東照大権現

東照大権現(とうしょうだいごんげん)は、日本の神[1][2]。死没後の徳川家康が神格化された姿[3]。家康が没後に朝廷から下賜された神号(権現号)でもある[4]。
徳川氏の祖神であり[5]、各地にある東照宮の主祭神である[6]。また、かつては東国や日本全体の守護神[5]、対外的な脅威に対峙する軍神としても位置づけられていた[7]。
歴史
家康、神格化の布石を打つ
慶長8年(1603年)2月、徳川家康は朝廷から征夷大将軍に任命され、江戸幕府を開いた[8]。そして、家康は徳川氏による支配体制を固めようとした[9]。
慶長18年(1613年)頃より、家康は各宗の僧侶らを集め、論議を聞くようになった[10]。その際、家康自身が議題を出すこともあった[10]。また、論議における司会は、家康の側近である南光坊天海が行った[10]。
本来、こうした仏教の議論は天皇が主催すべきであったが、長く続いた戦乱の中で絶えてしまっていた[10]。そのため、家康が天皇に代わり、これを再興したのであった[10]。
かつて、家康の主君であった豊臣秀吉は京都の方広寺に大仏を作り、自身を死後に神格化させ、豊国大明神となった[10]。だが、家康は江戸や駿府に大仏を作るようなことはせず、仏教の議論を通して、自己を神格化の対象としてふさわしい存在として演出する布石を打った[10]。
慶長20年/元和元年(1615年)5月、家康は大坂の陣で豊臣氏を滅ぼすと、秀吉から豊国大明神の神号を剥奪し、その神格化を否定した[11][12]。また、元和2年(1616年)3月に家康は太政大臣に任官したが、存命中にこの職に任官したことは、現職の太政大臣として死去した秀吉と同格であることを世に示した[13]。これらもまた、家康が自己の神格化のために打った布石といえる[13]。
家康の遺言
元和2年4月2日頃[注釈 1]、徳川家康は自身の死期を悟り、 本多正純・南光坊天海・以心崇伝を呼び、次のように遺言した[15][16][17]。
この八州とは関東8か国を指し、家康は自身を「八州の鎮守」、つまり関東の守護神として神格化するように命じたのであった[15][17]。当時、関東は江戸を中心に、徳川氏の直轄領、および一門や譜代の大名らの領地によって構成、支配されていた[15]。家康は、関東を本国とし、全国政権と関東の大大名という徳川氏の二重性格のうち、後者の性格を重視する遺言を下した[15]。
とはいえ、家康は自身の神格化構想において、関東の守護神にとどまるつもりはなかったとみられる[15]。かつて、豊臣秀吉は死後に神として祀られ、京都に自身が建立した方広寺の大仏の鎮守となり、鎮守国家との結合を実現していた[15]。だが、家康は秀吉のように鎮守国家の拠点を創出しておらず、そのために関東における山岳信仰の聖地たる日光山との結合を図り、全国の守護神としての性格を兼ねることを意図したといえる[15]。
家康の死去と葬儀

4月17日、家康が駿府城で死去した[15][18]。遺骸はその晩、駿府城から久能山へ運ばれた[15][18][19]。遺骸がすぐさま移されたのは、家康を俗世から切り離して神性を付与するための準備であり、神格化に備える措置であった[15]。
時を同じくして、久能山上では普請が行われていたが、4月19日の時点で仮殿がつくられていた[20]。同日夜、家康の遺骸はこの仮殿に埋葬され、その埋葬は吉田神道に則って執り行われた[17]。なお、造営が進んでた本社について、神龍院梵舜がその社殿の建築様式を「大明神造」と記していることから、これは豊国大明神を意味し、豊国廟本社のような壮麗な様式であったことがうかがえる[21]。このことから、家康は当初、「大明神」として祝われる予定であったとみられる[19]。
4月22日、2代将軍の徳川秀忠が久能山の社に参詣し、年寄衆や馬廻衆もこれに供奉した[22]。また、4月に他の家康の子息や女中らも参詣していることから、諸大名も久能山に登山したとみられる[23]。
5月17日、家康の葬儀が生前の遺言に従い、慈昌によって江戸の増上寺で行われた[24]。家康には「安国院殿徳蓮社崇誉道和大居士」という浄土宗の戒名がつけられた。この葬儀は、家康が神として祀られたために内々で行われ、諸大名の参列・香典は無用とされ、僧も近国からのみの参集であった[25][26]。
