狂気の歴史
『狂気の歴史』(きょうきのれきし、フランス語: Histoire de la folie à l'âge classique)は、ミシェル・フーコーの1961年の著作で、西欧の歴史において狂気を扱った文化と法律、政治、哲学、思想、制度、芸術そして医学などにおける、狂気の意味の展開の考察であり―そして歴史の理念及び歴史学研究法の理念の批判である。
刊行本
フランス語原著初版
フランス語の教師をしていたスウェーデンのウプサラで第一稿が書かれたが(ウプサラ大学図書館の医学文庫が重要な役割を果たした)、スウェーデンにおける博士論文提出を拒否され、その後ワルシャワ、パリで完成された。『狂気の歴史』はソルボンヌ大学に博士論文として提出され(審査員はジョルジュ・カンギレム、ダニエル・ラガーシュ)、同時に『狂気と非理性、古典主義時代における狂気の歴史』というタイトルで1961年にプロン社から出版された。
初版の3分の1の分量[1]のフランス語版縮約版は1964年に出版された。
フランス語原著第2版
その後、1972年、初版の序文を削除した現在の版『古典主義時代における狂気の歴史』が、ガリマール社「歴史学叢書」から再刊された[2]。
英語訳
英語版は、フランス文学研究者で文芸評論家のリチャード・ハワードの翻訳で、原著の3分の1ほどの フランス語縮約版(1964年)を底本とした『Madness and Civilization(狂気と文明)』の題で1967年に出版された[3]。
全訳販は、ステファヌ・クルトワらの『共産主義黒書』の訳者でもあるジョナサン・マーフィーと、フランス思想研究者のジーン・カルファによる共訳で『 History of Madness(狂気の歴史)』の題で2006年に出版された[4]。
日本語訳
- 田村俶 訳『狂気の歴史:古典主義時代における』新潮社、1975年。ISBN 4-10-506702-8。
理論

「狂気の歴史」というタイトルは、決して自明のものではない。なぜなら、フーコーの目的は、精神疾患を医学的カテゴリーにおいて説明することではなく、西欧において変容してきた狂気の内実を歴史的な次元においてとらえることにあったからである。それは、彼以前の人間科学が歴史的実践をなおざりにしてきたことへの批判でもあった[5]。フーコーは、その「歴史」を癩病患者が社会的にも物理的にも排除されていた中世まで遡る。そして、癩病は次第に姿を消していき、狂気がそれに代わって排除されるべきものとなったと彼は言う。狂った人間を舟に乗せて送り出したという15世紀の「阿呆船」は、文字通りその排除が一つの形をとったものであった。しかし、ルネサンス期には、狂気がきわめて豊饒なる現象として扱われるようになる。なぜなら、狂人とは、「人は神の理性(Reason of God)には近づきえない」という思想の体現だったからである。セルバンテスの『ドン・キホーテ』にみられるように、あらゆる人間は欲望と異物に弱いものだ。したがって、正常でない人間を神の理性に接近しすぎた存在と見なす考えは、中世社会で広く受け入れられていた。ボッシュやブリューゲルの絵画に表象されているものこそ「狂気」である。それは、死の不安であり、宇宙の混沌である。しかし、ルネサンス以降、この狂気は、それまでのイメージ(画像)から、エラスムスの「痴愚神礼賛」がその典型であるように言語のレベルに移される。そしてこのとき、狂気は、夢想的・宇宙的な強迫観念を離れ、理性との関係においてとらえられるようになった。あるいは、より人間的なものに限定されたとも言える[6]。
17世紀になってはじめて、フーコーが「大監禁時代」と表現したことで知られる潮流が起る。「理解不能な」人間たちが、システマティックに監禁され、収容されていった。18世紀には、狂気は、理性そのものを観察するかのように扱われるようになった。つまり、狂人は彼らを人間足らしめていたはずの何かを失い、動物じみた存在になってしまったと考えられ、そしてまた実際彼らは動物のように扱われた。19世紀にはいると、たとえばピネルやフロイトが登場することで、はじめて狂気が精神の不調であり、治療することのできるものと考えられるようになる。大規模な監禁が行われたのは、17世紀ではなく、この19世紀だと主張する歴史家もわずかに存在するほどだ[7] 。また、こういった事実は、フーコーの理論の土台を揺るがせる批判でもある。つまり、啓蒙時代と狂人の抑圧との歴史的つながりが、危うくなってしまうのだ。
