は阿波の三好氏に属し、河内国の平島城主となる[1][5][6]。だが、その後は安房の里見氏に仕えた[7][5][6]。そして、羽柴秀吉に仕えて、その馬廻となる[5][6]。
天正13年(1585年)の四国征伐では、羽柴秀長に属し、 阿波の木津城主で一族の東条実光(関兵衛)を説得し、降伏させた[5][6]。
文禄元年(1592年)の文禄の役では、肥前国名護屋城に駐屯[5][6]。後に秀吉の勘気を被り追放されるが、その後は徳川家康に仕えて、大和国吉野郡で1,000石を知行し、晩年は家康の談判衆に加えられた[6]。