神号を巡る論争

ひとまず、家康の久能山での祭祀は無事に終えられ[27]、神格化の第一段階といえる儀式が済んだ[28]。だが、家康が朝廷から授けられる神号を巡り、「権現」と「明神」のどちらが相応しいか、天海と以心崇伝との間で論争になった[10]。天海は権現号を、崇伝は明神号をそれぞれ推していた[28]。
4月20日、天海と以心崇伝が駿府城において[19]、秀忠の御前で議論を交わし、家康を神にするとの遺言、つまり家康の神格化を巡って衝突した[29][30][31]。天海は秀吉が豊国大明神であったことや[28]、大明神として祝われた秀吉の政権が二代で滅んだことから[32]、明神号を不吉とし[33]、山王一実神道に則り、薬師如来を本地とする権現号にすべきと説いた[28][注釈 2]。他方、崇伝は両部習合神道の観点から、権現号に反対し、明神号にすべきとした[28][35]。結局、議論が決着することはなく、24日に秀忠は江戸に戻った[19][36]。
5月3日、秀忠によって派遣された使者の星野閑斎と林永喜が梵舜と会い、権現号と明神号の上下や優劣の差はあるかとの質問をした[19][36]。梵舜はこれに対し、両者の間に差はないとして、権現号は伊弉諾尊と伊弉冉尊の神号である一方、明神号は「潔斎参詣」が自由で家康の生前の官位(太政大臣)にも相当する神号であることから、明神号のほうが適していると返答した[19][36]。この星野と林の背後には権現号を推す天海がおり、あらゆる方面に働きかけていることがうかがえる[36]。
5月6日、天海と慈昌が江戸城に登城した[37]。秀忠が梵舜の返答を鑑み、神号をどうするか協議したものとみられる[37]。
5月26日、秀忠が天海の進言に基づき、家康の神号に権現号を用いるとの親裁を下した[28][38][37]。秀忠の決定の背景には、天海が家康から日光山での祭祀をはじめ、神格化の総指揮を委ねられており、また比叡山延暦寺の再興を手掛けていた実績を買われていたことがあげられる[19][39]。
家康は生前、豊臣氏が二代で滅んだという過去を繰り返さぬよう、天海に祭祀構想を委ね、新たな祭祀のあり方の創出をさせようとしていた[10]。そのため、天海は家康を、「大明神」の秀吉とは異なる「大権現」という形で神格化しようとした[40]。秀忠は家康の後継者という立場から、その意を汲み、天海の意見を採用したのであった[28]。
神号勅許を巡る朝廷との交渉

結局、家康の神号については、秀忠の親裁により「権現」で決着がつけられることになった[28]。だが、家康の神号勅許を巡り、朝廷との交渉を進めなければならなかった[41]。
6月11日、天海・板倉重昌・林永喜が勅許を求めて上洛の途に就き、23日に重昌がまず京都に到着した[41]。なお、彼らの上洛に先立ち、5月18日の時点で、家康の神号を求める秀忠の意向が京都所司代の板倉勝重を通じ、関白の二条昭実や武家伝奏の広橋兼勝と三条西実条の両名に伝えられていた[42][41]。
6月15日、板倉勝重と武家伝奏が二条昭実邸で、何らかの協議を行った[43][42]。その協議内容は不明であるが、家康の神格化の方法論に関するものだったとみられる[44]。
6月30日、二条昭実が板倉勝重と武家伝奏に対し、家康に朝廷から神号を授けることを検討していると告げた[45][46]。なお、昭実は朝廷から神号が下されることは異例であると、念を押したようである[47][48]。また、家康には神号ではなく、院号の授与を進めてほしいという意見が公家から上がっていることも伝えられたが、昭実は朝廷から人への院号授与も先例がないと伝えた[46]。
7月1日、天海が京に到着した[48]。同じ頃、林永喜も到着した[49]。
7月3日、天海・板倉重昌・林永喜の三名により、板倉勝重邸を訪れた武家伝奏に対し、家康への神号を望む秀忠の上意が伝えられた[50]。これは、二条昭実が朝廷から神号が下されることは異例であると示されたことに対し、秀忠が神号を望んでいる旨が明示された形となった[51]。
