王貫峠
| 王貫峠 | |
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| 所在地 | 島根県仁多郡奥出雲町/広島県庄原市 |
| 座標 | 北緯35度05分16秒 東経132度54分31秒 / 北緯35.08778度 東経132.90861度座標: 北緯35度05分16秒 東経132度54分31秒 / 北緯35.08778度 東経132.90861度 |
| 標高 | 637[1] m |
| 山系 | 中国山地 |
| 通過路 |
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| 映像外部リンク | |
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| ライブカメラ | |
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地理
北側が島根県仁多郡奥出雲町上阿井[2]。南側が広島県庄原市高野町和南原。国道432号が峠道になる。
気候は山間部特有のものであり、冬季は雪で通行止になることがある[2]。
中国山地の分水領をなしており、北側に斐伊川水系阿井川、南側に江の川水系和南原川が流れる。北側が高低差約100 mと急勾配なのに対し南側は緩やかな勾配の片峠である[3]。これは阿井川が和南原川流域を河川争奪したことで出来た地形であり、峠付近はその結果できた風隙であると考えられている[3]。分水界には数m厚の砂礫層が残っている[3]。
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沿革
先史/古代
この地には縄文時代の遺跡がある[3]。島根県・広島県が公開する資料ではそれぞれ別の遺跡であり、島根側からは縄文土器・石斧・獣骨が出土し遺物散布地と区分[5]、広島側は出土例の記載はなく遺物包含地と区分[7]している。
天平5年(733年)完成した『出雲国風土記』には以下の記載がある。
これは、出雲国仁多郡の郡家から53里のところに備後国恵宗郡との境があり、常時には関はないが政が起こった場合に柵をまわした関が置かれた、という意味である[9]。奥出雲町では、この関がこの峠であり古代よりこの道は主要往還であった、と考えられている[9](比布山 = 比婆山のため別の道である説もある)。
後鳥羽伝説
承久3年(1221年)承久の乱に敗れた後鳥羽上皇は隠岐に配流された。そのルートは播磨から出雲街道(現在の岡山県から島根に入る街道)を通ったと『承久兵乱記』に書かれているが、この地方では別の説が存在する[10]。
- 長井浦部(現三原市)→吉舎(現三次市)→総領→庄原→比和→高野(以上庄原市)に入る。そこで10か月間滞在し峠を超えて出雲へ向かう[10]。
往還
この峠道は広島側では雲伯路[11](阿井越[2])、島根側では安来阿井往還[12]と呼ばれていた。
中世には尼子氏と毛利氏との対立の中で政治的・軍事的に重要な道となった[12]。近世、広島藩側には国境番屋が置かれていた[11]。
近世、中国山地ではたたら製鉄が盛んになるとこの道は鉄の交易路となった[11][12]。その製鉄業者の中に、奥出雲御三家と呼ばれた櫻井家がいた[9]。この櫻井家は元々安芸国可部にルーツがあり、鉄を求めて備後国高野、のち王貫峠を越え出雲国阿井に移り住んたという[9][13]。
伊能忠敬が測量のため備後からこの峠を超えて出雲に入っている[9]。
文化
脚注
- ↑ “地理院地図”. 国土地理院 (2018年6月29日). 2019年2月1日閲覧。
- 1 2 3 4 “王貫峠”. コトバンク. 2019年2月1日閲覧。
- 1 2 3 4 5 6 7 “王貫峠”. 徳山大学総合経済研究所. 2019年2月1日閲覧。
- 1 2 3 4 “王貫峠(おうぬきとうげ/比婆郡高野町)その①”. 菁文社. 2019年2月1日閲覧。
- 1 2 “王貫遺跡”. マップ on しまね. 2019年2月1日閲覧。
- ↑ “湯村”. 広島県教育委員会. 2019年2月1日閲覧。
- ↑ “庄原市(旧・甲奴郡総領町,比婆郡西城町,東城町,口和町,高野町,比和町を含む)”. 広島県教育委員会. 2019年2月1日閲覧。
- ↑ “島根県史 5”. 島根県. p. 618-621 (1926年). 2019年2月1日閲覧。
- 1 2 3 4 5 “第2章 奥出雲町の歴史と景観の現状” (PDF). 奥出雲町. p. 618-621. 2019年2月1日閲覧。
- 1 2 3 “王貫峠(おうぬきとうげ/比婆郡高野町)その①”. 菁文社. 2019年2月1日閲覧。
- 1 2 3 “雲伯路と新市宿”. ひろしま文化大百科. 2019年2月1日閲覧。
- 1 2 3 “安来阿井往還”. 島根県. 2019年2月1日閲覧。
- ↑ “可部屋の歴史”. 可部屋集成館. 2019年2月1日閲覧。
- ↑ "浅見光彦シリーズ 33 後鳥羽伝説殺人事件". 内田康夫サスペンス 浅見光彦シリーズ. 4 February 2012. 関西テレビ。