しかし、学者としてのフーコーが示したのは、狂人のために特化した医療施設ではなく、社会的なアウトサイダーを監禁するための施設が造られたということである。そこには、狂人だけでなく、浮浪者、失業者、虚弱者、孤児なども含まれていた。そういった人間たちみなを監禁するための施設が、西欧社会における狂人と狂気の概念にどのような影響を与えたのか。フーコーは、そのことを問題にしていたのである。そこでは、「貧困」にあったはずの聖なる意味(貧者としてのキリスト)が失われ、「狂気」もまた想像力と切り離されて、公共性の問題に結びつけられたのだ[8]。
フーコーの考察の射程は、それに留まらない。彼が示してみせたのは、社会から締め出された人間をこのように「監禁」することが、ヨーロッパではごく一般的だったということである。フランスでも、ドイツやイギリスなど他の国々でも、それぞれ独自にこの監禁は行われ、その仕組みは発達していった。このことは、フーコーが西欧における狂気の歴史を一般化するためにフランスでの事象を取り上げたという批判が当たらないことを示している。ロイ・ポーターのような史家のなかにも、そのような反論を退け、フーコーの著作のもつ革新的な本質を認めようとしなかった過去の批判を撤回する者もではじめている[9]。
ルネサンス期における狂気は、社会的秩序の限界を示し、より深いところにある真実を照らし出す力を持っていた、ともフーコーは主張している。それは啓蒙の光の前に沈黙させられていたものだ。近代における、フィリップ・ピネルやサミュエル・チュークの手になる狂人の科学的、「人間学的」な扱いの登場についてもフーコーは考察している。彼の主張によれば、そういった近代的な扱い方は、それまでの手法と何らかわるところがない。チュークの国では、狂人とされた人間は、その狂気を手放さないあいだは、罰を与えられるところまで後退していた。同じように、ピネルの狂人の処置もまた嫌悪療法の延長であった。凍えるような水を浴びせたり、拘束衣を用いたりして刺激を与えるのである。フーコーから見れば、このような扱いは、罪と罰の定型が患者のうちで内面化されるまで繰り返される蛮行に等しかった。
論争
デリダとの論争
ジャック・デリダは1963年、コレージュ・フィロゾフィックにおいて「コギトと狂気の歴史」を発表し、同書を批判した。デリダは、この発表への出席を促す手紙をフーコーに送っていたが[10]、フーコーは出席しなかった。その後、この論文は、括弧で囲まれた短い一節が挿入された形で、1963年に『形而上学・道徳評論』誌に掲載された[11]。同論文への補足的な注記は1964年の同誌次号に掲載され、1967年の論文集『エクリチュールと差異(L'écriture et la différence)』に収録される際にさらなる改訂が加えられた。
デリダは、1961年の初版「序文」と、古典主義時代の幕開けにおいて「狂気」を沈黙させた歴史的出来事とデカルトを結びつけて論じている第2章冒頭を扱った。
フーコーは第2章冒頭で、デカルト『省察』の中での狂気の扱いを論じた。デカルトは、外界や自身の身体の存在を疑った後、狂気という反論を自らに突きつける。デカルトにとって「これらの手やこの身体が自分のものである」ことを否定するのは、「全裸であるのに紫や金の衣をまとっていると思い込んだり、自分を水差しだとかガラスの身体だとか想像する」ような「分別を欠いた人々」と同じような主張をすることに等しい。そして、「彼らは狂人(amentes)であり、もし私が彼らの例に従うならば、私もまた彼らと同様に常軌を逸した者(demens)となるだろう」と述べる。続いてデカルトは「夢の仮説」を取り上げ、数学の疑いようのない真理とは異なり、知覚とは単なる夢にすぎず、現実のものではないのではないかと問いかける。さらに、確実性や理性的な根拠でさえも「悪霊(デカルトの悪魔)」による欺瞞にすぎないのではないかという反論が持ち出される。フーコーによれば、狂気の経験と「方法的懐疑(誇張法的懐疑、hyperbolic doubt)」は全くの別物であり比較しうるものではない。「コギト (私は考える)」という主体に対して狂人は思考しない存在であり、狂人の経験はそもそも考慮の対象にさえなり得ない[12]。フーコーは、デカルトのコギトこそが、狂気の排除と「大いなる監禁」という措置の前提であったとし、デカルトによる狂気の排除は、恣意的に自らの合理性を確信しているような「コギト」へと至ると論じた。