7月4日、天海が京都御所に参内し、6日には朝廷で神号の「宣命」について、秀忠から執奏されたことが、公家らの間で議論された[50][52][53]。朝廷では、家康の遺言や秀忠の執奏はいずれも重たいとしつつも、仏僧が神勧請をするなどありえない話だという話が出た[54][53]。公家らは家康への神号勅許に関し、難色を示していた[53]。
さらに、かつて秀吉に豊国大明神の神号を下した後陽成上皇が、家康への神号に疑義を表明した[55][注釈 3]。そのため、秀忠の立場は苦しいものとなった[55]。
7月13日、事態が突如動き出し、二条昭実邸に蔵人頭が呼ばれ、後水尾天皇から神号について「権現」とするようにとの勅許が下されたと伝えられた[58][59][60]。このとき、天海は比叡山にいたが、江戸の年寄衆に宛てた7月14日付の書状で、武家伝奏から叡慮が伝えられ、神号を定める新たな段階に移行したとし、神号が定まったら江戸に下向して申し上げるとしている[61]。
神号の選定

家康の神号は権現号とする勅許が下されたが、具体的な神号の選定は何も始まっていなかった[62]。そのため、朝廷と幕府との間で引き続き交渉が行われた[52][62]。
7月17日、板倉勝重が二条昭実に対し、「日光山にはすでに日光権現という神がいるそうで、ならば今もう権現号はあるということなのか、また菩薩とはどういうものなのか」と尋ねた[62][63]。昭実はこれに対し、「日光権現とあるならば、重ねて権現号をつけることはできないのではないか。また菩薩は稀なことだ」と返答した[62][63]。勝重は日光三所権現との関係について聞きたかったものと思われるが、場合によっては神号に権現号をつけられない恐れがあったことがうかがえる[64]。
7月27日、二条昭実が壬生孝亮と相談したうえで[65][66]、神号を「日本大権現」と「東光大権現」とする二案を出した[52][67][注釈 4]。このうち、日本大権現の神号は「日本国のほか、異域も治められた」とあることから、秀吉に与えられた豊国大明神の神号が踏まえられた可能性がある[69]。
7月28日、前右大臣の今出川晴季(菊亭晴季)が二条昭実に続き、神号を「東照大権現」と「威霊大権現」[注釈 5]とする二案を出した[66][70][71]。これにより、同日に四案が蔵人頭から武家伝奏を経て、天海に手渡された[68]。同日、天海は板倉重昌に四案を手渡している[68]。
7月29日、板倉重昌と林永喜が京都から江戸に下向し、秀忠に神号の四案を届け、そのなかから選んでもらう形となった[72]。そして、秀忠の選んだ神号を奏上することが予定された[72][73]。
9月5日、秀忠が朝廷から提示された四案のうち、東照大権現の神号を選び[74]、11日にその意向が京都に伝えられた[72][65]。秀忠がこの神号を選んだ理由としては、家康が東国の江戸を中心として、新たな武家政権を立ち上げたことを鑑みたためとみられる[28]。また、天海も神号の選定に際し、秀忠に助言したとみられる[73]。
9月3日、天海は家康の神格化への道筋がついたことから、江戸に帰還した[75]。
9月16日、広橋兼勝と三条西実条が勅使として京都から出発し[74]、10月3日に秀忠と江戸城で対面し、「東照大権現」の神号が勅許されたこと伝えた[76]。
神号の宣下
元和3年(1617年)2月21日、家康は朝廷より、「東照大権現」の神号を与えられた[4][77][78]。後水尾天皇が宣命を下し[2]、勅使が久能山の神廟に参向した[79]。
この東照大権現の「東照」の意味するところは、考案者の今出川晴季による勧文が残っていないため、明らかになっていない[4]。「東を照らす」という言葉は仏教の経典において「照于東方」といい、仏教が広まる形容にも使われた[73]。また、東方は古代インドで「前方・前進する」という意味合いを持つ[73]。
