武田信宗
武田信宗肖像(呉武田学園蔵)
時代 鎌倉時代後期 - 末期
生誕 文永6年8月1日(1269年8月29日)[1]
死没 元徳2年11月9日(1330年12月19日)[2]
改名 幼名:徳光丸[1][2]
別名 孫六(郎)[1][2]または彦六郎[2]
墓所 周防源氏武田氏屋敷跡
(山口県岩国市玖珂町1685付近)
官位 伊豆守[1][2]、甲斐守[1][2]、駿河守[1][2]、安芸守[1][2]、兵庫頭[1][2]、大膳大夫[1][2]。従四位[3]
幕府 鎌倉幕府安芸国守護職
主君 北条時宗→貞時→高時
氏族 武田氏
父母 父:武田時綱
母:名越朝時娘[1][2]
子 信武
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武田 信宗(たけだ のぶむね)は、鎌倉時代の武将。甲斐源氏第9代当主。武田氏6代当主。第8代当主・武田時綱の子。母は名越朝時の娘と伝わる。第10代当主・武田信武の父。

略歴

文永6年(1269年)8月1日、甲府の館にて生まれる[1]。建治3年(1277年)11月11日、鎌倉において当時の執権・北条時宗を烏帽子親として元服、「宗」の偏諱を与えられて信宗と名乗った[4]。鎌倉幕府の御家人として活躍し、北条氏から信任を受け重用された。

安芸の守護職を得て、安芸銀山城を築城したという。しかし、彼自身が安芸に直接赴いたかどうかは不明である。

元応2年12月11日に出家、光阿または向阿(いずれも読みは「こうあ」か)と号した[5]。元徳2年(1330年)11月9日に死去[1][2]。

「甲斐信濃源氏綱要」には「勅集作者」とあり、歌人でもあったようである[1]。

墓所

実際に安芸国に下向したかは不明である信宗であるが、武田光和の末裔とされる周防武田氏の大正時代の当主・武田甲斐人(呉港高等学校創始者)が佐東銀山城から周防源氏武田氏屋敷跡に移設した宝篋印塔が残っている。

脚注

[脚注の使い方]
  1. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 「甲斐信濃源氏綱要」(『系図綜覧』所収)武田信宗項の傍注による)
  2. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 『系図纂要』武田信宗項の傍注による。
  3. ↑ 「甲斐信濃源氏綱要」(『系図綜覧』所収)では従四位上、『系図纂要』では従四位下とする。
  4. ↑ 「甲斐信濃源氏綱要」(『系図綜覧』所収)の信宗項に「後宇多朝廷建治三年十一月十一元服於鎌倉(年九)、加冠相模守時宗、因例請名、故號名信宗」とあり、『系図纂要』にも「建治三年十一ノ_元服北條時宗加冠號信宗」と同様の記述がある。
  5. ↑ 「甲斐信濃源氏綱要」(『系図綜覧』所収)武田信宗項の傍注より。但し、『系図纂要』では「出家法名光阿」とし、信宗の弟として向阿(傍注:浄華院五世 貞和元年六ノ二寂八十三)を載せる。

参考文献

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