これに対して、デリダは次のように論じる。デカルトは、フーコーが言及する『省察』の箇所の直後、自身の思考を操る「悪魔」の可能性を検討する際には、狂気を懐疑の根拠として真剣に捉えている。デカルトは、悪魔が算術のような最も確実で理にかなった判断さえも歪めうるという仮説を立てる際、自らが狂気に陥っている可能性も含めている。したがって、デカルトの『第二省察』における手続きは、たとえ「悪魔」によって狂気に追いやられたとしても、「コギト・エルゴ・スム(我思う、ゆえに我あり)」は真であることを証明しようとする。「私が狂っていようがいまいが、コギト(我思う)であり、スム(我あり)である」「たとえ私が狂っていようとも、たとえ私の思考が全面的に狂気の状態にあろうとも、コギト(我思う)という行為は妥当性を保つ」[13]。デリダにとって、デカルト的な理性は、自らと異なるものを排除するのではなく、むしろ狂気を認めるものである。こうして理性は、自らとは異なる「他者」を、自らの内部に見出す。デリダは、狂気はデカルトによって恣意的に排除される対象ではなく、デカルトの「悪魔」の考察では、自らの言語や「自己省察」という企図が持つ秩序ある作用的規範によって、自らの確信を取り戻すことになる。
また、デリダはセーレン・キェルケゴールの『おそれとおののき』での「決断の瞬間は狂気である」を引用する[14]。キェルケゴールが決断の瞬間を「狂気」と特徴づけたのは、ある選択肢が他よりも明らかに優れているわけではなく、どちらの選択肢がより良いかを理性が示せない状況においてこそ真に「選択」を行う必要が生じるからであった。また、ジェイムズ・ジョイスが自分の小説『ユリシーズ』について語った「いずれにせよ、この本は極めて大胆なものだった。狂気との間には、透明な一枚の薄い膜があるだけなのだ。」をデリダは引用した[15][14]。なおデリダが造語「差延(différance)」を初めて用いたのはこの論文においてであった[16]。
デリダの批判によって、デリダとフーコーの間の関係は険悪なものとなり、二人は10年間にわたって対話を絶った[17]。フーコー同書の1964年の縮約版・普及版においては、デリダが批判したデカルトに関する記述が削除された。デカルトについて論じた箇所が英語で読めるようになったのは、全訳が2006年に出版されてからであった。
フーコーは1972年の『狂気の歴史』第二版に付録として追加した「私の体、この紙、この火」でデリダに反論した。その後デリダは、1991年の論文「フロイトに正義を――精神分析の時代における『狂気の歴史』」において、再び考察を加えた。この論争は、多くの研究者の興味を集めた[18]。
ストーンとの論争
1982-1983年、イギリスの歴史学者ローレンス・ストーンとミシェル・フーコーの間で論争が展開された。1982年12月16日のニューヨーク・レビュー・オブ・ブックスでストーンは『狂気の歴史』の書評を発表した[19]。これにフーコーが回答および質問をし、そしてストーンが再回答した[1]。
フーコーの回答と反論
フーコーはストーンの書評に対して以下のように回答、反論した[1]。
- 1)ストーンは私が1650年を境に「狂気を恥ずべきものとし、専門的な医師の管理下で社会から強制的に隔離する」という新原理が登場したとする説を帰すが、私は、監禁制度は1650年にではなく、16世紀から17世紀を通じて展開され、それは本質的に医学の枠外でのことで、目指された結果は部分的に治療的なものに過ぎなかったと論じた[1]。
- 2) ストーンは、私が監禁制度は「専門家たちが自らの権力を掌握し、人々を監禁するために企てた陰謀」の結果であったと考えているとする。しかし、私は「陰謀」と言っていない。私は、専門化された精神医学と、監禁施設の枠組みの中で医学的権威を行使しうると主張する「精神病医[20]」の集団の成立の経緯の実態と複雑さを明らかにしようとした[1]。
- 3) ストーンは、中世でも狂人が隔離されていたと異議を唱える。しかし、私はいくつかの例を挙げ、中世で狂人が時に監禁され、動物のように見せ物にされていた事例についても指摘した[1]。
- 4) ストーンは、「狂人は隔離されていたわけではない。なぜなら、鎖につながれた彼らを見物しに観光客が訪れていたからだ」と述べる。しかし、人々を監禁し、見せ物にするという行為が、隔離されていないことの証明になるか。私はフランスとイギリスの資料で見せ物にされた狂人たちへの訪問について言及しているが、彼らは隠されると同時にさらけ出されてもいた[1]。