なお、神号に選ばれなかった「東光」は「東照」と同義で、東国の人である家康が薬師如来に願掛けして生まれたという伝説から、東方瑠璃光と浄土の薬師如来とも関連づけられると思われる[73]。後水尾天皇が下した東照大権現の宣命に「威風を異邦の域に振ひ、寛仁を率土の間に施す、善を行ふこと敦くして徳顕る」として「其の霊を崇びて東関の奥域」に祀ると記されていることや、二条昭実が「日本」の文字を勧進した際に「武威既及秋津洲乃外」としていたこと、「東光」の文字を勧進した際に「東ハ四季ノ始マリ」であり、家康の「本地薬師」で「瑠璃方世界ノ方」にも叶うこと、さらに「光ハ日タリ、則日輪東ヨリ出、一天ノ照シ、万民ヲ撫タルニ相似欤」としていたことを踏まえ、「日本」と「東光」の文字に込められた当時の関白である昭実の思念が「東照」にも反映されていたと考えられる[80]。
神号授与の宣命に家康の功績として、「威風を異邦の域に振ひ」と記されているのは、当時の日本の対外情勢とみられる[28]。家康はその晩年より、キリスト教を禁止する方針(禁教令)を打ち出しており、秀忠もそれをさらに強化していた[28]。家康や秀忠は日本が「神国」「仏国」であるという論理によって、キリスト教の弾圧を正当化していた[28]。つまり、家康の神格化は「神国」「仏国」である日本を、キリスト教から守護するという意味も込められていたとみられる[28]。
日本のみならず、東ユーラシアでも情勢が大きく動いていた[28]。当時、北方民族の女真が再結集し、明に対する圧迫を強めていたからである[28]。日本では二度の元寇を経て、モンゴル帝国が「強大な異国」として警戒されており、それは江戸時代になっても続いていた[28]。
つまり、家康の神格化は、当時の対外情勢とも関連付けられるものであった[28]。日本がキリスト教や東ユーラシアの国外勢力の脅威にさらされるなかで、秀忠らは家康を政権と日本全域を護持する軍神(武神)・守護神として祀り、神として脅威に対峙させようとしたといえる[28]。
さらなる神格化

元和3年3月9日、朝廷は神としての家康、つまり東照大権現に対し、正一位の神階を贈った[33][77]。
4月17日、家康の一周忌にあたるこの日、天海の指揮により、久能山から日光への正遷宮が行われた[35][78]。朝廷からは、大勢の門跡や公卿らが派遣され、天皇も「東照大権現」の勅額を下賜している[81]。その後、翌18日に「東照社法事」が、19日には「薬師堂供養・開眼供養」が行われた[82]。
6月4日、秀忠によって派遣された高家の大沢基宿が御礼のため、参内した[81]。勅使下向や勅額下賜に対する御礼として、金100枚が献上された[81]。
元和4年(1618年)閏3月17日、江戸城の紅葉山に東照社が勧進された[35]。以後、家康の命日には将軍が参拝することが慣例となった[35]。
家康が日光の東照社の社殿を簡素にするよう遺言していたにもかかわらず、3代将軍の徳川家光は寛永13年(1636年)4月17日の家康の二十一回忌(東照大権現二十一神忌)にあわせ、社殿を壮麗なものとした[35][83]。また、家光はその造営時、天海に『東照社縁起』の作成を命じている[84]。
家光は自身を家康の再来、つまり「二世権現」と自負しており、社殿を壮麗化することにより、神として家康がもつ力を高め、それを継承する姿勢を見せた[35][85]。また、家光の代から李氏朝鮮の使節(朝鮮通信使)や琉球王国の使節(江戸上り)も江戸から日光の東照社を参拝させられるようになったが、それは徳川氏が東照大権現の威光によって異国を従えているという演出のためであった[35]。
寛永17年(1640年)4月17日、家光は家康のニ十五回忌(東照大権現二十五神忌)法要の際、日光の東照社へ参拝を行い、その帰還後には在府の東北・西国の大名らも参拝している[86]。この法要は、家光が島原の乱鎮圧後のポルトガルやオランダとの対応によって生じた対外情勢の緊迫化を受け[87]、東照大権現を「国家を鎮める軍神」として、集結した大名らに結束を誓わせたものとみられる[7][88]。
正保2年(1645年)11月3日、東照社が宮号宣下を受け、東照宮となった[32][77]。この宮号は、菅原道真を天満大自在天神として祀った天満宮を除き、皇祖神を祀る場合にのみ許されてきたものであった[89][90]。宮号を得たことにより、伊勢神宮や石清水八幡宮と並ぶ形となった[77]。
