武田義頼

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武田 義頼
時代 室町時代、安土桃山時代 / 戦国時代
生誕 不詳
死没 天正10年(1582年)6月
改名 龍水丸→義頼
別名 六角義頼
幼名:龍水丸 / 法名:崇喜
官位 従四位下・左京大夫
幕府 室町幕府
主君 足利義昭
氏族 若狭武田氏(実近江六角氏)
父母 六角義実、武田義統[注釈 1]
足利義晴娘[注釈 2]
兄弟 六角義秀、義頼
子 武田信統、武田信隆
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武田 義頼(たけだ よしより)は、室町時代から安土桃山時代、戦国時代ごろの武将。近江六角氏に生まれたが、若狭武田氏の養子となった[1][2]。

概要

近江国の守護大名家、六角氏の六角義実(六角隆頼[3])の次男に産まれる[1][2][注釈 1]。生年は不詳、母親は足利義晴の娘[注釈 2]で、幼名は龍水丸[4][5]。

天文17年(1548年)10月9日、生母が若州武田義統の正室となっていた関係で、その養子となる[4][注釈 1]。この際に馬杉実宗と黒田重国を付けられたという[4][注釈 3]。天文17年時点ではまだ龍水丸を称している[4]。

後に元服して武田義頼を称した[1][2]。官位は従四位下・左京大夫であった[1]が任官時期は不明。若狭武田氏のもとで安田作兵衛(後の天野貞成)などの家臣を従えた[6]。精兵かつ大力であったという[2]。

永禄11年(1568年)、亡命中の足利義昭が身を寄せていた越前国の守護朝倉義景は、幕臣細川藤孝の進めを受けて上洛を定めた[7]。この時に義頼は催促に応じ、総勢二万三千余の上洛軍のうち三千の兵を動員したという[7]。しかし、下間頼秀率いる加賀国・能登国・越中国の本願寺門徒衆総勢八万余が朝倉義景の留守に乗じて攻め入ろうとしていると聞き、大いに驚いた義景は同年6月18日の予定であった上洛軍の進発を遅らせた[7]。翌7月、足利義昭は一乗谷を去った[7]。

天正10年(1582年)6月、死去する[8]。法名は崇喜[2]。

次男の武田信隆は、宇喜多家に仕えて関ヶ原の戦いで討死し、子孫は和気郡佐伯村に土着した。

脚注

出典

  1. 1 2 3 4 『六角佐々木氏系圖略』東京大学史料編纂所本14コマ目
  2. 1 2 3 4 5 『源姓武田氏系図』市立米沢図書館本16コマ目
  3. ↑ 『大永六年五月二十八日付青木社中宛六角隆頼願状』
  4. 1 2 3 4 『江源武鑑』国文学研究資料館本151コマ目
  5. ↑ 『岡本豊吉所蔵武田氏系図』東京大学史料編纂所本6コマ目
  6. ↑ 『立花宗茂朝鮮事記』巻末
  7. 1 2 3 4 『細川家記』こと『緜考輯録』国立国会図書館本38コマ目
  8. ↑ 『沙々貴神社所蔵佐々木系図』

注釈

  1. 1 2 3 『岡本豊吉所蔵武田氏系図』によれば実は木曽義実二男で、武田元信(左京大夫、母佐々木定頼女)の養子になったという。ただし、この本では武田義統の子に元信、(信方)、信重、永雄を記し、更に「武田信田ー信景(彦五郎信方)ー信方(彦五郎)」という系譜を記すなど、他系図との大幅な差異、混同がみられる点を留意すべきである。
  2. 1 2 『源姓武田氏系図』によれば足利義時娘。
  3. ↑ 原本による表記は「馬杦権守實宗」と「黒田十内左衛門尉重國」。

参考