- 5) ストーンは、「国によって収容の度合いや体制に大きな違いがある」と論じ、イングランドは民間施設を、フランスは国が支援する施設を主としてきたと指摘する。私もフランスとイングランドとの違いを強調した。イングランドでは、宗教組織、法制、諸制度、そして人々の意識が、民間主導による取り組みに対して大きな余地を与え、テュークの活動もその系譜に連なる長い伝統について指摘した。フランスでの全ての事柄が国家の管理下にあったと考えるのは誤りだ[1]。
- 6) ストーンは、貧困者の収容は主に17・18世紀に、精神障害者の収容は19世紀に行われたと論じる。私の著書は全体として、貧困者を対象とした収容形態から、医学的治療を伴う収容へと至る緩やかな変遷を扱っている。ストーンは、私の論旨を繰り返しつつ、それを反論の形へと歪曲している[1]。
- 7) 私は「狂人の処遇」をハンセン病患者の処遇と比較していない。私は、使われなくなったハンセン病療養所の一部が別の目的、とりわけ17世紀や18世紀においては治療的側面が極めて限定的であった「隔離」の目的で利用されたとは指摘した[1]。
- 8) ストーンは、私が学童、貧困層、犯罪者、狂人の処遇を同じ「概念的枠組み」に当てはめたと非難し、過去200年で貧困層の境遇は改善し、子供たちも「少なくとも1960年代までは」良い教育を受けるようになったと強調する。しかし、 私は同書で学童や教育の問題に言及していない。私は、狂人、犯罪者、貧困層に関わる実践の論理を理解しようとしたが、それは子供や19・20世紀の教育状況とは関わりがない[1]。
- 9)上記(2)での医師たちが「大いなる監禁」の背後にいたとする説について立ち返る。ストーンは、社会が監禁費用の負担を望んでおり、家族や周囲の人々から社会的要請があったと論じる。実際、フランスでの行政的監禁の手段の一つであった「国王密書」は、多くの場合家族によって請求され、ビセートル病院での監禁の費用負担も求められた。しかし、そうした請求を行い、その後の維持費を負担しようとしたのが「裕福な家庭」だけであったなどと考えてはならない[1]。
フーコーはさらに、ストーンの批判は、私が述べたことを私が言わなかったかのように装いつつ繰り返し、私の言葉を逐語的に逆手に取り、私が主張したかのように仕立て上げる。著者の業績を尊重することによってのみ批判が「性急なジャーナリズムの悪弊」に陥るのを防ぐ。出版後20年経てもなお、冷静であるべき人物によって歪曲がなされるという事実は、狂気の問題がいまだに激しい情熱を帯びていることを示している。狂気は人の理性を曇らせる作用を持つものであるがゆえ、狂気に関する議論は注意深くかつ慎重であるべきだ[1]。以上が、フーコーの回答であった。
ストーンの再回答
これに対してローレンス・ストーンは以下の再回答をした[1]。
- 私たちは誰も無謬の人間ではないし、フーコーのように卓越した地位にある者は、自分の考えが合理的な批判的精査にさらされることを期待しなければならない。また、フーコーを理解するのは簡単ではない。ある批評家は「フーコーの曖昧で傲慢でセンセーショナリズム的で不透明な言説形態では、私的な迷宮への冒険であり、読者は自分自身を失う可能性がある」と述べた[1]。
- 知的変容の根底にあるとされる言説の体系的構造は、記録によって明らかになる歴史的展開の現実と、必ずしも整合しない。つまり、事実が常にその理論を裏付けるとは限らない。フーコーは「大いなる監禁」といった洞察力のある概念を提示する一方で、年代の特定、類型化、因果関係の説明において誤りを犯しており、仮説を立証するために必要なデータが不足している。例えば、フーコーは18世紀に、犯罪者と狂人との同居が、犯罪者に対して残酷だと見なされていた状態から、狂人に対して残酷だと見なす状態に移行したという仮説を立てた。歴史家から見れば、こうした変化を裏付けるには、わずかな引用や、両者が隔離されていた事実だけでは不十分であり、多くの証拠が必要だ[1]。
- フーコーの論は他者によって流用されやすい。例えば、「狂気をもたらす(疎外する)存在としての医師」というフーコーの指摘は、「制度化された精神医学は、科学的根拠が疑わしい専門家集団が権力と威信を求めて画策する陰謀に過ぎない」と主張したロナルド・D・レインやトーマス・サースらに確信を抱かせた。フーコーはそのような説明を行なっていないが、彼の著作は論理的にそうした説明を導き出す。同様に、彼は隔離者のなかに学童を含めていないが、英米の追随者はフーコーに依拠して学校を抑圧的な制度と見なした[1]。
