清原広澄

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清原広澄
時代 平安時代中期
生誕 承平4年(934年)[注釈 1]
死没 寛弘6年(1009年)
官位 正五位下、明経博士
主君 花山天皇→一条天皇
氏族 海(あま)宿禰→清原真人
父母 海業恒[2]
兄弟 正澄、善澄?[1]、広澄、近澄[2]
子 頼隆(近澄の子)
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清原 広澄(きよはら の ひろずみ)は、平安時代中期の貴族・儒学者。左大史・海業恒の子。官位は正五位下・明経博士。広澄流清原氏の氏祖。

出自

出自は諸説あるが、海氏(海宿禰)出身が定説(詳細な議論は清原氏 (広澄流)#出自を参照)。太田亮は、海氏の中でも特に天武天皇の時代の凡海氏(大海氏)の凡海麁鎌の子孫と主張した[3]。

経歴

小野吉柯の門人。直講を経て、寛和元年(985年)権少外記に任ぜられると、寛和2年(986年)少外記、永延元年(987年)大外記と一条初期に外記を務めながら急速に昇任し、永延2年(988年)従五位下に叙爵して、外記局を離れた。

大隅守などの地方官を務めたのち、明経道助教として京官に復し、長保4年(1002年)明経博士に任ぜられた。寛弘元年(1004年)海宿禰から清原真人に改姓し、位階は正五位下に至る。

寛弘6年(1009年)7月5日卒去。享年76。跡を養嫡子の頼隆(弟の近澄の子)が継いだ[4]。

死後、大江匡房の『続本朝往生伝』(1100年ごろ)では、一条天皇治世下(986–1011年)の代表的な明経道の儒学者について、善澄と広澄が双璧として語られている[4]。

官歴

注記のないものは『外記補任』による。

系譜

  • 父:海業恒
  • 母:不詳
  • 妻:不詳
  • 養子

脚注

注釈

  1. ↑ 『尊卑分脈』記載の没年と数え年[1]からの逆算。

出典

  1. 1 2 鈴木 1987, p. 21.
  2. 1 2 3 4 5 『尊卑分脈』
  3. ↑ 太田 1934, pp. 1985–1986.
  4. 1 2 3 鈴木 1987, p. 6.
  5. ↑ 『権記』

参考文献

  • 太田亮「清原 キヨハラ」『姓氏家系大辞典』 第2、上田萬年、三上参次監修、姓氏家系大辞典刊行会、1934年、1980-1989頁。全国書誌番号:47004572。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1130938/84。  オープンアクセス
  • 鈴木, 理恵「明経博士家中原・清原氏による局務請負と教育」『日本の教育史学』第30巻、1987年、4-23頁、doi:10.15062/kyouikushigaku.30.0_4。  閲覧は自由