段 達(だん たつ、? - 621年6月5日)は、北周から隋にかけての人物。本貫は武威郡姑臧県[1][2]。

生涯

北周のとき、わずか3歳で襄垣県公を承継した[3][4]。長じてからは、身長8尺で、美しい髭をたくわえ、弓馬に熟達していた[5][6]。

楊堅が丞相となり、大都督として兵を領すると、常に段達を左右に置いた[7][8]。

楊堅が隋を開くと、段達は、左直斎(中国語版)となり、車騎将軍に昇任し、晋王楊広の参軍を兼任した[9][10]。

高智慧・李積らが乱を起こした際、段達は、1万の兵を率いて方州・滁州を平定したため、恩賞として、絹布千段が与えられたほか、儀同三司を授けられた[11][12]。

また、宣州において汪文進を破った際には、開府の権限を加えられ、奴婢50口と綿絹四千段が与えられた[13][14]。

仁寿年間の初めには、太子楊広の太子左衛副率(中国語版)となった[15][16]。

大業年間の初めには、旧臣であることを理由に、煬帝(楊広)から左翊衛将軍(中国語版)に任ぜられた[17][18]。

吐谷渾攻略のため西征した際には、金紫光禄大夫に進んだ[19][20]。

煬帝が高句麗攻略のため遼東に進むと、百姓は苦しみ、平原の郝孝徳や、清河の張金称らが乱を起こし、城邑を攻撃したため、郡県はこれを統制することができなかった[21]。煬帝は、段達を出陣させ、張金称らはたびたび敗退し、死傷者の数は甚大であった[22]。反乱軍は、段達を軽視しており、段達のことを「段姥」と呼称していた[23][24]。後に、鄃県県令楊善会の計略を用い、大いに勝利した[25][26]。京師に帰還すると、朝廷から退いた[27][28]。

大業9年(613年)、煬帝が再び遼東へ遠征し、段達は、涿郡の留守となった[29][30]。まもなく、段達は、再び左翊衛将軍となった[31][32]。

高陽郡の魏刀児が十余万を合して歴山飛と称し、燕・趙の地に侵入して騒擾を起こした[33][34]。段達は、涿郡通守郭絢を率いて魏刀児を撃退した[35][36]。当時、反乱軍の数は多数であり、官軍は戦うことを嫌ったため、段達は、勝機がないとして、防衛に専念したが、兵は糧食を消費するのみで、得るものがなく、当時、京師では、段達が臆病であると噂されていた[37][38]。

大業12年(616年)、煬帝は江都に南幸し、詔書を発して段達と太府卿元文都を東都洛陽の留守に任命した[39][40]。李密が瓦崗軍(中国語版)を率いて洛口を拠点とし、兵を率いて城下に侵入して騒擾を起こした際、段達は、監門郎将龐玉(中国語版)と虎牙郎将霍世挙とともに、兵を率いて城外に出て防衛した[41]。この戦いで、段達は功績があったため、驍衛大将軍(中国語版)に昇任した[42][43]。

王世充が敗退すると、李密が北邙山に拠って再び侵攻し、上春門に到達したため、段達は、判左丞郭文懿・戸部尚書韋津(中国語版)とともに出兵して防衛した[44][45]。段達は、瓦崗軍を見るや、戦わずして逃走したため、李密は、これに乗じ、隋軍を大敗させ、韋津が捕虜となったことから、瓦崗軍は日に日に勢力を増大させた[46][47]。

煬帝が江都において宇文化及に殺害されると、段達は、元文都らとともに越王楊侗を即位させ、段達は、開府儀同三司に任ぜられ、納言を兼ね、陳国公に封ぜられた[48][49]。元文都らが王世充を誅殺しようと画策した際、段達は、これを王世充に密告し、王世充に内応した[50][51]。この事件の後、恭帝侗は、元文都を捕えて王世充に差し出すこととなり、王世充は、段達を非常に尊重した[52][53]。

李密が敗れた後、段達らは、恭帝侗をして王世充に九錫を加えさせ、さらに禅譲を行わせた[54][55]。王世充は、鄭の皇帝を自称し、段達は、司徒となった[56][57]。