ストーンは書評でフーコーを以下の二つの点を明確に示していなかったために、不当な扱いをしたと認める。
- 第一に、フーコーの独創性は「構造主義的」な説明様式にあること。フーコーは、人間、専門職や官僚組織がいかに独自の利害や利益で動くか、彼らの職業意識といった事柄ではなく、人々の思考の構造的なあり方、すなわち「言説」の様式に関心を寄せている[1]。
- 第二に、国際的な思想潮流のフーコー主義(Foucaultism)の問題[1]。フーコーがフーコー主義のすべてを承認しているわけではないだろうし、自身の著書の波及に対する責任については議論の余地があるとしても、フーコーはそれらを否定する言動をとってもいない。フーコー主義者は、精神障害者に対する道徳的ケアや疾病への医学的アプローチの変遷の背後には人道主義的あるいは啓蒙主義的な動機はなかったとするフーコーの主張を取り上げ、精神科医や医師に関する社会学的「陰謀論」を提示し、また、刑務所、精神病院、一般病院における「大いなる監禁(great confinement)」に「学校」を付け加えた[1]。
- フーコーの著作のフーコー主義への影響についての例には以下がある。フーコーは19世紀後半の精神医療の改革者が抱いていた博愛的な動機を否定する[1]。フーコーはテュークの施設では「宗教的・道徳的雰囲気」が押し付けられ、狂気は治癒されるのではなく管理され、罰と結びつけられるとし、テュークの核心は「監視と審判」にあると酷評する[21][22][1]。フーコーは、改革された精神病院を、家父長制やブルジョワ的家族の構造と結びつけて論じている。フーコーは、フィリップ・ピネルの精神病院も「道徳的な画一化と社会的断罪の道具」とし、ピネルの博愛主義的かつ解放的な事業は「医学の司法への、また治療の抑圧への転換」であったとし、「博愛主義は怠惰への断罪しか存在しない場所に、病気に対する慈愛の兆しを見出しているにすぎない」と酷評する[23][1]。さらにフーコーは「医学的人格」の権力は科学から「単なる仮面、あるいはせいぜい正当化の根拠を借りてきたにすぎない」とし、医師は「奇跡を行う者[24]」あるいは「疎外をもたらす存在として、精神分析の鍵であり続けている」と述べる[25][1]。また、フーコーは「病の深淵――それこそが病そのものであったもの――が、言葉の光の中に浮かび上がった。その光は、サドの『ソドムの百二十日』や『ジュリエット』、ゴヤの『戦争の惨禍』を照らし出したものと同じ光である」と述べる[1]。ここで啓蒙主義は、人間の理解や感性の進歩をもたらすのでなく、サドの支配、陵辱、拷問といった性的空想と結びつけられる[1]。富裕層が貧困層のために病院を建設するという慈善的な資金投入について、フーコーは富者に有用な知識の生産のためであり、病院において「病」は本質的な同一性を失うと語る[26]。こうした言説が、医療に関するフーコー主義者による陰謀論を招いたとストーンは指摘する[1]。
ストーンは、このようなフーコーの「支配と統制」のモデルは、不明瞭な構造主義的言説理論に基づいており、あまりに包括的で、事実上無意味だとする[1]。このモデルではグラーグ(ソ連の強制収容所)における強制労働から、子供に歯磨きを教えることまで、あらゆる事象が含まれうる。社会生活は、影響・形成・誘導・強制といった社会化を伴うものだが、フーコーにおいて社会統制はどこで終わり、社会化はどこで始まるかは不明瞭で、社会関係を権力関係に還元する構造主義的説明では、知的・道徳的・物質的な細かな差異の識別が不可能になり、あるいは議論の範囲を狭める[1]。このモデルは歴史の登場人物を「支配者」と「被支配者」に単純化し、社会を二つの対立する集団に還元し、歴史的プロセスを過度に単純化し、社会システムの多元性や、人々の精神を形成する国家、教会、家族、仲間集団といった多様な影響力を無視する[1]。また、支配者が自らの意志を押し付けることに成功したという根拠のない前提を置き、かつ被支配者の文化が持つ強さや自律性を過小評価することで、支配層を含む社会全体が多元的であり、その目的において分裂している可能性を排除している[1]。
このようにストーンは一部を撤回した上で異議を再提示し、以下、細かな論点について述べる。著書のどの箇所でそうした表現をしているかというフーコーの質問への回答である。
- 恥ずべきものとして隠されるべき狂気については、同書で「狂気の恥ずべき乱脈さ」、「監禁は非理を隠蔽し、それが引き起こす恥を露呈させる」とある[27].