これは、寛永20年(1643年)10月に徳川和子(家光の妹)の養子である後光明天皇が即位し、徳川氏が実質的に外戚の立場を得たことにより、天皇家との関係が安定したことを世に示すため、東照大権現を伊勢神宮の主祭神たる天照大神と同格とした、という見方がある[35]。また、宮号宣下の翌年以降は朝廷から東照宮に奉幣使も派遣されるようになり、幕府はそれと並行して伊勢神宮への奉幣使も復活させたが、その意図は東照大権現を祀る東照宮を皇祖神が祀られる伊勢神宮に匹敵する存在に高めようとするためだったとみられる[32]。
家光は宮号宣下の実現にあたり、酒井忠勝と今川直房に武家伝奏の今出川経季と先例について相談させている[91]。その際、先例として挙げられたのは「元寇の際、伊勢神宮の風社が神風を吹かせた功労により、宮号を賜った(風宮)」ことが先例とされた[91]。この先例は、家光が当時直面していたキリスト教流入を巡るポルトガルとの関係悪化や、中国大陸で明が滅び、清に王朝交代(明清交替)するといった東アジア情勢の流動化といった問題に照らしても、妥当なものであった[92][93]。つまり、家光は対外情勢の深刻化を鑑み、軍神たる東照大権現の力を高め、天照大神や八幡大菩薩との連合を強化させ、それらと比肩する存在にしようとしたとみられる[93]。
東照大権現を祀る東照宮も、徳川義直や徳川頼宣といった家康の子息や諸大名によって、各地に勧進されるようになった[94]。家康の子息には、徳川氏一門という立場から祭祀の分担が認められた[95]。また、諸大名は徳川氏との主従関係によって、「東照大権現-徳川将軍家-大名家」という序列を可視化し、自身の領国統治の正統性を家臣や領民に示す意図があった[95]。
さらに、日本の国境地帯にも東照宮が勧進されることがあったが、それは東照大権現の宣明にある「威風を異邦の域に振ひ」という言葉にあるように、その神威によって日本を守護しようという試みであった[95]。実際、朝鮮と国境を接していた対馬の宗氏は、正保元年(1644年)に中国大陸で明から清に王朝交代した事態から、翌年に東照宮の勧進を認められた[95]。その後、ロシア帝国の東方進出が進むと、北海道の箱館や択捉島にも東照宮が勧進された[6]。
このように、東照宮が国境地帯にまで勧進されたことで、徳川氏による日本支配が安定するとともに、東照大権現の祭祀を広めることにも繋がっていった[6]。
明治以降
明治維新により、江戸幕府は打倒され、徳川氏も政権を失った[6]。結果として、東照大権現を祀る東照宮の権威が落ち、維新前にはおよそ700社あった各地の東照宮も廃社されたり、合祀されたりすることが相次いだ[6]。維新期に消滅した東照宮としては、江戸城内にあった紅葉山東照宮(江戸開城後に明治政府から撤去を命じられた徳川宗家が破却)[96]、大坂にあった川崎東照宮(反徳川の風潮の下、境内が造幣寮に充てられる形で廃絶)[97]、若松城内にあった東照宮(会津戦争で焼失)などが挙げられる。
また、同時期の神仏分離と廃仏毀釈の影響は、薬師如来を本地としていた東照大権現の祭祀にも及び、各東照宮では仏教要素の排除を図る動きが起こった。久能山東照宮では、本地堂から薬師如来像を移動して日枝神社に改め、五重塔を解体した[98]。日光東照宮では、それまでの輪王寺や日光二荒山神社との一体的な運営から二社一寺の分立形式に改められ、仏教色の強い宝物類が輪王寺に移されるなどした[99]。ほか、上野東照宮が寛永寺から、芝東照宮が増上寺からそれぞれ独立した例や、名古屋東照宮や紀州東照宮のように神宮寺を廃した例も見られた。
そのうえ、明治天皇が大坂に行幸した際、豊臣秀吉を称賛したことにより[100]、家康が秀吉から剥奪した豊国大明神の神号も復活するに至った[12][101]。とはいえ、天皇は家康から東照大権現の神号を剥奪するようなことはせず、明治9年(1876年)6月に日光へ行幸した際には、日光東照宮を訪れている[102][注釈 6]。
現代において、100社を超える東照宮が現存しており、東照大権現はそれらの主祭神として祀られている[6]。
宣命
贈東照大権現
