おうよう けい | |
|---|---|
| 生誕 | 896年 |
| 死没 |
971年 洛陽 |
| 職業 | 政治家、詩人、詞人、文学者 |
| 代表作 | 『花間集』序 |
欧陽 炯[1][2](おうよう けい、896年(乾寧3年) - 971年(開宝4年))は、中国五代十国時代の後蜀の大臣、花間派詞人。字は不詳。益州華陽県(現在の四川省成都市双流区)の人。父は唐の通泉県(現在の四川省遂寧市射洪市)令欧陽珏[注 1]。
生まれは唐の昭宗の乾寧3年(896年)、欧陽炯は若くして前蜀の後主王衍に仕えて中書舎人となり、蜀が亡びると後唐に帰順し、秦州(現在の甘粛省天水市)従事となる。孟知祥が西川節度使に任じられると、欧陽炯は西川(益州)に戻った。その後、西川節度使に任じられた孟知祥が成都を拠点に自立し、後蜀を建てると、欧陽炯は今度は孟知祥に仕え、再び中書舎人となる。広政12年(949年)、後主孟昶は彼を任命して翰林学士とし、950年、欧陽炯は知貢挙・判太常寺。礼部侍郎に遷り、陵州(現在の四川省眉山市)刺史を拝領し、吏部侍郎に転じ、承旨を加贈された。961年。欧陽炯は門下侍郎兼戸部尚書・平章事・監察国史を拝し、宰相となった。965年、宋の太祖が後蜀を滅ぼすと、欧陽炯は宋に帰順し、右散騎常侍となり、にわかに翰林学士に充てられ、左散騎常侍に転じた。
太祖の開宝4年(971年)、宋が南漢を滅ぼすと、彼は南海を祭る一件で、太祖の弟の趙光義に罪を得て、本官西京[注 2]分司[注 3]を以て卒した。年は76歳、工部尚書を追贈された。
長笛を吹くのが上手で、宋の太祖は偏殿[注 4]まで召し出して吹かせたという[3]。また詞に巧みであり、風格は極めてなよやかな趣で、女子の心の有様を写すのが上手である。鄭振鐸は、欧陽炯を「『花間集』中、温(温庭筠)・韋(韋荘)の後を継ぐに堪うる一大作家である」と評している[4]。
また、詩の代表作として、『貫休応夢羅漢画歌』『題景煥画応天寺壁天王歌』等がある。
| 巫山一段雲[* 1] | ||
|---|---|---|
| 白文 | 書き下し文 | 訳文 |
| 春去秋來也[* 2] | 春去り 秋来たるや[* 2] | 春は去り秋がやって来た |
| 愁心似醉醺[* 3] | 物寂しい気持ちは酔いが身に | |
| 去時邀約[* 4]早回輪 | 去る時 |
別れる時に、また会う約束をすると、早々と車輪を返して去って行く |
| 及去又何曾 | 去るに |
あなたが去る時に今まで何かこんなことってあったかしら[* 5] |
| 歌扇花光黦[* 6] | 歌扇の花光 |
わたしが歌舞に使う扇の花柄は |
| 衣珠滴淚新 | 服に縫い付けた | |
| 恨[* 7]身翻[* 8]不作車塵 | 残念なのは、変身してその車輪に付く土ぼこりとなって | |
| 萬里得隨君 | 万里 君に |
万里の |
| 南郷子[§ 1] | ||
|---|---|---|
| 白文 | 書き下し文 | 訳文 |
| 畫舸停橈 | 彩られた船が櫂を停める | |
| 槿花籬外竹横橋 | 槿(むくげ)の花咲く垣根の外、竹を架け渡した橋のあたり | |
| 水上遊人沙上女 | 水上の遊人 沙上の女 | 水上の船に乗った旅人に河原の砂の上の女性が |
| 迴顧 | 振り返り | |
| 笑指芭蕉林裏住 | 笑って指さす |
笑いながら芭蕉の林を指をさす、あの中に住んでいる、という様子で |
| 春光好[‡ 1] | ||
|---|---|---|
| 白文 | 書き下し文 | 訳文 |
| 花滴露 | 花 露を滴らせ | 花はしとどに露を滴らせ |
| 柳搖煙 | 柳 |
柳は |
| 艷陽天 | 日の煌めく麗らかな春の空 | |
| 雨霽山櫻紅欲爛 | 雨 |
雨が上がって晴れた空に、山桜[‡ 2]が |
| 谷鶯遷 | ||
| 飮處交飛玉斝 | 飲む処 |
飲み会では、 |
| 游時倒把金鞭 | 遊ぶ時 |
遊ぶ時は、気ままに |
| 風颭九衢楡葉動 | 風は |
四方八方に広がる街角の至る所に、風がどっと吹きつけ |
| 簇靑錢 | 青銭を |
緑青ふいた銅銭のような青い楡の実を吹き |
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