- 年代特定については、「『監禁』の最初の瞬間…、1656年4月27日の王令によって総合病院が設立された」「総合病院の設立から…18世紀末まで、理性の時代は監禁された」「古典主義が監禁を発明した」「17世紀の大監禁と同じく…」と同書で説明される[28]。
- 16世紀イングランドにおける貧困層の監禁に関する断片的な記述が1ページあるが、そこから得られる情報はほとんどない[29]。
- 中世における精神病患者の監禁については、詳述されているフランス語版においても、これがフーコーの全体的議論において何らかの役割を果たしているとは思えない。「隠されながら同時に晒される」とはどういうことなのか、私には理解できない意味不明な矛盾だ[1]。
- フランスとイギリスの違い:18世紀イギリスにおける私立精神病院の急増と、フランスの国営精神病院との違いについて本格的な議論は見当たらない[30]。
- 私の意見では、証拠は必ずしもその主張を完全に裏付けているとは言えない。
- ハンセン病患者と狂人の処遇について、「ハンセン病患者は世界から、そして目に見える教会共同体から排除された」と述べられ、やがてハンセン病は姿を消し、ある空白期間[31]を経て、狂人がかつてのハンセン病療養所の一部に収容され、「排除の定式が繰り返される。2、3世紀の時を隔てて、奇妙なほど似通った形で。貧しい浮浪者、犯罪者、そして『精神異常者』が、かつてハンセン病患者が担っていた役割を演じることになる」「ハンセン病療養所に代わって、精神病院が登場した。かつての破門の儀式が、生産と商業の世界において復活した」と説明される[32]。
- アメリカのフーコー主義者は、学校を一種の「監禁」の場とみなす。フーコーが学校を「抑圧の時代」の一部として言及したことはないが、これは彼の思想の典型的かつ必然的な拡張と言える。
- 18世紀のイギリスでは、狂った親族を隔離・収容してもらうために、親族や教区が費用を支払っていたという点については、私たちの意見が一致する。ただし、その主な動機は「恥」の意識にあったことは明らかで、医師が決定権を握るというフーコーのモデルとは異なる。[1]。
ストーンは、撤回した2点を除けば、自分はフーコーの思想を歪曲してはいないとした上で、フーコーは自分の批判の核心部分、すなわち啓蒙思想およびその派生制度・専門職に対する悲観的な評価について回答していないし、フーコーが対人関係や社会関係において媒介的要素として「統制」「支配」「処罰」を繰り返し過度に強調するのは一方的だとストーンは再回答した[1]。
ストーンとの論争の評価
歴史家のウィリアム・ペンカックは、フーコーとストーンとの論争は重要な指標であると評価する[33]。ストーンは過去を複雑な因果関係を通じて説明可能と見なすのに対し、フーコーはそうした関係は不可知であり、我々が理解しうるのは特定の時代の「言説」のみと考える[33]。歴史的断絶や言説分析を重視するフーコーの立場の先駆者には、チャールズ・サンダース・パース、カール・ベッカー、トーマス・クーン、マックス・ウェーバーといった先駆者たちが存在しており、したがってフーコーは彼自身や敵対者たちがみなしたような「知的テロリスト」ではなく、歴史学の伝統を受け継ぎつつ挑発的に提示したとペンカックは指摘する[33]。また、ペンカックは啓蒙主義では秩序と自由は切り離せず、啓蒙主義についてフーコーとストーンの双方が誤った見解を抱いていたと指摘する[33]。
受容と批判
フランスで初版が出版された際、歴史学者フェルナン・ブローデル、文芸評論家モーリス・ブランショは熱烈な賛辞を送っている。
医学
「狂気の歴史」は、精神医学への批判として広く読まれ、反精神医学の文脈のなかでしばしば引用された。フーコー自身は、特に回顧録のなかで「狂気のロマン主義」を批判している。「狂気のロマン主義」とは、狂気を近代医学が抑圧した「天才」がかたちをまとったものとしがちな見方のことである。また、フーコーの読者がときに結論づけるような精神疾患の実体について論じたフーコーというのも正しくない。そうではなく、フーコーが探ったのはいかにして「狂気」が知の対象として制度化されていくのか、また一方である種の権力が介入する先となるのかということであった。精神病院という矯正施設にこそ[34]、この暗黙裡に築かれた知と権力の共犯関係がみてとれるのである。さらにまたフーコーは「狂気の歴史」とは「心理学の出現を可能にしたものの歴史」だと述べている。それは狂気が「人間の顔」を持ち、人間そのものを真理ととらえ科学的対象とするにいたった歴史なのだ[35]。
ニューヨーク大学医学部のジェラルド・ワイスマンは、ニューヨークの路上に何千人もの無力な精神障害者が放り出される悲劇的な事態について、フーコーのピネルや精神病院に対する否定的・悲観的な評価と、統合失調症は病気ではないとするR.D.レインの主張とが組み合わさって生じた副産物であると考えた[1]。
ノルウェーの精神科医E.ファルクムは、フーコー『狂気の歴史』は、精神医学史に対する大衆の認識に影響を与えたが、精神科医の間ではほとんど議論されないとし、1650年から1800年までの狂人に対する「大いなる閉じ込め」が実際に起こったかどうかについて批判的に検証した[36]。
哲学