李世民が東都洛陽を平定した後、段達は誅殺され、妻子は財産を没収された[58][59]。

家族

祖父母

父母

子孫

脚注

  1. ↑ 『隋書』巻85列伝第五十「段達伝」:段達,武威姑臧人也。
  2. ↑ 『北史』巻79列伝第六十七「段達伝」:段達,武威姑臧人。
  3. ↑ 『隋書』巻85列伝第五十「段達伝」:達在周,年始三歳,襲爵襄垣縣公。
  4. ↑ 『北史』巻79列伝第六十七「段達伝」:達在周,年始三歳,襲爵襄垣縣公。
  5. ↑ 『隋書』巻85列伝第五十「段達伝」:及長,身長八尺,美鬚髯,便弓馬。
  6. ↑ 『北史』巻79列伝第六十七「段達伝」:及長,身長八尺,美鬚髯,便弓馬。
  7. ↑ 『隋書』巻85列伝第五十「段達伝」:高祖為丞相,以大都督領親信兵,常置左右。
  8. ↑ 『北史』巻79列伝第六十七「段達伝」:隋文帝為丞相,以為大都督,領親信兵,常置左右。
  9. ↑ 『隋書』巻85列伝第五十「段達伝」:及踐阼,為左直齋,累遷車騎將軍,兼晋王参軍。
  10. ↑ 『北史』巻79列伝第六十七「段達伝」:及踐祚,為左直齋,遷車騎將軍,督晋王府軍事。
  11. ↑ 『隋書』巻85列伝第五十「段達伝」:高智惠、李積等之作亂也,達率眾一萬,撃定方、滁二州,賜縑千段,遷進儀同。
  12. ↑ 『北史』巻79列伝第六十七「段達伝」:以撃高智慧功,授上儀同。
  13. ↑ 『隋書』巻85列伝第五十「段達伝」:又破汪文進等於宣州,加開府,賜奴婢五十口,綿絹四千段。
  14. ↑ 『北史』巻79列伝第六十七「段達伝」:又破汪文進等,加開府。
  15. ↑ 『隋書』巻85列伝第五十「段達伝」:仁壽初,為太子左衛副率。
  16. ↑ 『北史』巻79列伝第六十七「段達伝」:仁壽初,為太子左衛副率。
  17. ↑ 『隋書』巻85列伝第五十「段達伝」:大業初,以藩邸之舊,拜左翊衛將軍。
  18. ↑ 『北史』巻79列伝第六十七「段達伝」:大業初,以藩邸之舊,拜左翊衛將軍。
  19. ↑ 『隋書』巻85列伝第五十「段達伝」:從征吐谷渾,進位金紫光祿大夫。
  20. ↑ 『北史』巻79列伝第六十七「段達伝」:從征吐谷渾,進位金紫光祿大夫。
  21. ↑ 『隋書』巻85列伝第五十「段達伝」:帝征遼東,百姓苦役,平原祁孝德、清河張金稱等並聚眾為羣盜,攻陷城邑,郡縣不能禦。
  22. ↑ 『隋書』巻85列伝第五十「段達伝」:帝令達撃之,數為金稱等所挫,亡失甚多。
  23. ↑ 『隋書』巻85列伝第五十「段達伝」:諸賊輕之,號為段姥。
  24. ↑ 『北史』巻79列伝第六十七「段達伝」:帝征遼東,平原郝孝德、清河張金稱等並起為盜,帝令達撃之,數為金稱等所挫,諸賊輕之,號為段姥。
  25. ↑ 『隋書』巻85列伝第五十「段達伝」:後用鄃令楊善會之計,更與賊戰,方致剋捷。
  26. ↑ 『北史』巻79列伝第六十七「段達伝」:後用鄃令楊善會謀,更與賊戰,方致克捷。
  27. ↑ 『隋書』巻85列伝第五十「段達伝」:還京師,以公事坐免。
  28. ↑ 『北史』巻79列伝第六十七「段達伝」:還京師,以公事坐免。
  29. ↑ 『隋書』巻85列伝第五十「段達伝」:明年,帝征遼東,以達留守涿郡。
  30. ↑ 『北史』巻79列伝第六十七「段達伝」:明年,帝征遼東,使達留守涿郡。
  31. ↑ 『隋書』巻85列伝第五十「段達伝」:俄復拜左翊衛將軍。
  32. ↑ 『北史』巻79列伝第六十七「段達伝」:俄復拜左翊衛將軍。