天皇我詔旨良萬止、故柳營大相國源朝臣爾詔倍止、敕命乎聞食止宣、振威風於異邦之域比、施寬仁於率土之閒須、行善敦而德顯留、身既沒而名存勢利、崇其靈氐、東關乃奧域爾大宮柱廣敷立氐、吉日良辰乎撰定氐、東照乃大權現止上給比治賜布、此狀乎平介久安介久聞食氐、靈驗新爾天皇朝廷乎寳位無動久、常磐堅磐爾夜守日守爾、護幸給比氐、天下陞平爾、海內靜謐爾、護恤賜倍度、恐美恐美毛申賜閇久止申 元和三年二月廿一日 — 日光東照宮文書
- 天皇(すめら=後水尾天皇)が詔旨(おほみこと)らまと、故柳営大相国(もとのりうえいだいそうこく)源朝臣に詔(のら)へと、勅命(おほみこと)を聞食(きこしめせ)と宣(のたま)ふ、威風を異邦(とつくに)の域(さかひ)に振(ふる)ひ、寛仁を率土の間に施す、善を行ふこと敦(あつ)くして徳顕(あらは)る、身既に没(みまか)りて名存せり、其の霊(みたま)を崇(たふと)びて東関(あづまのくに)の奥域(おくつき)に大宮柱(おほみやはしら)広敷立(ひろしきた)て、吉日良辰(よきひのよきとき)を択(えら)び定めて、東照の大権現と上(のぼ)せ給ひ治め賜ふ、此の状(さま)を平(たいら)けく安(やすら)けく聞食(きこしめ)して、霊験(みしるし)新たに天皇(すめら)が朝廷(みかど)を宝位(あまつひつぎ)動くこと無く、常磐(ときは)に堅磐(かきは)に夜守日守(よのまもりひのまもり)に、護(まもり)幸(さきは)ひ給ひて、天下昇平(あめがしたむくさか)に、海内静謐(くぬちおだひ)に、護(まもり)恤(めぐみ)賜へと、恐(かしこ)み恐みも申し賜はくと申す 元和三年(1617年)二月二十一日
贈正一位
東照大權現贈正一位敕宣、仰太政大臣御諱、幼少之從昔敵之囲陣仁閒連、其囲於遁禮、若年之從時心武久、長年志而古代之名將爾越而、武威於日本爾輝志、逆亂於治、庶民安閑之思乎成、是彼朝臣我忠功多利、依而在世之忠義尾感志、神靈登仰、東之守護神多羅旡事尾敕命有而、宣旨尾宣給布 元和三年三月九日 — 日光東照宮文書
- 東照大権現に正一位(おほいひとつのくらゐ)を贈る勅(おほみこと)宣(のたま)ふ、仰(そも)太政大臣(おほいまつりことのおほいまちきみ)御諱(おんいみな)、幼少(おさな)き昔より敵の陣に囲まれ、その囲(かこみ)を遁(のが)れ、若年(わかきよはひ)の時より心武(たけ)く、長年(ながきとし)にして古代の名将に越えて、武威(たけきいかしきさま)を日本(ひのもと)に輝(かがやか)し、逆乱(あらがひみだるるよ)を治め、庶民(あをひとぐさ)安閑(うらやすし)の思(おもひ)を成す、是(これ)彼の朝臣が忠功(まめなるいさをし)たり、依って在世(うつしよ)の忠義(まめなるつかへ)を感じ、神霊(みたま)と仰ぎ、東の守護神(まもりのかみ)たらむ事を勅命(おほみこと)有りて宣旨を宣給(のりたま)ふ 元和三年 (1617年)三月九日
脚注
注釈
- ↑ 以心崇伝の『本光国師日記』におけるこの記述は、4月4日に記されたものであり、そこから「一両日以前」なので、4月2日か4月3日のことになる[14]。
- ↑ 『新蘆面命』上によると、天海は老中から明神号が悪く、権現号はよいとする証拠を出すよう求められた際、「明神は悪し、豊国大明神を見やれ、あれが能か」と述べたという[34]。
- ↑ 後陽成上皇は天皇在位中、慶長14年(1609年)に発生した猪熊事件(公家と官女の密通事件)の処罰を巡り、家康と確執があった[56]。後陽成は関与者の処刑を望んだが、家康が聞き入れなかったために反発し、慶長15年(1610年)に後水尾天皇に譲位している[57]。
- ↑ なお、昭実は3日前の7月24日、壬生孝亮を召し出し、「日本大権現」と「東光大権現」の神号を書き直すことを指示している[68]。ここでいう書き直しは清書のことであるとみられる[68]。
- ↑ 史料によっては、「霊威大権現」と記されているものもある[65]。
- ↑ 6月7日、明治天皇が日光東照宮を訪れて、東照大権現の神体である家康の像を見たことが、供奉した東久世通禧や木戸孝允の日記に記されている[103]。
出典
- ↑ 柴 2017, p. 10.
- 1 2 渡邊 2024, p. 495.
- ↑ 野村 2019, p. 15.
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