批判的な分厚い本のFoucault (1985) の中で、哲学者のジョゼ・ギレーム・メルキュー(英語: José Guilherme Merquior)は、知の営みについての歴史としての『狂気の歴史』の価値は―社会的な力がどのように非正常の意味を決定するのか、そして人の心理的異常についての社会の反応というフーコーの定立を侵す事実の誤りと解釈の誤りによって減少されたことを言った。彼のデータの恣意的な選択は、フーコーの言う社会が狂人を賢人として認めた社会―制度的な慣習が罪よりも狂気の方が悪いと考えるキリスト教ヨーロッパ人の文化によって許された社会―であった歴史的な時代の中で、矛盾するもの、刑務所に入らないことを妨げる歴史的証拠、及び非正常の人々に対する肉体的残忍性を無視した。それでもなお、メルキュールは、ノーマン・O・ブラウン(英語: Norman O. Brown)のLife Against Death(1959)のような、フーコーの『狂気の歴史』はディオニソス的な原我の解放のひとつの召還であり;そして哲学者ジル・ドゥルーズと精神分析医のフェリックス・ガタリのアンチ・オイディプス(1972)についての着想を与えたことを言った[37]。
1994年のエッセーのPhänomenologie des Krankengeistes('Phenomenology of the Sick Spirit')の中で、哲学者ガリー・ガッティングはこう述べた[38]。
フーコーのHistoire de la folie[1961]にたいする職業的な歴史家の反応は、一読したところ、分極しているとは言えなくとも、相反する感情をもつように見受けられる、古典古代の私たちの理解のための中心的な重要性となるであろうひとつの「美しい本」とそれを特徴付ける、Annales d' Histoire Economique et Socialeでのロバート・マンドロー(英語: Robert Mandrou)の初期の査読に始まる、それの将来性のある役割の承認が多くある。20年後、ミハエル・マクドナルド(英: Michael MacDonald)はマンドローの予言を確証した:「初期の近代ヨーロッパにおける非正常の歴史について書こうとする者はミッシェル・フーコーの有名な本、『狂気の歴史』の広がった覚醒の中で旅をしなくてはならない。
もっと遅くの裏づけは、「経験主義的な内容とそれらの強力な理論的視野の両方をもって、ミッシェル・フーコーのその仕事は史学史において特別で中心的な位置を占める、」と言うジャン・ゴールドスタイン(英語: Jan Goldstein)そして「時間は『狂気の歴史』をこれまでに書かれた狂気の歴史において最も洞察力のある仕事として証明した」というロイ・ポーター(英語: Roy Porter)を含む。しかしながら、フーコーは「文化の新しい歴史」の先駆者になったにもかかわらず、多くの批判がある[38]。
ケネス・ルイス(Kenneth Lewes)はPsychoanalysis and Male Homosexuality(1995)の中で、『狂気の歴史』は「1960年代の価値観の全般の大転換」の一部として起きたものである「精神医療と精神分析の制度の批判」の一例であることを言った。『狂気の歴史』でフーコーが提示した歴史のことも同様である、しかしトーマス・スザッツ(英語: Thomas Szasz)のThe Myth of Mental Illnessよりも意味深い[39]。
全訳版の訳者ジーン・カルファは、フーコーは社会から正気でない人々を排除する歴史における社会構造の影響の記述のために現象学の用語を用いるが、『狂気の歴史』は現象学から幾らか(彼自身が断固として拒絶した彼へのラベルの)構造主義へのフーコーの哲学的進歩であるという[40]。
脚注
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 An Exchange with Michel Foucault, Michel Foucault, reply by Lawrence Stone, March 31, 1983, The New York Review. < https://www.nybooks.com/articles/1983/03/31/an-exchange-with-michel-foucault/ >
- ↑ (思考集成I 1998),「年譜」pp.14-17, 42-42
- ↑ Madness and Civilization, abridged edition, Richard Howard 英訳, 1967, Tavistock(新版2001,Routledge) (底本:1964年 フランス語短縮版).
- ↑ History of Madness ,Jonathan Murphy and Jean Khalfa 訳 (2006) Routledge , Foreword by Ian Hacking (Google Books).
- ↑ (グロ 1998), pp.21-23
- ↑ グロ(1998年) pp.24-25
- ↑ Pierre Morel and Claude Quétel (1985). Les Médecines de la Folie. ISBN 2-01-011281-4
- ↑ グロ(1998年) p.27
- ↑ Colin Gordon "Extreme Prejudice: Notes on Andrew Scull's TLS Review of 'History of Madness'" .
- ↑ Foucault, M., 1994. Dits et Écrits 1954–1988, vol. I: 1954–1969. Edited by D. Defert, F. Ewald, J. Lagrange. Paris: Gallimard. p. 26.
