波多野義重
| 時代 | 鎌倉時代中期 |
|---|---|
| 生誕 | 不明 |
| 死没 | 正嘉2年2月20日(1258年4月2日) |
| 改名 | 宣政(初名)→義重→如是(法名) |
| 別名 | 通称:五郎、出雲前司 |
| 戒名 | 大仏寺殿如是源性大居士 |
| 幕府 | 鎌倉幕府 六波羅評定衆 |
| 主君 | 北条重時 |
| 氏族 | 相模波多野氏 |
| 父母 | 父:波多野忠綱(忠経とも) |
| 妻 | 北条重時娘 |
| 子 | 河尻宣時、野尻時光、義泰 |
| 特記 事項 | 曹洞宗大本山永平寺開基 |
略歴
相模波多野氏は相模国波多野荘[1]を本拠としており、南波多野荘が重時の所領となったことからその被官となったと見られる。
波多野忠綱(忠経とも)の子として誕生した。初名は宣政。
承久3年(1221年)の承久の乱では、右目に矢を受けながらも敵に矢を射返して奮戦した。重時やその子長時、時茂が六波羅探題を務めた時期には、六波羅評定衆として彼らを補佐した。京都新日吉神宮の小五月会では流鏑馬を担当している。
宝治元年(1247年)11月、鶴岡八幡宮放生会で随兵を務めた際、同じく随兵を担当した三浦盛時と序列を巡って諍いを起こしている。
曹洞宗との関わり
義重は六波羅探題での役目柄や屋敷が建仁寺の隣にあった縁で[2]日本曹洞宗の開祖道元と早くから親交があり、深く帰依してその活動を援助した。興聖寺が比叡山の衆徒から焼き討ちにあった際には、地頭として所領を持っていた越前国志比荘に招聘し、土地を寄進して永平寺の建立に貢献した[3]。同仏殿内に像が祀られている。
現在、彼の子孫は曹洞宗の檀家筆頭に位置づけられている[4]。
関連作品
- 映画
脚注
- ↑ 現神奈川県秦野市。
- ↑ 『楽学ブックス 道元禅師の寺を歩く』(永平寺、JTBパブリッシング、2007年)
- ↑ 『福井県史』通史編2 中世>「第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領」>「第七節 中世前期の信仰と宗教」>「二 道元と永平寺」
- ↑ NHK>新日本風土記>永平寺