  33. ↑ 『隋書』巻85列伝第五十「段達伝」:高陽魏刀兒聚眾十餘萬,自號歴山飛,寇掠燕、趙。
  34. ↑ 『北史』巻79列伝第六十七「段達伝」:高陽魏刀兒聚眾,自號歴山飛,寇掠燕、趙。
  35. ↑ 『隋書』巻85列伝第五十「段達伝」:達率涿郡通守郭絢撃敗之。
  36. ↑ 『北史』巻79列伝第六十七「段達伝」:達率涿郡通守郭絢撃敗之。
  37. ↑ 『隋書』巻85列伝第五十「段達伝」:于時盜賊既多,官軍惡戰,達不能因機決勝,唯持重自守,頓兵饋糧,多無剋獲,時皆謂之為怯懦。
  38. ↑ 『北史』巻79列伝第六十七「段達伝」:時盜賊既多,達不能因機決勝,唯持重自守,時人皆謂之為怯懦。
  39. ↑ 『隋書』巻85列伝第五十「段達伝」:十二年,帝幸江都宮,詔達與太府卿元文都留守東都。
  40. ↑ 『北史』巻79列伝第六十七「段達伝」:十二年,帝幸江都宮,詔達與太府卿元文都等留守東都。
  41. ↑ 『隋書』巻85列伝第五十「段達伝」:李密據洛口,縱兵侵掠城下,達與監門郎將龐玉、武牙郎將霍舉率内兵出禦之。
  42. ↑ 『隋書』巻85列伝第五十「段達伝」:頗有功,遷左驍衛大將軍。
  43. ↑ 『北史』巻79列伝第六十七「段達伝」:李密縱兵侵掠城下,達與監門郎將龐玉、武牙郎將霍世舉禦之,以功遷左驍衛大將軍。
  44. ↑ 『隋書』巻85列伝第五十「段達伝」:王充之敗也,密復進據北邙,來至上春門,達與判左丞郭文懿、尚書韋津出兵拒之。
  45. ↑ 『北史』巻79列伝第六十七「段達伝」:王世充之敗也,密進據北邙,來薄上春門,達與判戸部尚書韋津拒之。
  46. ↑ 『隋書』巻85列伝第五十「段達伝」:達見賊盛,不陣而走,為密所乘,軍大潰,津沒於陣。由是賊勢日盛。
  47. ↑ 『北史』巻79列伝第六十七「段達伝」:達見賊,不陣而走,軍大潰,津沒於陣。
  48. ↑ 『隋書』巻85列伝第五十「段達伝」:及帝崩於江都,達與文都等推越王侗為主,署開府儀同三司,兼納言,封陳國公。
  49. ↑ 『北史』巻79列伝第六十七「段達伝」:及帝崩于江都,達與文都等推越王侗為主,署開府儀同三司,兼納言,封陳國公。
  50. ↑ 『隋書』巻85列伝第五十「段達伝」:元文都等謀誅王充也,達陰告充,為之内應。
  51. ↑ 『北史』巻79列伝第六十七「段達伝」:元文都等之謀誅王世充,達預焉。既而陰告世充,達為之内應。
  52. ↑ 『隋書』巻85列伝第五十「段達伝」:及事發,越王侗執文都於充,充甚德於達,特見崇重。
  53. ↑ 『北史』巻79列伝第六十七「段達伝」:及事發,迫越王送文都於世充,世充甚德于達。
  54. ↑ 『隋書』巻85列伝第五十「段達伝」:既破李密,達等勸越王加充九錫備物,尋諷令禪讓。
  55. ↑ 『北史』巻79列伝第六十七「段達伝」:既破李密,諷越王禪讓。
  56. ↑ 『隋書』巻85列伝第五十「段達伝」:充僭尊號,以達為司徒。
  57. ↑ 『北史』巻79列伝第六十七「段達伝」:世充僭號,以達為司徒。
  58. ↑ 『隋書』巻85列伝第五十「段達伝」:及東都平,坐誅,妻子籍沒。
  59. ↑ 『北史』巻79列伝第六十七「段達伝」:及東都平,坐斬,妻子籍沒。
  60. ↑ 『隋書』巻85列伝第五十「段達伝」:父嚴,周朔州刺史。
  61. ↑ 『北史』巻79列伝第六十七「段達伝」:父岩,周朔州刺史。

参考文献

⌬ Phoenix Mesh CID: 未登録 IPFS未登録 📡 0ピア N=1 CRITICAL PQS C40