- ↑ "Cogito et histoire de la folie", Revue de métaphysique et de morale, 68/4 (oct.-déc. 1963), 460-494 ; Derrida, Jacques, 1978. "Cogito and the History of Madness" from Writing and Difference trans. Alan Bass. Routledge. pp. 36–76.
- ↑ Foucault, Michel (1972) (フランス語). Histoire de la folie à l'âge classique [A History of madness in the classical age]. Paris: Gallimard. p. 57. ISBN 9782070282487
- ↑ Derrida, Jacques (1967) (フランス語). L'Écriture et la Différence. Paris: Éditions du Seuil. p. 85. ISBN 0-415-25383-7
- 1 2 Derrida, Jacques, 1978. "Cogito and the History of Madness" from Writing and Difference trans. Alan Bass. London & New York: Routledge. p. 36.
- ↑ "In any event this book was terribly daring. A transparent sheet separates it from madness."
- ↑ "Schultz, W.R. & Fried, L.B., 1992. Jacques Derrida: An Annotated Primary and Secondary Bibliography. London & New York: Garland."
- ↑ Khalfa, J., 2006. "Introduction" from M. Foucault History of Madness. Translated by J. Murphy and J. Khalfa. Edited by J. Khalfa. London and New York: Routledge. p. xxiii.
- ↑ Boyne, R., 1990. Foucault and Derrida: The other side of reason. London: Unwin Hyman. p. 1.
- ↑ Lawrence Stone, “Madness,” The New York Review of Books (December 16, 1982). < https://www.nybooks.com/articles/1982/12/16/madness/ >
- ↑ alienists 精神科医の古風な表現
- ↑ 以下、ページ番号は英語版の縮約版である(全訳の英語版は当時まだ出版されていない)。ただし、フランス語原著も参照されているので、詳細は原文を参照のこと。ここでは原著を確認する便宜のために頁番号も表記する。
- ↑ p. 244,246,251
- ↑ p. 259,266,46.
- ↑ thaumaturge タウマトゥルゴス
- ↑ p. 269-271,275,278
- ↑ 「貧者に対する慈悲は、富者に適用可能な知識へと変容する」「医師の眼差しとは、自由主義的世界の計算された交換における、ごく些細な節約にすぎない」「文明と同様に、病院とは人工的な場であり、そこに移された病は、その本質的な同一性を失う危険にさらされる」;p.84-85,17.
- ↑ p. 225,pp. 162-163
- ↑ (46-47頁)(64-65頁)(404頁)
- ↑ 65頁
- ↑ フランス語版でも67~74ページで簡単に触れられているだけで、483-496ページはテュークとピネルに関する記述であるとストーンは述べる。
- ↑ フランス語版16-18ページでは、性病患者がその間を埋める存在として描かれる。
- ↑ pp6-7,57.
- 1 2 3 4 William Pencak (1997). Foucault stoned: Reconsidering insanity, and history. Rethinking History, 1(1), 34–55. https://doi.org/10.1080/13642529708596301
- ↑ Michel Foucault, The Order of Discourse, inaugurary lesson at the Collège de France (published in English as an appendix to the Archeology of Knowledge)
- ↑ グロ(1998年) pp.36-37
- ↑ Falkum E. Asylets historie--historien om "den store innesperringen"? [The history of the asylum--the history of "the great confinement"?]. Tidsskr Nor Laegeforen. 1999 Dec 10;119(30):4519-23. Norwegian. PMID 10827496.
- ↑ (Merquior 1985)
- 1 2 (Gutting 1994):
- ↑ (Lewes 1995)
- ↑ (Khalfa 2009), pp. xiiv - xxv.
参考文献
- Gutting, Gary (1994). “Michel Foucault's "Phänomenologie des Krankengeistes"”. In Micale, Mark. S.; Porter, Roy. Discovering the History of Psychiatry. Oxford University Press. pp. 331 - 347. ISBN 9780195077391
- Khalfa, J. (2009). “Introduction”. History of Madness. NY: Routledge. ISBN 978-0-415-47726-0
- Lewes, Kenneth (1995). Psychoanalysis and Male Homosexuality. North vale, New Jersey: Jason Aronson Inc. pp. 201. ISBN 1-56821-484-7
- Merquior, José Guilherme (1985). Foucault. Fontana Press. ISBN 0-00-686226-8
- 和書
- グロ, フレデリック 著、露崎俊和 訳『ミシェル・フーコー』白水社〈文庫クセジュ 802〉、1998年。ISBN 4-560-05802-4。
- 蓮實重彦・渡辺守章監修、ミシェル・フーコー 思考集成I『狂気/精神分析/精神医学 1954-1963』筑摩書房、1998年。ISBN 4-480-79021-7。